四
校内の様子や、手元に入ってくる情報から見るに、そろそろ頃合いだろうか。「七瀬梓真」と「別荘」の噂は充分に巡っているように思う。ようやく本人と、直接話ができる。
出鼻を挫かれていなければ――挫かれていなくとも、必要な作業ではあったがとにかく、御膳立ては済んだ。彼女と話ができる。ずっと、心待ちにしていた。
羽山の方は、どれほど接触を試みようとしてもうまくいかなかった。もちろん立場の違いや、力のなさが影響しているのはある。彼が再びいずれかのパーティに出席しないかと構えていたが、小林の協力をもってしても一向にそんな様子は読み取れなかったし、通勤の様子も不規則な上に隙がないそうだ。偶然は装えそうになかった。
かといって会社の方へ連絡を入れてしまうのは、明らかに不審である。羽山には絶対にこちらへの疑いを持たせてはならない。兄との距離が近いからだ。慎重に進まなければならない。
しかし七瀬梓真は兄とは遠いだろうし、同じ学校の人間という清廉潔白な理由がある。多少の違和感を生んだところで、兄への影響を心配するほどではない。粗があっても良い。その上きっと、何か新たな情報が掴めるはず。なぜかそう、信じてやまなかった。
およそ新天地への期待が高まるようなものだ。過去に開拓したいずれの土地も、めぼしい発展が見込めなかった。だが彼女ならきっと、何かを吐き出してくれるはず。そう思えてならなかった。ずっと、何年も、待ちに待った。耐え抜いた。そろそろ天だって、慈悲をくれても良いはずだ。
朝休みに四組へ向かえば、女子数名の叫びが届いた。彼女はいつもと同じように本を読んでいた。何度か教室の前を通るたびに見ていたが、常に本を読んでいた。何を読んでいるのだろうか。読書という趣味があるのなら、そこから話を広げていくのも可能だろう。
僕が数歩踏み出し、前席の中島が彼女に何かを耳打ちすれば、彼女がこちらを向いた。血色の悪そうな白い顔に、冷涼な視線をしている。
目が合えば僕は自然と笑みが浮かんだ。彼女の側まで行くと、本の中身が見えた。料理の写真――レシピか?
……レシピって読書に使うものだろうか?
いや、それよりもこれは喜ばしいことだ。会話の種が向こうから転がってきた。彼女は僕にとって良い報せを運んでくれる存在だ。
真顔でこちらを見上げてくる彼女に、こちらから挨拶をした。
「初めまして。君が噂のアズマさん、東七瀬さんだよね?」
彼女は片眉を上げ怪訝そうにしたが、すぐに顔を戻した。
「初めまして。七瀬梓真なら私ですが、苗字が東の方をお探しでしたら、私は存じ上げません。では」
彼女は言い終えると、読書を再開した。
校内案内を提案したのはこちらからなのだから、意図的に間違えていると分かっているはずだが、訂正や指摘をしないのか。そこまで考えが及んでいないのか、黙認しているのか。
……もしも後者なら、僕は対応するに及ばない存在だとの主張か?
こちらが考えている間に、周囲の空気が張り詰めていった。周囲の視線を感じたのか、彼女は小さく顔を上げ、周りの様子を見た。
僅かな動揺を見て取れる。ならば、好機か。
「あれ、東さんじゃなくて七瀬さんだった? ごめんね。折角だし梓真さんて呼んでても良いかな? 僕は如月、如月夏樹。実は少し話したいことがあるんだけど……、今のお詫びも兼ねて」
彼女からは僅かに傾いだ眉よりも、全身から「嫌だ」という空気を感じられた。
――面白い。言葉や表情よりも、吐き出す空気が雄弁だ。ならば意外と単純で、御し易いのかもしれない。ああ、この道は希望に溢れている。
彼女は静かに口を開いた。
「どのような呼ばれ方でも構いませんが、ご用件なら、今ここでお伺いします」
「うーん、ここではちょっと聞き辛いことだから、時間を貰いたいんだけど、今日の放課後空いてる?」
僕は自然と笑みが深くなった。
彼女が数秒固まった無表情には、「面倒だ」と書かれていた。しかし返事は違った。
「…………はい。大丈夫です」
無関心に見えて、外聞は気にしているようだ。
嫌なことを飲み込むために必要な水は主に、義務か上回る利益か外聞あたりだろう。だが彼女には明らかに義務や利益はない。ならば外聞を気にした。
顔に似合わず単純じゃないか。
「良かった、じゃあ放課後、正門で待ってて。それじゃ」
僕は手を振って教室を出た。
ようやく、前へ進めるのだ。
放課後、生徒会では伝達や押し付けなどを済ませて出ると、その辺に居た暇そうな一年生の女子生徒にメモと任務を託した。その間にこちらは先に指定したバス停に向かった。
