25
翌日、念のため早朝に登校すれば、何の落書きもなかった。
これで、終わったのだろうか。
普段どおり過ごしていた。しかし満ちる囁きは変わっていた。
え、これヤバくない? 見た? 見た。暴力じゃん。サイコパスなんだって。クスリやってるって聞いた。それ捕まんじゃん。警察沙汰じゃねえの。ヤバいやつじゃん。怖~。おんなじ学校とか無理。早く退学させてほしい。てかだから転校して来たんしょ。え、前の学校でもやらかしたってこと? それガチじゃん。
聞いていれば、内容がなんだかきな臭いな。何らかの証拠が残っているのか? 写真か、動画か。
あの場にいたのが三人だと思い込んでいたのは過失だった。誰かに撮影されていたのか……。手を掴んだのは良くなかったのかもしれない。大人しく殴られておけば良かった。
顔には出さないように本を読んでいた。
生徒が登校してくる中で、中島さんが登校して来たのが分かった。唯一顔を上げて、姿を見た。一瞬目は合ったが、即座に顔を逸らされた。お礼をすると言っていたが……まあ良いか。そんなもんだよな。
放課後になると、担任に指導室へ呼び出された。
入った右手に資料の入った棚、目の前に少し大きな机とパイプ椅子が設置された、空間に余裕のない部屋だった。奥にも机があり、多くの書類などが置かれていた。
目の前にある机の奥で椅子に座っていたのは担任、その後方に生徒指導担当の教師が立っていた。
私が訪れれば、座るように促され、担任の前へ座った。担任の隣に教師も座った。始まるのは尋問、だろうな。
前置きもそこそこに、担任が真面目に改まった様子で尋ねてきた。
「これは七瀬さんですか」
見せられたのはタブレット端末で流された数秒の動画だった。
音声はなく、私が田代さんの手首を掴んで笑っているという動画だ。宮原さんの背で、丁度私がスカーフを掴まれているのは見えない。彼女の後頭部で赤くなった頬も見えない。私が何かを喋っていて、三人が怯えた様子になっている、というところで動画は終わっている。
ちなみに佐村さんはほとんど見切れていた。位置から考えて、後部ドアの陰から撮影したのだろう。絶妙なカメラアングルだな。手練れか?
担任が指し示したのは笑っている人物、私だ。事実なので、私は頷いた。
「そうですね」
「掴んでいるのは誰?」
「田代さんです」
「なんでこんなことしたの?」
「正当防衛です」
担任と教師は目を見合わせた。面倒だ、とでも言うように教師は浅い溜め息を鼻から漏らした。面倒なのはこちらの方なんだがなあ。早く帰らせてくれ。バイトもあるし。
「あなたは彼女たちに暴力を振るって、笑っていた。暴言も吐いてたんじゃないの?」
おいおい、読唇術ができないにしても、ある程度想像はできるだろう。この唇の動きで一体どんな暴言が吐けたんだ? お前はきび砂糖、お前は角砂糖、お前はオリゴ糖、とかか? 随分と甘い暴言だな。
うっかり笑いが漏れると、見逃さなかった担任は怒った。
「真剣に話してるのよ? 彼女たちを傷付けたんでしょ? 申し訳ないとは思わないの?」
思い込みは捜査の幅を狭めるぞ。基本中の基本だろう。
しかしあなたの中と、彼女たちの中ではそれが真実なら、私がどう弁明しようが聞き届けられるはずはない。こちらは何の証拠もないのだし、もう良いだろう。
「彼女たちは何を求めているんですか? 謝罪? それとも慰謝料ですか?」
「あのねぇ七瀬さん、そういうことを言ってるんじゃないでしょ⁉︎ あなたに誠意はないの?」
私の口調が悪かったのか、担任はより語気を強めた。
ああ、私が女優なら、泣いて弁明できたんだろうか。だが、面倒臭さしかない。早く帰りたい。要求に応えるから、何を求めているのかを教えてくれよ。もう帰りたいんだ。
「やっぱり親がいないとなぁ……」
教師が独り言ちた。
私は思わず眉間に皺を寄せた。
親がいないと指導がしにくい? それとも親がいないと素行不良になる?
どういう意味で言いたいのか。そこに故人を冒涜する意味が含まれているのなら、さすがに黙ってはいられないけれど。でももう、何でも良い。早く帰してくれ。どうしたら帰れるんだ?
殊勝そうに泣いて謝れば良いのか? だから謝罪を求めているのは誰で、どこにいる? 先生に申し開いたところでどうにもならんだろう? この場で求められているのは一体何なんだ。
息詰まった空気が流れる中に、ノックの音がした。
「失礼します」
「ごめんなさい、今取り込んでいるのよ」担任が言った。
「ええ、その件で伺いました」
その声は如月だった。私は振り返らなかった。なぜ如月が?
