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 ずっと、兄を探していた。

 消えて居なくなったわけじゃない。実態はある。しかし中身は別人だった。事故をきっかけに、誰かと入れ替わったのだろう。

 兄はどこだろう。本当の兄は、どこへ行ったというのだろう。

 兄さん、貴方はどこにいるのですか。




 十歳のときだった。

 夜中に目が覚めた。トイレに行きたくなった。

 自分の部屋を出てトイレへ向かうと、いつもは通り過ぎるだけの、兄の部屋から明かりが漏れていた。

 兄は先日退院したばかりだった。まだ、ちゃんと寝ていた方が良いのに。眠れないのかな。それとも、電気を消し忘れたのかも。

 用を済ませた帰りに、兄の部屋に寄った。もしも消し忘れているようなら、伝えた方が良いのかな。でも寝ているのなら、起こさずに消した方が良いのかもしれない。そんなことを思って、取手をそおっと下げた。

 カギは掛かっていなかった。ドアはゆっくりと開いた。

 話し声が聞こえた。兄は誰かと話しているようだ。たぶん電話だろう。相手は誰なのだろう。

 聞こえてくる兄の声は、なんだかひどく怒っているようだった。焦っているようにも聞こえた。

 いつもの優しい兄らしくはなかった。それまで怒った姿は見たことがなかった。

 そもそも意識が戻ってから何かが変だ。お医者さんからは、「記憶に障害が残る可能性がある」と言われていたみたいだけれど、それは性格まで変わってしまうものなのだろうか。

 兄は確かに少し記憶をなくしたみたいだった。それでも優しい兄のままだと思って話し掛けたら、なんだかちょっとぎこちなくて、少しよそよそしかった。僕のことまで忘れたのだろうかと不安になったけれど、僕の名前は覚えてくれていたようだ。僕の好きな料理も覚えてくれていた。だから全て忘れているわけじゃないと思うんだけれど、忘れたこともいくつかあったのかもしれなかった。

 兄はまだ何かイライラしているのか、話しながら部屋の中をうろうろとしていた。そしてそれまでよりもはっきりと聞こえる声が届いた。


「家族と暮らしてるなんて聞いてなかった! おまけに兄弟までいる! どうなってるんだよ、どうすれば良い⁉︎」


 悲愴に溢れたその言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが粉々に砕けた。

 ――あれは、悲痛な叫びを精一杯抑えた声のようでもあった。

 一瞬で全てを悟ったのに、何一つとして理解できなかった。フラフラと後ろに下がったときに、取手ががちゃんと音を立てた。

 「兄」がすぐにこちらを振り返った。目を見開いた「兄」の顔は、今までに見たことのない形相だった。僕は指先一つ動けなかった。

 「兄」はこちらまで来るとにっこりと笑って言った。


「どうした、眠れないのか。子供は寝てる時間だろ?」


 何度も見てきた兄の笑顔だったのに、まるで別人のようだった。僕はあまりの恐怖に走って部屋へ戻った。

 布団を頭まで被ってうずくまった。「兄」が追いかけてくるかもしれないと思ったけれど、扉が音を立てることはなかった。

 もう震えていたのか、泣いていたのかも覚えていない。それでも、なかなか眠れなかったことは覚えている。ようやく疲れがまさって寝た後には、悪夢に跳び起きて、結局眠れなかった。

 翌朝からも「兄」はどこか――ある意味で今までどおり――ぎこちないままだった。誰も何も変わらなかったけれど、僕はもう「兄」を兄として見れなくなってしまっていた。

 あの人は誰なんだろう。兄はどこに行ったのだろう。いつ入れ替わったのだろう。父も母も妹も、ずっと気付かないままなのだろうか。それならきっと、知らない方が良い。教えない方が良い。知らないまま過ごしていけるのなら、それが一番に決まっている。

 彼はなぜ、兄のフリをしているのか。兄と成り代わって何をしようとしているのか。僕が疑っていると知れば、僕は――みんなはどうなるのだろう。なら、この疑問は誰にも知られてはいけない。

