26-1
今日も落書きはどこにもなく、様子を見るに、もう発生しないように思えた。そして瞬く間に広まった噂は、再び違う噂で上書きされていた。
今度は、彼女たちが悪者にされていた。しかし対象者が複数いるおかげか、火力は弱かった。
私は彼女たちにも、特別なものは何も求めていない。そのままでいてほしい。彼女たちだって、ある種の被害者だ。私という異分子がいなければ、こんなことにはならなかった。私が生きていなければ、こんなことは起こらなかった。そう思うのは、自己の過大解釈だろうか。
加害者を作りたかったわけはない。ただ、穏やかに過ごすことができたら、それで良かったのに。
担任を介し、儀礼的な謝罪の場を設けられ、私はそれを聞き入れたということになった。佐村さんは泣いていた。泣くぐらいなら、やらなければ良かったのに。しかしそれは、私が言える立場ではなかった。私だって同じような間違いを犯した。
謝罪を聞く間、私はできるだけ神妙な顔をして、しっかりと受け止めました、という演出をした。また真顔で聞いていたら、今度は担任を加害者にしてしまうのだと信じてやまなかった。
だというのに、宮原さんは納得していなかったようだ。放課後、人目のある場所で、「もう一度ちゃんと謝罪したい」という名目で呼び出されれば、受け入れなかった私が狭量になる。仕方なく、彼女の後に付いていった。
これが世に言う校舎裏だろうか。校舎沿いに奥まで進んだ、少し開いた一角だった。ひっそりとしていて、手入れはあまり行き届いていない。今度こそ集団での吊るし上げが行われるのかと思ったが、宮原さんとだけの、世に言うタイマンだった。
私を連れて来た宮原さんは、振り返ってすごい剣幕で言った。
「あんた、本当は何とも思ってなかったんでしょ」
私の大根演技は露見していたようだ。したがって今は何の表情も作らずに、彼女の話を聞くことにした。
彼女はまた胸倉を、今度は両手で襟を掴んだ。
「本物のサイコパスなんでしょ。私たちのやることなすこと、全部ゴミ以下みたいに、虫ケラみたいに思ってたんでしょ。そうやって人のこと心の中で見下して、すました顔して、本当に腹立つ」
彼女の誹謗は、確かに私に届いていなかった。それは今も、過去でも同じだった。
私は見下しているのかもしれない。彼女たちを虫けらのように思っているのかもしれない。だったら、何なんだろう。私がそう思っていたとして、それをわざわざ表現しない限りは、何の迷惑もかけていないはずだ。
私自身は別段、そんなことは意識していない。彼女たちに何かを思うほどの興味がない。その興味のなさを、「ゴミ以下」や「虫ケラ」と感じたのならば、それは彼女自身が見出した感情だ。ただ顔を覆っているだけで「泣いている」と思うのか、「照れている」、「絶望している」、「痛がっている」と取るのかは、その姿を見た人間の感想であって、顔を覆っている人間の感情ではない。
だから受け取った感情を伝えられたところで、私にできることなど何もないのだ。
「人のことなんて何とも思ってない! 人の気持ちなんて分からないんだろ! お前みたいな奴人間じゃない!」
これほど直球に、感情をぶつけられることがあるとは思ってもみなかった。貴重な体験だと、思う。
人間じゃなければ、良かったのかもしれない。人間とは違うプロセスで思考し、行動すればどうなるのだろう。
しかし私は人間として生まれ、人間として生きている。人間として生きた結果、見せるべきでない感情は、奥の棚に詰め込んでいくという選択をし続けて生きてきた。見せられる感情だけを綺麗に包装して、必要なときに必要とする人に渡してきた。そしてそれが大人になるということなのだと、今でも思っている。
実際は、棚が溢れ返ったりして、うまくいっていないことの方が多いけれど、それでもそんな人間を目指して生きている。それを彼女は、人間じゃないという。彼女の思う人間と、私の思う人間の理想像は、何一つ噛み合わなかった。
私とは、彼女との反りが合わなかっただけだ。感性や価値観がねじれの位置にある。互いに交わることのない人間だっただけだ。
合わないと分かっているのに、止むを得ず近付いてしまった。それが拒否反応のように、彼女を苦しませるのだろう。私はただ私として生きているだけで、彼女を苦しませたいわけではなかった。
私は宮原さんの手をそっと外すと、ゆっくりと頭を下げた。
