七
去って行く彼女の背に声を掛ける。
「待って」
追い付いた僕が鞄を掴めば、振り返った彼女は怪訝そうな顔をした。気にせずに僕は続けた。
「送ってくよ」
「不要だ」
断られるのは分かっていたが、ここはそういう問題じゃないだろう。
「暗いし危ない。来てくれと頼んだのは僕だ。僕にはその権利があるはずだ」
彼女は一瞬不思議そうにしたが、今までよりも大きな声で笑い出した。彼女がとうとう狂い出したのかとも思ったが、バカらしい僕に何か思うところがあったのだろう。
僕を笑っているにせよ、彼女が笑っていることにはなぜか安心できた。ずっと見たいと思っていた。
彼女は笑いを収めながら頷いた。
「分かった分かった。バス停まで行こう」
「車で送るよ」
彼女はあからさまに嫌そうな顔をした。笑った後だから表情筋が解れたのだろうか。随分と素直に表現をする。
「おいおい、羽山邸見学はまだ確定していない。外観を見るのもまだお預けにしといてくれ」
「あのね、梓真さん。梓真さんが思っているよりも、暗くなった世の中は恐ろしいんだよ」
「へえ、そうか。頭の片隅で記憶しておくよ。しかし今回はお互い譲歩するべきだ。私はもう譲れる部分は譲った」
彼女の意思は固そうだった。
今の僕ではどうすることもできないと察して、少し溜め息をついた。……例えこれからの僕でも、彼女が決めたことを覆せるのかは疑問だが。
僕はただ一つ頷いた。
「わかった。行こう」
僕が歩き出して、彼女が後に続いた。逆だ、と思う。……そう、ついさっき追い掛けたのは僕なのだから、それとは逆だろう。
迎えの依頼と位置情報を端末で送りながら、彼女とバス停に向かった。話し始めた当初と違い、雑談にはある程度応じてくれるようになった。多少は、好感度が変わったのだろうか。無関心からは、抜け出せただろうか。
今の時期は、日が沈めば一変するように、すぐに辺りが暗くなる。バスに乗る彼女を見送れば、上手く言えない不安が胸に過った。
どこの何に対する不安なのか。長時間や長期間、一人で居ることは得意ではないけれど、これとは種類は違うだろう。これは、彼女から目を離してはいけないと、強迫観念のような感情がどこかから湧いてくる。
これは、何だ?
観察を続けることは有効ではあるが、必須事項でも何でもない。だが、彼女は一人で放っておけば、何か取り返しのつかないことを勝手に判断して、決行してしまうのだと、どうして、そんなことを……。
――疲れたのだろうか。予想外の事態に対応することは、予想内に対応するよりも体力や精神力を多く消費する。だからきっと自覚が薄いだけで、少し疲れている。
だめだな、今日はいつもより、自己管理が行き届いていない。しっかりしなければ。しばらくして迎えの車に乗り込み、マンションまで送り届けてもらった。
翌日登校すれば早速下駄箱に、きっちりと折られたルーズリーフが入っていた。察しがついたので、そのまま制服のポケットに入れた。
目敏く、校門から顔を合わせていた植木が隣から問う。
「おっ、何ラブレター?」
「まだ読んでないよ」
僕は笑いながら答え、靴を履き替えた。植木はにたにたと笑う。
「いやぁさすが。おモテでいらっしゃる、如月殿!」
「果たし状かもしれないね?」
「じゃー見せろよ」
「ラブレターかもしれないでしょ」
「どっちなんだよ」
不貞腐れた植木に見せ付けるように、前方に居た藤村の元まで寄り、肩を掴んだ。
「植木には教えない」
「ンでだよ」
藤村は突然肩を掴まれ僅かに驚きを見せたものの、植木とこちらの様子を見て笑った。
「日頃の行いが悪いんじゃないか?」
「ヒンコーホーセーだ!」
植木が藤村に詰め寄り、僕は手を放した。藤村は冷笑を続けた。
「お前で品行方正なら品行方正が泣くだろ」
「あ?」
「逃げろ!」
藤村と植木が走り去って行った。対してこちらは歩いて教室へ向かった。まったく、朝から元気なものだ。
「ね、ラブレターって聞こえたけど、ほんとなの如月君?」
後ろから声が掛かった。見れば瑞木が揶揄うように笑っていた。僕は笑って答えた。
「まだ何も見てないよ」
「じゃ読んだら教えてよ」
ねだる瑞木に僕はより笑みを深めた。それだけで彼女は、期待を望む顔付きに変わる。簡単だ。彼女の耳元に手を添えて囁くように言った。
