2-1
電車に揺られていると、固めたはずの決意がぐらぐらと動きをみせ始めた。
向かいの車窓を遠く眺め、流れてゆく風景を視界として取り入れていた。駅で止まるたびに、出入りする人々は徐々に数を減らしていった。車窓を占めるコンクリートの割合も同様にして、代わりに雲の面積が広がっていった。
本当にこれでいいのだろうか。私の決断に間違いはなかったのだろうか。見落とした点は、考えるべき箇所は。
自信が持てない。私の選択に「それで良い」とも「それではいけない」とも、背を押す人も、叱咤する人もいない。正否のない選択は、持っているだけで落ち着かない。このままでいいのか。すぐに出ない答えは、ただ私を焦らせた。
もしも何かの詐欺であったら。詐欺であったとして、それは一体どんなものだ? 私に一体何が分かる? 答えが出ない問いを考え続けるのは無意味なことだ。分かってはいるが、不安だった。
ただ誰かの言うことを聞いて、それに従っているだけの人生で良かった。面白みなど求めていない。ただ生きて、それで終わり。
自分が誰かにとっての輝ける存在になることも、何か偉業を成すことも、世の発展に貢献することも、なれないと分かっていて、足搔けるような気力はない。
死にたいわけでも生きたいわけでもなく、惰性で残りの人生を過ごすことができたら、それで良かった。
だが選択することは、生きることだ。これからをどう過ごしていくのか。どんな轍を残すのか。
それが訳もなく辛かった。
生きたくなかった。でも死にたいわけじゃない。何者にもなれないなら、何者でもないまま、意思も感情も全て消え去ってしまえば良い。石のように、ただそこにあり続けることが全ての存在が良い。
しかし母はそんな私に、生きなさいと、確かにそう遺した。
私はその言葉で、油の足りない機械のように生きていた。やがて、歯車が一つ外れた。軽くなった体は、今までよりも動きやすくなるはずだった。だが、軽くなったぶん、重いぜんまいが上手く巻けなくなった。
このまま……どうすれば良いのだろう。惰性だけで動き続けるには、残った時間が長すぎる。けれど時間を短くするには、残ったエネルギーが多過ぎた。
過分に余ったエネルギーを、無理に始末しようとすると爆発を起こし、いずれブラックホールのようになる。私は無限の重力を得たいわけではなく、ただ宙を漂うだけの塵になりたい。
ただただ、このままこの場所、この電車が銀河を走ってくれれば。
鼓膜に独特な気の抜けた声のアナウンスが届いた。
聞こえてきた駅名に、我に返った。
そうだ、私にはまだ、やらなければならないことが少し残っている。
羽山さんからの説明どおり、ここで降りて、それからバスに乗って行かなければ。
――今はとにかく、彼との約束を守るべきだ。
バス停を降りて、メモを頼りに歩いていった。
順路はシンプルで、道なりに進む以外には一度曲がるだけだ。曲がる地点は林に入る道とあるが……。
説明では砂浜が見える以前にあるようだが、現在遠くに砂浜が確認できる。通り過ぎてしまったか。
少し来た道を戻った。ということはこの道がそうか? 車が一台通れる程度には舗装されている道はあるが、進んでいっても大丈夫なのだろうか。山のような、林のような中へ迷い込むだけのような気がするのだが……。この奥に別荘など本当にあるのだろうか。
半信半疑のまま、体力をすり減らす傾斜を五分ほど登った先だった。
途切れることなく木々に挟まれていた道は、やがて水平となり、広がりを見せた。
しかしまだ別荘らしきものは見えない。整えられ始めた草木を見て、この先だと確信はできたものの、まだ少し不安は残っていた。それでも道なりに進んで行き、そしてようやく辿り着いた。
