八
快晴だった。暖かくて、空気が乾いていた。
喉はとうに痛んでいるのに、目だけは乾くことがなかった。
彼の身体は綺麗だったそうだ。眠っているようで、そうだと信じられないくらい、いつもどおりの彼だったらしい。
葬儀は親族だけで行うから、と自分は呼ばれなかった。
墓石の前で、一人で泣いていた。乾いた土に涙が染み込んで、蹲っていた地面だけが濡れていった。
あなたはいつも置いて行ってしまう。常に一人きりで歩いていて、しばらくしてから、思い出したようにこちらを振り返る。最後まで追い抜かすことができないままだった。
何の相談もなしに決めて行ってしまうなんて。結局自分はその程度の存在だったのだろうか。好きだったのは自分だけで、彼にとっては何でもなかったのだろうか。
墓石に赤い影が落ちるまで、ずっと座っていた。陽が溢れて滲み出しそうな大きな夕日が、名残惜しそうに沈む頃、ようやく帰ろうと思い始めた。
何の映画だっただろうか。
動き始めた頭が思い出すのは、映画の追体験をするような夢についてだった。夢は記憶を掘り起こして紡がれるのだから、どこかで見たことがあるはずだが、あんなにつまらない映画を見た記憶がなかった。
カーテンを開け、覚醒していく内に、夢の内容は忘れていった。着替えなど一通りの支度を済ませて、ソファに座る。テーブルには持ってきた丼を乗せた。ご飯にツナと刻んだ豆苗、そして卵を掛けたものだ。たまにはこういう朝食も良いだろう。
黙々とする食事はとても静かだ。しかし音楽をかけたり、テレビを流したりすることもなければ、そんな気にもなれなかった。
胸の内を感慨が去来していた。そしてどこかで何かが引っ掛かっているような違和感と、それが判明しないことで釈然としない感覚もある。
不明な感覚に考えを巡らせている時間で、今自分が本当に考えるべきこと、するべきことに時間を回す方が良い。
差し当たっては七瀬梓真の言動を整理し、今後の交渉に役立てることか。骨が折れそうだ。
支度を完了すると家を出た。バスでは一番後ろの座席に座ると、携帯端末で書類作成アプリを開き、記憶を辿りながら情報を書き出していた。
朝休みに教室へ入れば、前方の席に座る伴野と、その前に立つ古宮が話していた。古宮の横には中島もいた。様子から見るに、古宮とは本当に友達になれたのか。良かったな伴野。
挨拶をしてくる相手に挨拶を返し、鞄を自席に置くと彼女たちがいる席へ近寄った。僕が近付くと、向こうから挨拶をしてきたので、また同じように返した。
「いつの間にそんなに仲良くなってたの?」
僕が彼女たちに問えば、古宮が「この前のときから」と笑って答えた。僕は古宮と伴野に会話を続けるように促し、中島の側に寄った。伴野はちらちらとこちらを見てくるが、一切気に留めることはなかった。
僕は端に寄り、中島だけに聞こえる音量で声を掛けた。
「そういえば結局どうだったの? この前の話」
中島もこちらに近寄って話に乗った。
「え? あーもしかして七瀬ちゃんのこと?」
「そうそう」
「んーと何だったっけ……。あ、そうそう思い出した。海の近くには住んでるらしいけど、別荘には住んでないって。お嬢様じゃなかったみたい」
中島には隠していたのか。ならばなぜ僕にはあれほどあっさりと事実を言ったのか? 警戒していた相手であったのに。警戒していないはずの中島には言うことのなかった事実を、なぜ僕には告げたのか。
彼女の思考回路は何かがおかしい。
――羽山秀繕を知っていたから、か?
