27
やるべきことはやった。下駄箱に紙は入れた。今はただ、待つのみだ。
放課後、ひたすらに正門でひっそりと待っていた。続々と生徒が帰宅する様を眺め、その数はどんどんと減っていった。
ついには誰も帰る人間がいなくなった。……気付かない間に、逃げられたのだろうか。
私はもう一度確認しようと、下駄箱へ向かった。するとようやく、玄関から出て来た如月を見た。
私は嬉しくなってつい、顔を綻ばせて片手を上げた。良かった、逃げられたわけじゃなかった。
しかしそれを見たであろう如月は顔を逸らした。……そうだよな、拒否されないと決まったわけではない。それに、私と如月は手を振るような間柄でもなし、軽率なことをした。
私は手を下げて、反省した。人目がなくとも、恥ずかしいことだったかもしれない。少しだけ項垂れれば、走る音が聞こえた。まさか、逃げられるのか!
せめて無理なら無理だと否定して行ってくれ、と急いで顔を上げれば、如月はいた。目の前にいた。駆け寄ってきてくれたようだ。少し、嬉しさもあり、申し訳なくも思う。
「あ……梓真、さん」
如月は息など乱れていないのに、辿々しく言った。
「『どうしても』したい、話って……何」
「聞いてくれるのか?」
私が内心驚いて聞けば、如月は小さく頷いた。私は安堵で笑っていた。
「これから時間はあるか?」
「大丈夫だよ」
「実は……ここでは確かめてもらえないことなんだ。だからその、一緒に来てほしいんだが、頼めるか?」
如月は数秒固まり、その後不思議そうにしたが、わかったと言って頷いた。
そうして私は如月を羽山邸まで連行した。
如月をリビングに待機させ、その間に仕上げたのは、リゾットだった。出来上がったものを机に運べば、如月は驚いていた。
「梓真さんが作ったの?」
「そうだ。私の中での、区切りが付いた。だから一度、君に確認してもらいたかった。わけも言わずに連れて来て、すまなかった」
「い、いや、別に……良いんだけれど」
私が弁解すれば、如月はどことなく覇気が小さくなった。やはり無理矢理食べさせるのは迷惑だったよな。特に私などが作ったものは、味の保証があるわけではないし。
「君には遥かに及ばないが、とりあえず食べてみてくれないか。判定がほしい」
私が催促すれば、如月は一口食べた。如月は三十二回顎を動かしてから、のみ込んだ。再び如月の口が動く。君は、何と言う。ひたすらに、如月をじっと見つめていた。
「美味しいよ」
如月は続けて、そんなに見ないでほしいと言った。私はそんなことは既に聞いていなくて、ただ先の一言についてだけ考えていた。
嘘ではないよな? それとも社交辞令、お世辞か。邪の化身といえど、不味いとは言えなかったか?
「本当か?」
「うん。シンプルだけどしっかりした味だ」
私は安堵した。良かった。まだ緊張しながらも、更なる評価を求めた。
「その、良ければ改善点だとかを聞きたいのだが」
如月は微笑んで首を振った。なぜかその顔に安堵し、同時に違和感を覚えるという矛盾を抱えた。
「ううん。これはこれで良いと思う。梓真さんには梓真さんの味がある。僕だってあくまで趣味の範囲だし、プロみたいに食べただけで全部が分かるわけじゃないから」
「そうなのか?」
「単純な味付けの話なら分かるけどね。やっぱり工程を見ないことには改善すべきところとか、そういうのはまだ分からないかな」
「そうなのか……」
改めて如月は美味しいよと言って笑って食べた。再び安堵と違和感が胸に渦巻いた。
冷めない間に、自分も食べることにした。そうして黙々と完食し、片付けたあとはまたいつものようにお茶を用意した。今日はなんとなく緑茶にした。
こうして何度、如月と話し合ったことだろうか。いずれも私は不愉快であったり、疑問を抱えていたりした。疑問は今でも残ってはいるが、如月の前で、これほど穏やかな心持ちでいたことはない。
私は話す予定になかったことを、突然話そうと思い立った。
「面白くはないんだが、君に少し話を聞いてほしい」
「なに?」
如月の穏やかに笑う顔に安堵するのは、きっと他の人から聞いていた様子の、どれとも違うからだろう。そしてこの違和感は、僅かであれ好意的な感情が生まれたからか。