大きく、洒落た黒い門があった。その奥には、隙間から見えるだけでも随分と開けた土地が広がっているようだ。先程まで木々が覆い隠していた空は、ひどく澄んで晴れ渡っていた。
あの、部分的に確認できる建物が、羽山さんの別荘だろうか。見えている部分だけでも、美しい建物なのだろうと分かる。
インターホンを押す、そのほんの少し手前で指が止まった。一呼吸置いて、意を決しボタンを押した。
呼び鈴が鳴り、数秒、小さな呼吸を繰り返した。
『――はい。あ、梓真ちゃん、良かった! 今開けるから』
機械越しに聞こえた羽山さんの声に、久しく会っていない旧友の声を聞いたような錯覚を起こした。
「良かった」とはまさか、優雅に見えた羽山さんでさえも、私が来るかどうか確信はなかったのだろうか。
疑問を浮かべていると、門が一人でに動き始めた。思わず一歩後退った。こ、これがブンメイノリキ……。
開けていく視界の奥から、羽山さんが歩いてくるのが見えた。先刻と同じその姿を見ると、やはり一時の幻ではなかったのだと、安堵を覚えた。
羽山さんは門まで来ると、にこりと笑って言った。
「迷わなかった? もし迷ってたら、とか、やっぱり送った方が良かったかな、とか思ってたんだけど。杞憂だったかな」
「多少の不安はありましたが、大丈夫でした。すみません。私がお断りしたうえに、携帯を持っていなかったばかりに……ご心労おかけしました」
我々がカフェで話していたときに、羽山さんは別荘まで車で送って行くよ、と提案してくれた。
しかし私は不安だった。命の恩人とはいえ、見ず知らずの人の車に乗り込んでも、本当に大丈夫だと言えるのだろうかと。
目的地が真に危険な場所であれば、無駄な足掻きに等しいが、それでも私は自分の足で行くと伝えた。
もしも途中で危険だと思うことがあれば、私は引き返したのだろう。だが、バスに揺られて眺めた穏やかな街並み、歩きながら見えた砂浜、その向こうに広がる静かな水平線、そしてそれらの景色を眺めるために建てられたような、そんな位置にある別荘を持つひとを、疑う必要があるのだろうかと、そう、漠然と思ったのだ。
羽山さんも、私が引き返す可能性もあると考えていたのだろう。――本当に来るのかどうか。だからこそ到着時の『良かった』なのだろう。
「いやいや、良いんだよ、別に良いの。謝ってほしかったわけじゃないし、女の子はそれぐらい用心するに越したことはないからね。それで良いんだよ。立ち話もなんだし、さ、入って」
「はい。お邪魔します」
足を踏み入れた門の内側は、華があるのに派手ではなく、落ち着いているのに古さはない、前時代な自分では見たことがない空間だった。つまりこれは、シックでモダン……、というのだろうか。羽山さんから抱いた印象にぴったりではあった。
しかし私が別荘に持っていた、凝り固まったイメージが、ログハウスであるとか、真っ白であるとかだったので、そういった意味では予想外であったと言える。
門から建物まで、通行部分には石材を、それ以外には砂利と芝と細く小さな木々が、絶妙なバランスで配置されている。
建物は黒と茶色を基調とし、四角や線がもつシンプルなイメージを活かした構造だった。シンプルであるが地味ではない、この調和がどのようにして生まれているのか、素人の私には全く分からなかった。
そして庭からは海が覗く。穏やかで、どこまでも広く遠く続いている。
私は思わず呟いていた。
「すごい……。本当に、綺麗な所ですね」
「ふふふ、ありがとう。なんなら、毎日見惚れてくれても構わないから、なんてね?」
見惚れるなら、悪戯めいて笑う羽山さんにだ――なんてことは言わない。口説きたいわけではなく、ただ単に、美しいと思った。年上で、余裕を持った大人でありながら、時折無邪気な猫のような瞳をする、そんな小悪魔みたいな表情に、言い返したくなった。