如月と、もう一人誰かが入ってくる様子を感じた。私の隣に座ったのはもう一人の生徒で、横目で確認すれば、昨日ともに清掃した男子生徒だった。なぜ彼が?
「どうしたの新田君」
担任が尋ねれば、新田さんは縮こまった。
如月は新田さんの両肩を持ち、朗々と説明した。
「先生方は、現在出回っている動画について、七瀬さんに確認を取っていらしたんですよね?」
「そうね」担任が同意した。
「その動画の、元の動画を持っていたのは彼だったんです」
「元?」教師が尋ねた。
「ええ。生徒間で拡散されているのは、編集されたものです。数秒だけで、前後関係が曖昧ですよね?」
如月が明瞭に指摘すると、大人二人は再び顔を見合わせた。困惑しているようだ。
動画を撮影していたのは、センサーズの一人でも、手練れでもなく、恐怖に震えた善意の一人だった。これは、感謝すべきところなのだろうか。
如月は新田さんに顔を寄せて「見せてあげて」と囁いた。
……やっぱり如月ってパーソナルスペースが狭いんだろうか。側から見ていると、きっと言われたのが女子生徒なら、内心喜びそうな距離感だ。……あれ。似たような経験はあるが、その女子生徒はむしろひっくり返るような勢いで驚いていたような。誰だったかなー、その女子生徒は。
新田さんは恐る恐る、といった様子でスマートフォンを机の上に置いた。操作をして、教師側に見えるようにして動画を流した。
変わらず音声はなかったが、反対から見てても動画の概要はわかった。私がぶたれる瞬間も、蹴られる瞬間も、手首を掴む瞬間も、なんとか映っていた。私が何かを言って、三人が振り返ったところで、映像が凄い勢いでブレて途切れた。
担任は口に手を当てて震えていた。見開いた目でこちらを見た。遅れて教師も驚愕した様子でこちらと新田さんを交互に見た。
「……どういうことだ?」
「本当なの、七瀬さん」
教師と担任が尋ねた。
なんだ? 腹の痣を見せろと? ああ、いや、湿布を貼っていたんだっけ。
「どうしてちゃんと言ってくれなかったの」
担任が言うが、私は隠さずに鼻で笑った。
「聞き届けられる様子でしたら申し上げました」
「七瀬さん!」
「――先生」
担任の声を如月が遮った。如月は淡々と言った。
「被害者は七瀬さんです。忘れ物を取りに帰った新田君がたまたま現場に遭遇しました。ただならぬ雰囲気を感じて、動画撮影に踏み切ったそうです。しかし撮影していたことを彼女たちに知られ、脅迫まがいの行動で、この動画を利用されたようです。彼女たちの手により一度削除されたようですが、それより前に、彼が咄嗟にクラウドへ保存してくれていたものがこの動画です」
その場にいる誰もが、固唾をのんで如月の話を聞いていた。
「新田君もまた被害者であり、多少の暴行を受けました。問い質すのは彼女たちであり、七瀬さんも新田君も、労られこそすれ、声を荒らげられる謂れはありません」
担任は眉を寄せ唇を噛み締めた。
新田さんの善意に感謝しなければならない。彼女たちに隠滅までされていたのなら、報復を恐れたはず。しかしこうして証拠を提出してくれた勇気には、どこまでもありがたい。
それではこれで、帰れるんだろうか。
「ごめんなさい、七瀬さん。酷い勘違いをしてしまって」
「七瀬、すまなかった」
大人がそれぞれ謝った。開き直ったり、自らを正当化しなかったのは、素晴らしいことだと思う。だが、私はとにかく帰りたい。興味がなかった。
「では、帰宅してもよろしいですか。予定がありますので」
私が言って立ち上がれば、座っていた全員が驚いたようにこちらを見上げた。
「……七瀬さん。何も、言うことはないの?」
「要望は何も。新田さん、如月君、ありがとうございました。何かあれば他の方にお聞きください。失礼します」
頭を下げると、それ以上何かを言われる前に、私は部屋を出ていた。
下駄箱に向かいながら、思い返していた。
『七瀬さんも新田君も、労られこそすれ、声を荒らげられる謂れはありません』
如月の言葉がじんわりと、胸に灯るように嬉しかった。私を見ていない人もいれば、見ている人もいる。そんなことがただ、嬉しかった。存在を許容されたような、そんな気がした。
「梓真さん」
人のいない廊下の途中で呼び止められた。顔だけ振り向くと、如月が立っていた。
「……如月」