一人で寂れたバス停に降り立った。全くと言って差し支えないほど人はおらず、通り過ぎるのは車両と冷たい風だけだ。良く言えばのどかで、空気は清涼だ。時折届く連絡に返信しながら、後から七瀬梓真が来るのを待つ。
一緒に訪れてもこちらは問題なかったが、先刻の様子を見るに、彼女が嫌がるだろうことは想像に易い。できれば僕が直接与える以外の心理的負担は減らした方が良い。
僕とのやり取りで直接得た負担ならば、僕個人へ返済される。しかし周囲の人間から影響した負担は、僕だけではなく周囲へと分散してしまう。そちらは無駄であるので極力減らしたい、とは思うが、今後の進度によりどう足掻いても避けられない状況にはなるかもしれない。
好意であれ嫌悪であれ、持たれればそれは関心となる。危惧すべきは無関心だ。
付け入るという意味では無関心の方が向いているかもしれない。だが、大抵は無関心の対象に口を滑らせることはない。吐き出させるためには、どんなものでも無理矢理流し込まなければ。感情の高ぶりは、時として正常な判断を損なわせる。
体が冷えてきた頃に、七瀬梓真はやってきた。バスの乗客に、彼女以外にうちの生徒は居なかったようだ。尾行されている様子もない。問題ないだろう。
笑いかけたが、彼女は無表情だった。伴野の人格が憑依してくれれば楽なのに。
事前に調べておいた利用者が少なく会話をしやすい場所として、このファミリーレストランが該当したのでやって来た次第だが、想像以上に活気がなかった。今後も利用できるなら存続してほしいが……細く長く続くことを祈っておこう。
適当な席に着けば、彼女は黙ったまま周囲やこちらを観察していた。時折目を細める姿は警戒心の強い動物のようだ。ならば餌付けをすれば良いか。空腹が満たされることによって得られる安堵と、その安堵をもたらしたということで相手への警戒は下がる。
追加で渡されたものとともに、メニュー表を彼女に差し出した。
「わざわざここまで付き合ってくれてありがとう。奢るから、好きなの頼んで」
「ありがとうございます、お気持ちだけ頂戴します」
彼女は一瞥することなく表を突き返してきた。相当に警戒心が強いな。噛み付かれかねない勢いだ。――よほど空腹か?
返されたメニュー表を眺めれば、デザート欄にはオーソドックスなものが並んでいた。一般的な若い女性なら見た目が派手であったり個性的なものを望むだろうが、ここにはないし、彼女自身見た目などにはそれほど頓着がなさそうだ。
鞄には装飾品の類いは一切ないし、時折覗く耳元にもピアス跡などもない。スカートは膝が完全に隠れるほどだった。流れる長髪も、特に気に掛けている様子は見えない。
ガトーショコラの写真には冬季限定の文字が踊るが、はたして冬季以外までここが保つのかは疑問だな。
「チョコレートは好き?」
苦手でさえなければ良いだろう、と思って尋ねれば、彼女は数秒の間を置いてから答えた。
「……そうですね」
へえ、肯定するのか。なら今後、甘い物は候補に入れておけるな。
店員を呼び注文を済ませると、彼女は無表情に近いまま僅かに不服そうにした。しかし無言で立ち上がってドリンクバーを迎合した。抹茶ラテを選んだようだ。放つ空気と行動が一致しない、奇妙な人だ。自分も倣い、コーヒーを入れてきた。……薄いな。
僕は会話を始めることにした。
「ところで何で敬語なの?」
「理由はありません」
先程に比べれば早い返事だった。ぴしゃりと線を引かれたようだ。
「みんなにも敬語なの?」
「どなたでも同様に」
警戒ゆえに僕にだけ使っている、ということではないようだ。
「へえ、そうなんだ。そういえば、梓真さんは料理が好きなの?」
「いいえ。ご用件はそれですか?」
相手をしたくない、と告げられるようだった。
三石などにもこの素気無い返しでやり過ごしたのだろうか。それにしてはいずれも彼らに激昂した様子は見られなかった。どちらかというと、戸惑っている間にその場を去って行った、という印象がある。
ならば今は、その煙幕を放つタイミングを見計らっているのか。どのような技なのだろう。
それにしても、よほど不審に思われているらしい。
「違うよ。何だか警戒されてるようだから、ちょっと雑談でも、と思ったんだけど……意味なかったね。何もそんなに警戒する必要ないのに」
僕が笑えば、彼女は一転、嘲笑するように小さく鼻息を漏らした。
「一切関わり合いのない方から呼び出されて、訝しまない方が不思議でしょう」
それゆえの警戒か。だがそれだけでこれほど警戒されるものか?