「ナイショ」
彼女は慌てて耳元を押さえた。顔を赤くしていく彼女は硬直したままで、僕はけらけらと笑って一人で歩き始めた。周囲からは山口が寄って来たので雑談を交わした。後ろから「如月君のばか!」との喚く声が聞こえた。
予想どおりの面白さがあるからこそ、予想外のスパイスが引き立つ。七瀬梓真の手紙が楽しみだ。手紙と呼ぶには、飾り気も素っ気もなさそうだけれど。
予想内と予想外の力で日々の櫂は回り、沖へと漕ぎ出して行く。
教室に鞄を置くと、生徒会室へ向かった。
鍵は開いていたが、誰も居なかった。机の上に筆記具などが置かれているので、多分席を外しているだけだろう。好都合だ。
適当な椅子に座り、紙を取り出して広げた。書かれた内容に目を通した。
『如月様
許可を得ました。日程は後日相談いたしましょう。下記に別荘の電話番号を記載します。
電話受付時間 月、水、金 午後六時から九時まで』
一通り読むと内心で喜んだ。これは大きな前進だ。邸内の調査ができる。
そして文面を繰り返し見直していた。用件だけが書かれた文章なのに、どこに面白さを見出しているというのか。受付時間の短さだろうか。それとも彼女から相談しようと提案が為されていることか。紙面に対する文章量、つまり余白の多さだろうか。いや、昨日はあんな物言いだったのに、名前に様まで付け足しているところか。
再び紙を仕舞って、生徒会室を出ようとすると、入室しようとした黒澤と鉢合わせた。
「おはよう、朝から頑張ってるね」
黒澤は少し驚いた様子でこちらを見上げた。
「おはようございます先輩。どうされました?」
「野暮用」
僕が微笑めば、黒澤はこちらを見たまま片足を引いて、道を譲りながら尋ねてきた。
「そんなに嬉しい用事だったんですか」
「かもね。じゃ、お疲れ様」
僕は部屋を出る際に、黒澤の肩を軽く叩いて別れを告げた。こちらが歩き出して手を振ると、黒澤は一度頭を下げ、「お疲れ様です」と言ってこちらを見送った。
僕はそのまま四組へ向かった。
後部ドアから入れば、彼女はまた本を読んでいた。数人がこちらに向かって声を上げたので、彼女は一瞬こちらを見たが、我関せずと再び視線を本へ落とした。
背後から近付き本を見れば、やはり料理の写真が載っていた。
僕はそのまま声を掛けた。
「あれ、やっぱり料理に興味あるんだね?」
彼女は凄い勢いでこちらを振り返り、目を見開いていた。
そんな顔もするのか。
「そんなに驚かなくても」
僕が思わず呟けば、彼女は一度こちらを睨んだが、すぐに綺麗な笑顔を作った。見たことはあるが、向けられた顔に一瞬戸惑った。
「ああ、連絡ありがとうございます。今すぐ参ります」
いつの間にか本を片付けていた彼女は、即座に席を立って教室の外へと出て行った。呆気に取られて見送り、逃げられたのだと気付けば、周囲を別の人間に取り囲まれた。
「如月君どうしたの」
「また七瀬さんに用事?」
「七瀬さんとどういう関係?」
佐村と田代からいくつか問われるが、相手をしている時間はない。彼女がどちらに向かったのか、早く追わなければ。
「みんな七瀬さんのことが気になるんだね」
僕が言えば、彼女たちは表情を一変させて否定してくるが、聞いている場合ではなかった。僕は笑顔で手を振り別れを告げて、教室を出て行った。
とにかく彼女が向かった方へと進んで行けば、遠方で階段を上っていく後ろ姿を見た。背後からこちらが追われている様子はない。安心して歩いて彼女の後を追った。
階段を登り切ったところで、その背に追い付いた。廊下の端へ寄ったので追随した。
彼女はこちらを睨み上げて言った。
「校内で話はしないと言ったはずですが」
僕は笑った。今話を切り出したのは彼女なのに。
「梓真さんはね。僕は言ってないし、同意もしてない」
彼女の眼差しが鋭くなった。
「ならば今後、貴方が話し掛けてきた場合、紹介する約束は解消します」
僕は少し失望した。早々に脅しを使うとは。期待を過度に寄せてしまっただろうか。もう少し面白いものが見られると思っていた。
「そこまでする? というか電話受付時間が短過ぎて掛けられないんだよね。これって相談に必要な内容だから『事務連絡』に値するでしょ?」