 言えない。誰にも言えない。僕のお兄ちゃんを返して。




 意識が戻ってからの兄は、交友関係が変わった。

 事故に遭う前から付き合いのあった友人とは、誰とも遊ばなくなったようだ。特にあの日、スキーに行った仲間とは関係を絶ったとさえ思えた。以前はよく色んな人の名前を聞いていたのに、今ではもう誰の名前も言わなくなった。極たまに新しい「シュウ」という名前を聞くが、誰なのかは分からない。

 事故以前に遊んでいた兄の友達は、しょっちゅう家へ来ていたのに、誰も来なくなった。兄の友達はみんな気さくで、よく自分も遊びに混ぜてくれた。それが嬉しくて楽しかったのに、もうなくなってしまった。

 代わりに兄はよく外出するようになった。以前もよく休みの日は遊びに遠くへ出ていたけれど、今は毎日のように課題が、試験が、と言っては、ほとんど顔を合わすこともなくなった。

 兄は口数もどんどん減っていった。両親は「男の子はやっぱりそうなっていくのだろう」と少し寂しそうにはしていたけれど、今更反抗期だなんて。口数が減ることが大人になった証明になるのなら、中学生になればみんな誰も何も喋らなくなるだろう。

 それでも妹とは喋っているのを見かける。口数は妹の方が多いけれど、あまり笑わなくなった兄が、家の中で少し笑うのは妹の前でだけだった。僕も妹だったなら、彼とうまく話せたんだろうか。



 一度、事故後に性格が変わるという事象も調べてはみた。だが、何かが噛み合わない。

 暴力的になる、無気力になるなどということはなかった。見ている分には感情の起伏に異常はなかった。しかし以前よりも、自身の心情や状況を表現することは極端に減った。記憶力が低下していることも、認識に齟齬があることもなかった。むしろ記憶は、実は全てを覚えていることが後々分かってきた。

 以前の兄であれば大らかに笑って丸く収めていたことも全て、淡々と事実を事細かに説明するので、両親はその時初めて妙だとは思ったようだ。よくよく観察すれば、事故以前のことも全て覚えていた。

 だからこそ僕は余計に勘繰ってしまう。事故直後に忘れたと言っていた事象は全て、我々が指す対象が何なのか確信が持てなかったから、誤魔化すための手段として「忘れた」と言っていたのではないか。

 両親と接するときは、以前の兄を装っているのではないか。接する機会が少ないから、両親は綻びには気付かないのだろう。そして明らかに、僕との前でだけは、「以前の兄」ではない。寡黙と呼ぶよりも、気まずそうにする。兄は一度だけやったきり、僕と妹に料理を振る舞うこともなくなった。

 事例としては穏やかになったということや、口数が減るということもあるにはあるそうだ。だが、そういう段階(・・・・・・)ではない、と確信めいて思ってしまう。それはとどのつまり、『家族と暮らしてるなんて聞いてなかった』という、そのたった一言に尽きる。

 「思わなかった」ならば記憶違いで済む。しかし「聞いてなかった」となれば、家族構成を聞いた相手がいて、そしてその情報が間違っていたということを示している。

 ならば誰から聞き、なぜ聞いたのか。何が目的で、どうして兄なのか。

 家の中での姿しか知れない僕は「兄」を観察しながら、それでも核心に迫るような新しい発見はできないまま、数年が過ぎた。

 働き出した兄とは、より一層会う機会がなくなった。




 ようやく大きな情報が掴めたのは、僕が高校生になってから行ったパーティだった。パーティというのは、ほとんどが仕事で父が出席するものであって、基本的に自分とは関係のないものばかりで興味もなかった。しかしたまに、家族の数人が出席することがある。大抵は母だけのことが多いけれど、あの時は珍しく家族全員が出席した。

 そのパーティで初めて見たのは、事故以来見ることのなかった兄の、心からの笑顔だった。その笑顔で話す相手は、「羽山秀繕」――「シュウ」だった。

 身綺麗で明るい髪色に明るい表情をしていて、一見線の細い印象はあるが、モデルのように芯のしっかりした骨格をしていた。今までの兄の友達にはいなかったタイプの人間だった。