「ごめんなさい」
「あんた本当に分かってんの⁉︎ あんたのせいで、如月君が――」
呼吸を乱しながら叫ぶ彼女を、貴重な存在だと思った。
「ありがとう」
それは事前に用意をしていた謝辞ではなかった。誰かが、如月のことを真剣に憂いている、なぜかそのことが有り難いと思ってしまった。彼には沢山、気に掛けてくれる人がいる。
以前にも見た、信じられない汚いものを見る目で宮原さんは私を凝視した。
如月は、どうなったと言うのだろう。自分で遮ってしまったことを後悔した。彼は、未だに元の調子には戻れていないのだろうか。昨日見た、私の前での如月とは、きっと違ったのだろう。
「よければ教えていただけませんか。彼は一体どうしたのか」
顔を歪めた宮原さんは非難した。
「本当何様のつもり? どの立場でもの言ってんの。本気で彼女でも気取ってるわけ? だいたい見たら分かるでしょ。自分では何もしてないくせに、心配する権利あると思ってんの?」
私は一度目を閉じて深呼吸をした。何を、どう伝えるのが最善なのだろう。
私と話すときの如月は苦しそうだ。だが私が居ない場所での如月が、どんな状態なのかを知らない。私の前以外でなら、普通であるのならば、それで問題はない。私と会わなければ済む話だ。しかし彼女の発言から察するにそうではないようで、ならば一体どんな様子なのか。
彼女の言うとおり、自分で見に行けば良いことだ。その行為が問題なく、結果を得られるのであれば。しかし私が接触すれば彼女たちは怒り、如月にもまた、良くない影響を与えかねない。つまり私が直接確認するのではなく、誰かに尋ねるしかない。だがそんなことを尋ねられる相手などいない。もう、目の前で怒りを見せる人物にしか。
「私は迷惑を掛けたのかもしれません。しかしそれが何なのか分からないんです。何が問題だったのか、本当に分かりません。私は彼に謝りたい。貴女にも謝りたい」
宮原さんの怒る理由を知りたい。何に憤りを覚えているのか。私には分からない。自分と違うあなたを知りたい。それは彼女の「怒り」になってしまうだろうか。
宮原さんは一歩退がった。大きく溜め息をついて、片手で頭を抱えた。しばらくして、諦めたように話し始めた。
「……ずっと笑わない。テストの前までは、本当に楽しそうだった。あんたと一緒に帰ってたときまでだよ。でもテストが終わってから、もしかしたら始まったときから、ずっと変だって。笑ってるけど、前みたいに笑うんじゃないって。悲しそうに笑って、時々難しい顔して、何かを考えてるみたいだって。おんなじ時期に、あんたと一切関わらなくなった。なら、あんたが何か言った、何かしたんだって分かるじゃん」
宮原さん自身、直接全てを見ていたわけではないようだ。しかし彼女にとって感じるものがあった。それが私と結び付いた。その怒りが、私に振り下ろされた。
「だからずっと聞いてんだよ。何したの、何言ったんだって」
何をした……か。
思い当たることはある。だがそれだけなのかと問われれば、疑問は残る。私はまだ、如月を何も理解していない。彼が何を苦しみ、何を悲しんでいるのか。そもそもが、なぜ私と関わってしまったのか。
「彼の考えを、否定しました。それは勘違いだと、気のせいだと言いました。それが唯一思い付く原因です。ごめんなさい」
私はただ、自分が思い当たる原因だけを述べ、頭を下げた。自分にとっては、心からの謝罪だった。だが本当に謝るべき相手は、宮原さんではなく如月だ。私は、如月に謝るべきことはきっと沢山ある。そしてきっと如月も、私に謝るべきことが沢山あるはずだ。
出会うべきでない人間が出会ってしまい、互いを傷付けてしまった。故意でなくても傷付けたのなら、謝るべきだ。それを聞き届けてもらえる間に。
宮原さんは悔しそうに笑った。
「きっと如月君はさ、あんたのことが好きなんだよ。好きなあんたに否定されて悲しかったんだよ。ここのところはほんと、ずっと楽しそうだったよ。今まで見たことない顔してた。妬ましいし、腹立たしいし、羨ましかったけど」
宮原さんの言葉で、徐々に心拍数が上がっていった。数秒前と打って変わって、おかしな動揺をしている。
他人から見て、そう判断されるほど、如月は分かりやすかったというのか。「みんなのアイドル如月くん」だからこそ、振り撒いていた笑顔ではなかったというのか。私と、いるから、楽しそうだった?
その結論は……性急か?