もしもそれだけで言ったのであれば、やはり彼女と彼の関係性が一体どのようなものなのか、想定できない。
「へぇ、そうなんだ。でも雰囲気がぽいよね」
「如月君もそう思うー? てか何気に七瀬ちゃん気にしてるよね? どしたのどしたの」
中島は興味津々といった様子で尋ねてくる。僕が彼女を気にしていることは広まっても問題なく、むしろ行き渡る方が良い情報なのだが、中島には前回、その前提で話していない。一貫性を持たせるために中島にはぼかしておいた方が良いだろう。
それに中島は彼女との距離が近い存在だ。まだどのように作用するか判断できない。警戒心を上げるだけで、関心を持たれないのであれば意味がない。可能性としてはどちらも上がる場合もあるだろうが、現状で使用するのが得策な手段とは言い切れない。
「まだまだ噂が尽きないからね。真実はどうだったのかって結構気にならない? 結果はどうだったのかなって。あ、良かったらこれからも教えてよ。中島さんが一番詳しそうだし」
僕の提案に、中島は視線を上にして答えた。
「ん~、まあうちのクラスで一番話してるのは私かなあ? 詳しいってほどでもないけど」
「僕も嘘を信じたくないからさ。中島さんも、知るのは事実の方が良いと思うでしょ?」
「まあ、ねぇ~。でも如月君がそんなに七瀬ちゃんのこと気にしてると思わなかったなあ。昨日もお誘いしてたし? 何の話してたのか、あたしも真実知りたいかな~」
中島はふざけた様子でにやりと笑った。
欲求を向けてくる人間はありがたい。手綱にしやすいからだ。
僕はにっこりと笑った。冗談を混ぜながら、声を潜めて言った。
「じゃLINK交換しない? 中島さんだけに教えるから」
すると中島はいつもの人懐こい笑みでではなく、内側から声を響かせるように笑った。
「あははっ。良いよ! やろ!」
意識の端で、彼女の中に自分と似たものを見出していた。彼女の場合は、日々の娯楽として情報の売り買いをしている。しかしそれを相手に不快と認識させることが少ない。ある種、天性の才能だと言えるだろう。
僕はあくまで冗談として言った。
「だから他の人に言えばすぐに分かるからね。あ、中島さんが漏らしたんだな~って」
「秘密なら漏らさないよ! 秘密じゃなかったらみんなに言っちゃうけど」
彼女の言葉が、彼女の中では真実として言っているのは分かった。それでも情報の商人に、僕は決して不都合な真実を告げることはない。商人が丁寧に扱った商品でも、買い手が同じように扱うとは限らない。
その意を示すように、僕はふざけて言った。
「ほんとにー?」
「うんうん。ほらほら振って」
それでも彼女は承認し、懐から端末を取り出した。
「はいはい」
こちらも端末を取り出し、中島の連絡先を手に入れた。これで、七瀬梓真に関する情報の入手先が一つ増えた。
放課後はいつものように生徒会室にいた。本日も仲良く雑用の押し付け合いを終えて、自分は高みの見物をしていた。
頬杖をついて、机上の一点を何も考えずに見ていた。
「先輩、考えごとですか?」
黒澤が珍奇なものを見るように言った。
そこで我に返った。明瞭ではないが漠然と、確かに考えていた。邸宅に赴き、そこで一体何ができるというのか。七瀬梓真の性格を踏まえた上で、どう攻略していくべきなのか。
自覚するよりも先に、生返事をしていた。
「んー? そうだね、そうかも」
「何かお困りですか?」
大いに困っている、が困難を含めた楽しみを易々と手渡す趣味はない。楽しくもない困りごとなら好きなものを取って行ってくれれば良いけれど。
「どうしたら先生から雑用を押し付けられないか考えてた」
杜撰に答えれば、阿部がぶっきらぼうに、かつ溜め息混じりに言った。
「カイチョーがしっかりと断るべきなのでは」
ふざけているときは皆、僕を会長と呼ぶ。彼女は丁度雑用と戦っている。彼女と古賀の、僕を抜いた二年生組が敗北し、書類製作を担当しているので僕への風当たりが強い。
「先輩は慈悲深いお方なのです!」
信心深い盲目の岩田が僕を庇った。しかしこちらは別に必要としていない。
「うん、まあ雑用は受けておいた方が評価にも繋がるし、後々融通を利かせてもらえたりして動きやすいからね。だから押し付けられない未来はなく、さっきのは冗談なのです」
僕が庇護を払いのければ、古賀が盛大な溜め息をついた。
「お前の冗談は色んな意味で面白くねえ」
「わかる」阿部が同意した。
「へえ。そんなに雑用やりたかったんだね」
僕が笑えば古賀が渋面を作った。