彼女は数秒だけ俯きがちに目を閉じた。目を開き再びこちらを見上げる顔は無表情だった。何の感情も宿さない顔だ。
彼女は淡々と尋ねた。
「貴方が電話を掛けられる時間は何時なんです?」
僕の言葉は、確実に彼女を苛立たせるはずの言葉だった。だが彼女は数秒の間にその感情を捨てている。どのようにして、それほど早く感情を切り替えているのだろう。やはり彼女は、何かがおかしい。
「土曜の夕方以降と日曜かな」
「譲歩しましょう。では」
僕が答えれば、彼女は即座に帰ろうとするように頭を下げた。折角ここまで場所を移したのだから、話し合わないのは効率が悪い。慌てて引き止めた。
「待って。折角だしもうちょっと詰めよう」
彼女は静止し、一度視線だけを動かした。すぐにこちらを見直して同意した。
「そうですね。貴方の都合が空いてる日は? この時間に掛けられないということは、放課後は無理でしょうし」
良かった、必ずしも心情を優先するタイプではないようだ。いや、だからこそ彼女の言動には混沌とした印象を得るのだろうが。
感情の切り替えも理解できないが、状況と感情、どちらを優先しているのかも判断し辛い。
そしてそれは現状、会話をすることでしか掴めない。
「ということは火、木は梓真さんが都合悪いんだね?」
「左様です」
「じゃあ日曜でよくない?」
「げっ」
彼女はあからさまに嫌そうな顔をした。
「『げっ』てなに。『げっ』て」
一度だけ苦虫を噛み潰したように彼女は不快を顕にしたが、すぐに真顔に戻って了解を示した。
「分かりました。では、日曜の昼一時で構いませんか?」
「いいよ。今週でも大丈夫?」
「ええ。バス停は分かりますか?」
車で向かうつもりだったが、徒歩でしか敷地には入れないのだろうか。それならば小林が何か一言でも付け加えているはずだと思ったのだが。
「……車で行くよ?」
「車の場合、来客設定をしなければなりません」
来客設定……?
「来客設定ってなに」
「セキュリティ上の都合で、登録車以外が敷地内に入った場合は全て、警報が鳴るように設定されています。それを一時的に解除するものです」
来客設定、ねぇ。本当にあるのかは疑問だが、そういった技術を取り入れている別荘だということであれば、やはりよほど大事な何かを隠しているのか。調べるのも慎重を期した方が良いな。
そして同時に期待値も上がる。きっと調べれば何かが出てくるのだと。
しかしそんな別荘に、彼女を住まわせているのもやはり気になる。羽山秀繕と七瀬梓真はどういう関係性なのか? 一体どんな繋がりがあるのか。
「そんなセキュリティ技術があるんだ……すごいね。でもなんだか物々しいな……。わかった、バスで行くよ」
彼女は頷くとバス停を説明し、別れを告げた。話し合いは終えたし、もう引き止める必要はないので、こちらは大人しくすることにした。
彼女はすぐに踵を返して階段へと向かって行ったが、降りる直前でふとその足が止まった。こちらを振り返って告げる。
「今後校内では二度と話し掛けないで下さいね」
彼女の言葉には感情が乗せられていた。今まで、表情は変化が見られたが、声そのものは淡々としていた。声の調子だけは変わることがなかった。意識的に抑制しているような、そんな印象さえ受けるような。
その彼女の声に、感情の機微が見られた。一体、何が原因でなのか。
「……そんなに嫌われるようなことした?」
彼女はただこちらをじっと見つめた。そしてまた淡々と話した。
「貴方への好感が関係あるのではなく、貴方を取り巻く環境が悪いのです。校舎外では『友達』として対応しますから。では日曜に」
あくまで「嫌い」だとは言わないのか。そもそもまだ「嫌いだ」と言い切られるほど干渉はできていない、か。
「……分かったよ」
僕が言えば、彼女は一切こちらを見ることなく教室へ戻って行った。
僕はその場に留まり少し考えていた。彼女は感情の切り替えが早い。だからこそ振り落とされ、底に蓄積した感情が発露したのだろうかとも思ったが、違ったようだ。「取り巻く環境が悪い」とはどういうことだろう。
人が寄ってくることを指すのであれば、僕にそれさえなければ彼女は警戒することもなかったのだろうか。ならばもっと簡単に……。
いや、考えたとしても詮無いことだ。これで良い。少しの面倒が面白さを齎すのだから。