「如月君には、あんたが必要なんじゃない。ほんっと腹立つけど」
宮原さんはこちらを睨み上げた。喉元を咬み千切らんとする勢いだ。
私は馬鹿だな、最低だ。本人の言葉よりも、他人の話を信じてしまうなんて。最低だ、最低だぞ七瀬。
でも、私からの信用が低い如月にも問題はある。日頃の行いと信頼の相関性は、オオカミ少年が証明している。
私はまるで如月のように相手の手を取った。
「ありがとう宮原さん」
「きっっしょいからやめろマジで」
握った手は即座に振り払われた。宮原さんは眉根を寄せながら、口を曲げた。
「あんた、思ってたのと、違う」
辿々しい宮原さんに、疑問を返した。
「どう違いますか」
「思ってた以上〜に変! やばい。頭おかしい。もっと『フン、有象無象どもめが』てのだと思ってた」
「なんですかそれ」
それは一体どういうキャラクターなんだ。高慢? 高飛車? 何にせよ人を見下していそうと。そういうことか。
「あんたほんとヤバい奴だわ。でもあんたみたいなの好きな如月君も本当はヤバかったのかな」
私は視線を逸らした。そこは、如月の名誉のために黙っておく。
「でも、本気で悪いやつじゃなかった。サイボーグだっただけだわ」
「サイボーグの方が優秀ですよ」
私が訂正すれば、宮原さんは小さく笑った。
「ふ。そういうとこも意外だった。たまにリナと話してるの聞いてたけど、変な奴だと思ってた」
「盗み聞きですかぁー。趣味悪いですよ」
「調子乗んなっての!」
蹴られた箇所と反対の腹部を軽く殴られた。私は腹部を抱え込んで、わざとらしく「うっ」と呻いた。宮原さんは僅かに狼狽えた。痣に当てたと思ったのだろう。今度の演技は大根じゃなかったようだ。
ちょっとした仕返しに満足して、私は手を開いて笑った。それを見た宮原さんは怒りに震えた。続いて「最低!」と罵られたが嬉しかった。被虐趣味ではないんだがね、本当に。
宮原さんは調子狂う、と漏らして頭を掻いた。私を睨みながら、面白くなさそうに言った。
「あんたもっと笑えば良いのに」
「笑いたいときは笑ってます」
私は真顔で言った。宮原さんは余計に顔を歪めて、私を睨め付けた。
「やっぱあんた変。おかしい」
私は罵られながらも一礼して、鞄を取りに教室へ戻った。
教室に戻ると、自席に井門さんが座っていた。……なんで?
私に気付いた井門さんは、ニカッと笑って片手を上げた。
「おう、七瀬!……なんだ、あれか、告白帰り?」
内心を吐露するという意味でいえば、告白なんだろうか。
「似たようなものですかね」
「ひゅーう七瀬君、やっぱモテるねぇ〜! ニクいねぇ!」
「やっぱ」と言われるようなことがあったか? と思えば、如月に小間使いにされた女子生徒のことを指しているのだろうか。私に人気があるのではなく、如月人気の余波が迷惑として私の前に現れているだけであり――
「違うっつの」
後から教室に来た宮原さんにゴッゴッ、と二人して頭に拳骨を落とされた。暴力、反対です。私の脳細胞が……ああ……。井門さんは少し抗議していた。
私は小さく頭を振って気を取り直した。井門さんがここにいるという疑問を解決しなくては。
「ところで、ご用件は?」
私が尋ねるとおう、そうだった! と井門さんは席から立ち上がった。井門さんは綺麗に椅子を戻し、片膝をついてこちらに手を差し出した。
「お迎えにあがりました、姫」
私は驚くとともに、瞬間的に湧き上がった吐き気を眉間に集中させた。努めて理性的な挙動で、仏像のように右手を上げた。
「不要です。そのような冗談は。服を汚されたくなければ二度としないでください」
立ち上がった井門さんは本気で不思議そうにした。
「なんで服が汚れるんだ?」
「吐き気がするので」
「そうか。すまん!」
ニカッ! と笑う井門さんが眩しい。あまりに明るい。まぶしい。これでは私の悪辣な対応が浮き彫りに、かつ申し訳なさが心にしみる……。
眩しさに目を細めていれば、井門さんがグッと私の肩を引き寄せた。回された手がいつもと違う、と違和感を覚えれば、それは方向と、身長差によるものだった。
井門さんは少し屈んで私に言った。
「さすがに今日は来るだろ? 部活」
余りに無邪気に尋ねられたので、私は考えることなく、いつの間にかこくこくと頷いていた。