私は追加で片足だけ開いた。
「ありがとう、助かった。感謝している」
ゆっくりと目を伏せて、感謝の意を表した。如月はいつか見た泣きそうな顔をして、綺麗に頭を下げた。
「梓真さん、ごめんなさい」
私は如月を見つめた。
初めて誰かから、ちゃんと謝られた気がした。私は誰かに、心から謝ったことはあっただろうか。聞き届けてもらえる間に、謝ったことは。
動画は音声を消されていたが、元の動画には音声もあったはずだ。きっと如月はそれを聞いた。彼女たちの言葉も、私の言葉も、全て。頭のおかしい人間だと、分かったはずだ。それでも私に助力し、謝るのか。もう、十分だ。
こうなることは予想できたことで、ただそのとおりになっただけだ。なんの捻りもない、一直線のドミノ倒し。そこには面白みも何もない。
如月が謝ることでも、彼女たちが謝ることでもない。起こると定められたことが起きただけ。
「構わない。元気でな」
私は進行方向へ向き直り、歩き始めた。しかし再び声が掛かる。
「待って」
如月の切実な声は、聞いていて心が痛い。君に、もう迷惑を掛けたくなかった。私は立ち止まるが、振り返ることはなかった。
「何でしょうか」
「どうして弁解しなかったの。どうして、助けを求めなかったの」
私が主張したところで、弁解が聞き届けられることはなかっただろう。聞き届けられるにせよ、時間は掛かっただろう。私はとにかく、早く帰りたくて、それは今も同じだ。
そして助けは、求めるという発想がなかった。求める人も。
「無駄、かつ不可能だ。相手がいない」
「部活の人たちは」
私は否定するように首を振った。もう一度半分だけ振り返り、如月を睨んだ。
「迷惑は掛けたくない。君も。サイコパスと話していると、頭がおかしいと思われるぞ」
私の忠告は、如月の怒りになった。
「梓真さんを悪く言うのは許せない」
――たとえそれが梓真さんでも。続く言葉に、私は無意識で息が止まっていた。呼吸を再開し、遠くを見遣った。
「……義侠心や義憤、正義感は扱い辛くて苦手でね。渡されたところで手に余るんだ。彼女たちの行動も、それらに由来するものだった。だから、怒っていいのは、当事者だけだ」
「――僕も当事者だ」
如月の静かな憤慨に、私はどうすれば良いのか分からなくて笑った。
「ああ、なら怒るといい。彼女たちが心配していた。君が笑わなくなったと」
「だから怒ってるんだよ」
また如月は泣きそうな顔をした。
「笑えないのは……梓真さんのせいだ」
確かに、その顔を見ていれば理解できる。目の前にいる君は、辛そうだ。
如月は一歩近付く。
「だからその張本人の、梓真さんに怒ってる」
言葉とは裏腹に、如月は眉尻を下げ、今にも泣きそうだった。やっぱり君は、あべこべなんだ。どうしていつもそう、矛盾しているのか。
もう一歩、二歩、近付いて来る。私は後退したくなる感情を殺し、踏み止まった。
「どうして誰にも頼ってくれない? どうして一人で終わらせようとする?」
如月の雪のような怒りは、私を困惑させた。側に来た如月を見上げた。言い訳をする子供のように、首を振った。
「その道しか知らない」
如月は私の手を取った。
「誰でも良いから頼って。僕を利用して」
懇願には、どう対処するべきなのか分からない。予想外の出来事に出会ったときは、どうするんだったか。そうだ、笑うんだった。私は一つ頷いて笑った。
「ありがとう。さようなら。君には感謝している」
手を引き抜くと、私は歩き出した。止まることはなかった。
バイトから帰ると、リビングでわけもなく泣いていた。
如月の言葉は毒のようだ。無理なことばかり言う。できないことばかり言う。誰に頼り、何を言えば良い。
私が求めているのは助けなんかじゃない。一人で、穏やかに生きていくことだ。誰かと過ごしたいときだけ、誰かと一緒にいればいい。誰にも、何にも求めていないのに。私の希望は、そんなに許されないことなのか。淘汰されるべきものなのか。どうして、如月は怒るんだ。どうして苦しそうな顔をする。
如月にだって何かを求めているわけじゃない。ただ、今までと同じように過ごしてくれれば良いのに、なぜ求めないことに怒るのか。
わけがわからない。如月はいつも分からない。何を感じ、どう思考し、何を行うのか。同じ人間なのか。
私はどうすれば良いのか。