「はい。見惚れます」
「それ、冗談だよね?」
「もちろん冗談ですよ」
「せめて冗談言うときに真顔はナシにしてくれる?」
「善処します」
変わらず無表情なままの私を見て、羽山さんは苦笑した。
玄関に入ると、目を見開いた。
白と、限りなく黒に近い茶色で統一された空間は、なんといっても広かった。おかねもちなおうちの玄関は広いものだとは聞き及んでいたが、こうも広いのか。
私の部屋と同等か、それ以上の面積があるように感じた。それは私の部屋が狭過ぎるのか、羽山さんの玄関が広過ぎるのか両方なのかは、少し悲しくなるので考えるのはやめる。
そして面積を抜きにしてもこの開放感は……と思い見上げれば、吹き抜けの天井があった。なるほど、どおりで、なるほど。
「梓真ちゃん? 付いて来てね? あ、それ、スリッパ履いてくれたら良いから」
「あ、すみません」
現実を認識すると、呆けた顔を引き戻した。指示どおりスリッパを履いて、後を追った。
羽山さんは肩越しに笑い掛けて言った。
「謝らなくて良いから、やるべきことをすれば良いんだよ」
「はい、すみ……分かりました」
羽山さんは笑みを深めると、最初に見えた扉を開け、中に入ってこちらを振り返った。
「ここがリビングになります。後で全部案内するけど、とりあえず座って。疲れたでしょ」
「はい。ありがとうございます」
羽山さんに促され、リビング中央付近にある、大きなテーブルを囲む椅子の一つに座った。自然、足が思い出したように疲労を主張した。
椅子の脚元に鞄を置くと、またもや呆けたように辺りを見回した。
玄関があの広さであることを鑑みれば、予想はできたのだろうが、生憎備えは間に合わなかった。
もう、兎にも角にも広い広い。現在借りている部屋全て収まるだろう。繰り返すが、あそこが狭過ぎるのかここが広過ぎるのか、深く考えるのはやめる。
そして一人の冷静な私が告げる。
この部屋はまだ一つ目であり、それでこの広さであれば、無論「掃除」がどれほどの手間を有するのか、考えが及ばないわけではあるまい、と。
そうだ、この広さ、開放感は極上だが、「掃除をする」ことを考えれば、背筋が冷える。
開放感に関して言えば、広さだけではなく、ガラス張りの戸が並んでいることも由来しているだろう。
ガラス戸の向こうには黒っぽいデッキが続いていた。
そしてここからでも、紅葉した木々が見えた。およそデッキから庭へ続いているのだろう。美しい庭を眺めると同時に、ふと、もうそんな季節か、と思う自分がいた。しかしシーズンよりは幾らか早い気もするが。
「梓真ちゃん、紅茶で良かったかな?」
「はい、大丈夫です。わざわざありがとうございます」
羽山さんが出してくれた紅茶にいただきますと手を合わせ、一口飲んだ。知らず、ほ、と息が出た。
「ゆっくりしてね。これからはここで生活するんだしさ」
その言葉で、自分の使命を再認識した。
「そうでした。慣れるまで少し、時間が必要かとは思いますが……」
「あはは、固くなんなくていいよってこと!」
真面目すぎるのも考えものだなぁ……と、笑いながら羽山さんは呟いた。
そして少し窺うようにして、私に尋ねた。
「どう? 疲れてない? しばらくしたら案内するから、その後いろいろ話そう。今日は時間、大丈夫なんだよね?」
「はい。今日は一日、休みです。お心遣い痛み入ります」
互いに少しの間、たわいもない話をした。話といっても、羽山さんの質問に私が答えるばかりで、会話と呼べるかは定かではない。
それでも私は、心が落ち着いていくのを実感した。羽山さんから溢れる温かい感情が、ありがたくもあり、申し訳なくもあった。どうしてこの人は、ここまでの親切をくれるのだろう。私には、返せるものなど何もないのに。