「私は以前、自分の作った料理で気持ち悪くなったことがあった。変なものを入れたとか、味が壊滅的だとか、そういうのじゃなかったんだ。両親は美味しいと言ってくれていたから、おかしなところはなかったはずだ。私自身、味として問題はなかったように思う。カレーなんて、よっぽどのことをしない限り、不味くなりようもないだろう? だが、ただただ気持ち悪かった」
如月はまっすぐに聞いていた。私は遠い過去の話を語るような気分だった。
「異物を口に運んでいるようだった。けれどこうして今は、普通に食べられるようになった。そしてそのきっかけをくれた、君に感謝している。君と会うことがなければ、今でもまだ、料理を嫌厭していたかもしれない」
こんな話をするとは、自分で自分に驚いていた。誰かに話す予定など毛頭なかった。面白くもないのに。
如月は真剣に湧いた疑問をこちらに返した。
「そのカレーは、初めて作ったものだったの?」
「そうだな、最初から最後まで自分だけでしたのはそれが初めてだった」
「じゃあ他の状況はどうだったの? 作った理由とか、そのときの気持ちとか」
感情の記憶は強いが、背景や前後関係の記憶は薄かった。朧げな記憶を辿った。
「たしか……母に用事があって、作っておいてくれと頼まれていたときだった。不安だったとは思う。自分で材料を確認して、どうやって切るのか、何から炒めていけば良いのか。大体は分かっていたけれど、それでもいざ自分でしてみるというのは、緊張していたかもしれない」
「今はどういう気持ちで作ってるの?」
今は、どうなのだろう。リゾットを初めて作ったときはやはり緊張していた。中頃は納得できず、憤りを覚えていた。繰り返すうちに要領を覚え、どうすればどうなるのかを理解し始めた。
今は緊張も憤りもない。特筆すべき感情はなく、自分の昼食や夕食を生み出す行為だと思っているぐらいだろうか。
「今は……リゾットだけに関して言えば、ある程度慣れたからな。怯えなどはない。特に何かを考えているつもりはない」
如月は情報を統合するように、少し考えていた。
「じゃあ単純に、当時は自信がなかっただけじゃない? 初めてで、緊張していた。美味しくなるのか、分からなかった」
自信……か。
「料理ってほら、最後の調味料は『気持ち』だ、とか聞いたことはない? 美味しくなれ、とかそういうの」
ああ、真心を込めてどうのこうの、というのはよく聞く台詞だな。しかし如月の口からそんな話を聞くとはな。
如月は前回、調理の際にそんなことを言っていただろうか。記憶にはないが、発言していないだけで、心の内ではそんなことを思っていたのだろうか。……如月が?
「科学としては有り得ないことなのかもしれない。でもその影響を受けるのは人間なのだから、全くの無関係とも思えない。人間と感情は、切っても切り離せるものじゃない。感情は味覚に影響するだろうし、その感情に影響するのはまた、『美味しくあれ』と願う作り手の感情なんじゃないかな」
その見解にも一理あると思った。酷く落ち込んだり、緊張していると「味がしない」なんて話は聞く。私にはない感覚だが、「一人で食べるより、誰かと食べる方が美味しい」だとか。それは確かに、よく聞く話だ。
もしも人数以外の条件が同じで、一人と多数で味が違うのならば、やはり感情や精神が味覚に大きく影響しているのだろう。
「根拠はないけれど、思い込みとかそういうのって、重要だと思うよ」
如月は私の目を見て言った。
「だからただ、これは『美味しいものだ』とか『美味しいに違いない』とか、そういう過信も、時には必要なんじゃないかな」
如月の話を聞いていて、思い当たる節があった。「美味しいに違いない」などと、想定しようとするだけで、拒否反応のような精神的苦痛を感じる。それほどに、私には真逆の感情が占めていた。それは部分的な自己肯定感の欠如、自己否定の意識が強かった。
今よりも、過去であるなら当然、強かった感情だ。いくつも打ち込んだ杭が、抜けることなく刺さったまま、歪に成長していく。見かける度、気付く度、その都度抜いてきたつもりだった。けれどまだまだ、こんな所にもあったのか。
今までの自分では、見つけられなかったものだ。
「……ああ。その言葉を聞けただけで、君を知れて良かったと思う。君と、出会えて良かった」