 僕はそのパーティで、彼に挨拶と、少し世間話をしただけに終わった。だがそれだけで、兄の笑顔は偶然ではなく、やはり懇意にしている結果だろう、ということは分かった。

 それからというもの、とにかく彼を調べることに力を尽くした。これで何か、新しい情報を得られるのかもしれない。ようやく光が射した。

 彼は兄と同い年だった。大学は違った。一人っ子で両親は他界、現在は建築デザイン会社を経営し、自らも多くデザインを手掛けている。作品の所在は主に海外が多く、公言しているわけでもないようだが、隠しているわけでもないようで、恋愛対象は男性らしい。振り返ってみて、兄と会話する姿に、付き合いの長そうな様子は感じたが、僅かに感じた別の何か――そこに恋愛感情が含まれていたとは思わなかった。

 そして状況から考えて、交流は事故後すぐにあったのだろう。あの時に電話をしていた相手は彼だったはずだ。ならば羽山秀繕が何かを知っているのは間違いない。

 だが基本的な情報以外に、分かることは少なかった。まるで雲を掴むように、有益なものは何も出てこなかった。このまま続けていても新たな情報が得られる見込みはないと、見つめる資料からそんな思いが滲んだ。

 また手詰まりなのか、そう諦めかけた矢先、彼の別荘に女性が現れたとの情報を得た。その女性は別荘に通い始めたのである。恋愛対象は男性で、天涯孤独の人間が、自分の別荘に通わせる若い女性とは、一体どういう関係に当たる? 本当は両性愛者なのか。それとも親戚の人間か。会社の部下? 知人? はたまた何らかの理由で雇った人間?

 何一つ分からないのに、疑問ばかりが増えていった。



 そしてある日衝撃的な出来事が起きた。放課後、職員室へ向かっていた。階段を数段下りたところで、職員室に繋がる廊下からその女性が現れた。距離は少し離れていたが、顔は認識できた。こんな、こんな偶然があるというのか。私服だったから、やはり学生ではないのだろう。しかし実際目にすると、随分と若そうだ。

 様子を見ていると、彼女は不可解な行動を取った。その場で話していた男子生徒二人を睨み付けたかと思うと、すぐに元の顔に戻した。睨んだのは本意じゃなかったのだろうか、睨んだ後に一瞬、苦い顔をしていた。

 しかし睨まれたことに気付いた二人は彼女に詰め寄った。その後、彼女は謝罪をしたのだろう、すぐに頭を下げて去って行った。

 なぜ彼女は彼らを睨んだのだろう。彼らが咎められるようなことを話していたのか。ならば年上であろう彼女が注意をしようと考えたのであれば、不思議なことではない。

 ならば逆になぜ頭を下げたのか理解できない。もしもただ単純に彼らが気に食わなくて睨んでしまったのなら、なぜ睨んだ後で、あの様な苦痛を噛み締めた顔をしたのか。

 初めて見たときから、不思議な人だった。

 そしてその後、学年主任からの報告で転校生が来ることを知った。その生徒の名前は「七瀬梓真」。見せられた顔写真に写っていたのは、あの彼女だった。

 ……ああ、本当に世の中も神も運命も、酷いものだ。随分と遠回りばかりさせられる。必ず、必ず彼女から情報をひきずり出す。もう情報のたらい回しなど、うんざりだ。それでもきっと、核心に近付けるのはほんの少しなんだろう?

 どれだけもがけば良いのだろう。どうすれば一番効果的に情報を得られるのだろう。友人にでも――いや、恋人にでもなれば良いのだろうか。その方が早そうだ。親密なフリを続けていけば、いずれ吐き出してくれるだろう。どれほど時間が掛かるのだろう、いつになれば、どうすれば、自分は本当の兄について知れるのだろう。






 本当に、馬鹿な話だ。

 梓真さん、貴女を利用しようとして近付いたのに。それともこれは、貴女を利用しようとした罰なのだろうか。

 自分で仕掛けた罠に嵌るよりも間抜けで、どうしようもない馬鹿なんだって、どうして今まで気付けなかったんだろう。知っていたら、分かっていたのなら、絶対にこんなことはしなかった。どうして利用しようとした貴女は、梓真さんだったんだろう。どうして梓真さんと出会ってしまったのだろう。梓真さんと出会わなければ、これほど愚かな、醜い自分を知らずに生きていけたのだろうか。

 ねえ梓真さん。どうしてこんなに、救えない馬鹿だったんだろうね。



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