校内案内を承諾してくれていれば、関わりはあった、が今はそれも些事だ。こちらは根回しを済ませたのだから、矛盾しているはずがないとして過信し、彼女自身との出会い方を演出しなかったのは反省点かもしれない。
最初の計画が潰れた時点で練り直すべきだった。話せる機会の訪れが嬉しくて失念していた、という言い訳はさすがに杜撰か。
「確かにそうだね。でも梓真さんほど警戒されるのは初めて。そんなに信用なさそうな顔してる?」
こちらが微笑んで問えば、彼女はあまりに真っ直ぐに僕を見た。その黒い瞳に、どきりとする。頭の端で、彼女は今まで目を合わせることさえなかったのだと気付く。僕は、彼女の眼中にすらなかったのだ。その事実にただ、悔しいと思った。
進む道が楽であるはずはない。けれど、この道に希望はあると信じることでしかもう前へは進めない。残る道はもう彼女だけなのだと、彼女でなければまたこの先何年、何十年待てば良いのか、最早道は潰えたのか、右も左も分からずに、霧の中へ放り出されるしかない。
すると彼女はなぜか、厚く幾重にも包まれた殻の一枚だけを剥がしたように、少しだけ警戒を落とした。
「顔というより存在が、でしょうか。大変人気のある御仁が、一体何の用で私に話があるのかと」
嫌味を匂わせる程度には、関心が生まれた。
――何が空気を変える引き金だった?
一体どれが、どう作用した? 分からない。何が何に触れたのか。
笑うしかなかった。苦笑いだ。彼女は意味がわからない。思わず笑い声が漏れる。こんな相手は初めてだ。
「分かった。話すよ」
仕掛けた罠には掛からず、見知らぬ沼に一人でに嵌っている。おかしな人間だ。
ああ、やりにくい相手だ。
「羽山秀繕の家に住んでるって本当?」
僕が言えば、彼女の目は見開かれた。
「羽山さんをご存知なのですか?」
警戒も忘れた、素の表情と声で彼女が聞き返した。そんなに簡単で良いのか? 先程までの警戒は何だったんだ?
懇切丁寧に噂の種を蒔いていたのが馬鹿みたいじゃないか。いや、芽吹いたからこそ、なのか? 自嘲は普段の笑みに溶けた。
「そうだね、一通りは知ってるかな。だから不思議でね。誰かを住まわせるような人とは思えなかったから」
答えれば、彼女は一瞬我に返ったように見えたが、黙って考え込んだ。纏う空気は複雑そうだった。
その間にガトーショコラが運ばれてきたので、彼女の方へ差し出した。こちらの反応を数秒見た後、状況を理解した彼女は手を合わせて一口食べた。もきゅもきゅと口を動かす様はどこか小動物のようだった。
なぜか意外性を感じて、目が離せなかった。
彼女は飲み込むと、元の温度に戻って淡々と尋ねた。
「なぜ羽山さんを知っているのですか?」
「うーん、なぜ……か。僕が彼を好きだったからかな。あ、建築士として、だよ。日本じゃあんまり知られてないけど、海外では結構売れててね。興味があって、パーティで彼と少し話はしたんだけど、向こうは覚えてないかもなあ」
彼のデザインが興味深い気持ちは多少ある。だが同時に、複雑だった。彼が彼でなければ、手放しに興味を持てたのかもしれなかった。
今度は急速に彼女の纏う温度が下がっていった。視線に冷たさが帯びる。見据えられたその瞳に、再び動揺し、何とも言えない感情が湧き起こる。それはきっと、関心を向けられている証左だからだろう。
少しずつ、進んでいる。これはきっと、喜びなのだろう。