「ほーら面白くない!」
「言ったのはこっち」
「きったねぇぞ阿部ちゃんよお!」
阿部と古賀で、醜く罪の擦りつけ合いをしていた。僕が断罪を下した。
「同意も同罪」
「ざまぁ!」
「量刑が同じとは言ってないけどね?」
古賀は尻尾を股に挟んだ犬のように、ぶるぶると震えた。
「では一体何にお悩みなのですか? 不肖岩田、尽力致します!」
ここで正直に「七瀬梓真のこと」と答えて得られる結果は、自分の意に沿わない。
僕が彼女を気に掛けているのは流布したい事実だが、この生徒会内でそれを発言しても意味はない。彼らは噂などを吹聴する人間ではないからだ。それどころか本気だと思われ、古賀にいたっては揶揄いのネタにするだろう。
つまり杜撰な「お悩み」を作り上げなければ。
「残念ながら岩田君は一番答えから遠いんじゃないかな」
「え」
「夢ってどうして見るんだろうってね。思って」
「む、むむ……」
岩田が考え込めば、阿部がつっこんできた。
「それは睡眠の? それとも人生の目標として?」
「睡眠の方だね」
古賀が面倒臭そうに答えた。
「記憶の整理整頓だろ」
「うん、だからそれを踏まえた上でどうして見るのかなって」
「哲学か~? お前が言うと、顔では許されても性格上あり得ない」
「へえ? そんなに雑用が好きだなんて、パシリにでもなりたいの?」
「ほらみろ! そんなこと言う奴が哲学なんてありえねー!」
古賀は喚いた。パシリは需要があるので、立派に活用してあげよう。
意外にも黒澤が同意を示した。
「確かに、ここに入る以前での先輩のイメージなら、星空の窓辺で詩集でも読んでそうってメルヘンな感じでしたけど、今のイメージでは、六法全書の角を笑顔で相手の頭に強打しててもおかしくないなって思います」
六法全書は持ってないな。
それにしても彼女のイメージはどちらも酷い出来だ。この顔がメルヘンに合うと? 大体、僕が直接暴行するのも基本的には有り得ない。
「黒澤クン。僕は先輩としてとっても悲しいな。そんな風に指導しているつもりはないんだけど」
黒澤は目を丸くした。
隣にいた阿部に耳打ちで尋ねていたが、二人の会話は全てしっかり聞こえた。
「今のって能力が至らなかったという意味なのか、私に失望したという意味なのかどちらですか」
「考えるな。悪魔にとらわれる」
悪魔だなんて。酷い言われようじゃないか。しかし慈悲を以って聞き流した。
「僕が言いたいのは、夢を見ることで『夢そのもの』を記憶してしまうことがあるでしょう? 記憶を整理しているのに、夢を見ることで新たな記憶を得てしまう。これって馬鹿みたいなんじゃないかなって」
「なるほど。棚を片付け始めたのに、中から『アッこれこんな所にあったのか!』となって中の物を表に出してしまい、結局片付いてないどころか、場所を取っているという、アレですね」
大場が閃いたように例えた。言いたいことは伝わる。僕に経験はないけれど。
「そんなところかな」
「その、表に出すことが重要なんじゃないですか?」
引き続き大場が言ったので、僕は問いを返した。
「どうして?」
「気付かなかったら、気付かないまま永遠にそこに埋没しているんですよ? 気付いたからこそ、表に出して、使ったり、捨てたりできるんじゃないですか?」
「一理あるね」
僕が同意したところで、古賀が腕を組んで唸った。目まで閉じて、作業が進んでいない。現在、休憩時間は古賀に適用されていないのだが。
「夢って確かに覚えてるのもあるっちゃあるけど、大半は忘れてんだろ。だから夢って基本は忘れやすい材質なんじゃないか」
「材質……」
材質というよりも特性と呼ぶべきなのでは。
「ああ、分かった。つまり夢はゴミの分別と同じ作業ということか。捨てやすく、処理しやすくするために『夢を見る』という分別作業が必要になると」
阿部も古賀に同調した。二人とも作業が止まっている。もう飽きが来たというのか。集中力が足りないようだ。どのようにして集中力を高めさせ、再開させようか。
やはり恐怖政治が一番手っ取り早く効果的だろうか。
算段をしながら話を流した。
「ふうん、どれも興味深い意見だね」
すると岩田が顔を覆った。
「う……不肖岩田にはやはり、力及ばず、でございます……」
「そんなの最初から分かってたっしょ。夢見てんじゃないね」大場が岩田を窘めた。
「夢ぐらい見させてやれ……」
溜め息とともに古賀が岩田に同情した。変わらず手は止まっている。
――岩田にはあっても、古賀には夢見る時間はない。
僕は深い笑みを描いた。