羽山邸の昼は、明るくて穏やかだ。
「気付いたよ。私は自分で呪いを掛けていた。君が今言ったものと、逆の過信だ。私が作ったのだから、『うまくなるはずはない』、そう思っていた。私が作るものが、どうしたって美味しくなる道理はないと、そう思っていた」
自信はなかった。今でも売るほどあるわけじゃない。けれど、自分にとって負荷の掛かる思い込みは、なくしたって良いだろう。
自由に、空を漂えば良い。
「今は、徐々に理解をし始めて、この材料を入れておけばそれなりに良い味が出るだろうと、そう思うこともあった。そうやって、不味い思い込みが少しずつ剥がれていたんだな」
『自由に。生きなさい』
「ありがとう、また君に救われた」
私は愛しいものを眺めるように、如月の目を見て言った。
「君が好きだよ、如月。恋愛感情だとか、友情だとか親愛だとかの違いは分からないけれど、私は君が好きだ」
如月は口を開けていた。
「例え今後どうなったとしても、今の時点で、君は私の人生において大切な存在の一人だ」
疎ましく思っていた人間を、こんな風に感じる日がくるとは、思っていなかった。
私はもう一度、感謝を示した。
「だから、ありがとう」
如月は目に見えて分かるほど、顔が真っ赤になっていった。顔を両手で覆い、指の隙間からこちらを睨んだ。
「梓真さんはずるい。僕が梓真さんを好きだと知って、平気でそんなことを言うなんて」
私は今、平気な顔をしているんだろうか。そんな瑣末なことを思えば、笑いが滲んだ。
そういえば、鼓動が強い気もするけれど。
「これでも結構、緊張しているんだがな」
「梓真さんは酷い。僕の感情を否定したのに、自分だけそんなことを言うなんて」
「ごめんな、如月。少なからずあの時は動揺していたんだ。好きだよ。君が好き」
そんなに赤くなることなどあるのだろうかとぼんやり思うほど、如月は耳まで真っ赤だった。
「もうそれ以上言わないで」
如月は鋭さを増して、私を睨み付けた。
「僕は梓真さんを利用しようとしたんだ」
「わかってるよ」
「貴女を傷付けた」
「かもしれないな」
「好きになる資格も、好かれる理由もない」
「君に資格があるのか、私が決める。だから話してくれ」
如月は頭を抱えるようにして机に突っ伏した。私は自分の中で事実と認識している事柄を並べていった。
「好きな理由は、助けられたというのは大きい。料理ができるのも、憎らしくて羨ましい。きっと根は真面目なところは好感があって、だけど約束を破ったところは嫌い。気配りができるのに、何度も嫌だと言ったことを繰り返したところも嫌いだ。……あれ」
好きな理由だけを言うつもりが、嫌いな部分も話していた。失敗したな。
如月は顔だけを上げ、防壁のように前後へ並べた両腕の上から、視線だけを覗かせた。どこか拗ねているようにも見える。
「君には、嫌いなところも沢山ある。だけど好きなところもできてしまった。その総量は拮抗しているけれど、君は大切な人になったんだ。だから」
言いながら、沢山あると言ったのはさすがに失礼だっただろうかと反省した。
反省していたのは私だったのに、謝ったのは上体を戻した如月だった。
「ごめんなさい、梓真さん」
謝罪を受けながら、私は自分の言いたいことを言った。
「君の話を聞かせてくれないか」
いつの間にか、如月は泣いていた。
「僕も梓真さんが好き」
私は心から笑っていた。如月が滑稽だったわけじゃない。嬉しかった。嬉しかったから笑っていた。如月の言葉で、嬉しくなることがあるとは思っていなかった。
それでも、君が笑えば私が睨み、私が笑えば君が泣く関係というのは、滑稽なのかもしれない。私はきっと馬鹿で、君もきっと馬鹿なんだろう。互いに足りないのはきっと素直さだ。私は受け取りが捻くれていた。君は器用そうでいて、あべこべなんだから、本当は不器用なんだろう。
「好きだ」と言いながら、どうして謝るのか、不思議だった。素直に言うことができない、如月の葛藤が分からないからだ。
だから君を知りたい、話してほしい。そう思うのは、迷惑なんだろうか。
如月は泣きながら笑っていた。
そして長い、長い話を聞いた。
お読みいただきありがとうございます。
主人公視点の話は一区切りとなり、次話以降から如月視点の話になります。




