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早朝登校を続けていたが、二回目以降は油性ペンになった以外に、特に代わり映えがない。どこまでも予想の範疇は超えず、がっかりだ。全く面白くない。文言の種類はほとんど変わらないし、文字の躍動感から滲む感情だけ、やや強くなっている程度だ。
私が今求めているのはドミノ倒しのような面白さではない、ジェンガのような面白さなのだ。
除光液などは用意していたので、元々持参しているティッシュを使い、なんとか毎朝拭き取っていた。そのまま教室のゴミ箱に捨てると、「誰か」が拭き取っているという証拠が残るので、ビニール袋へ入れて持ち帰った。換気も忘れない。
そして机の落書き以外のアプローチが弱い。数回授業中などに丸めた紙やらが飛んで来ることもあったが、興味が湧かないので、授業が終われば中を見ることなくそのままゴミ箱に入れていた。囁きは、囁くだけであって、それで終わりだ。それとも囁いている段階で試してみるべきか?
ああ、もっと直接的なアプローチがほしい!
殴ってくれとまでは言わないが、強く押すだとか、もっとこう、明確で確実な悪意をだ!
ここは敢えて隙を作るべきか。どうぞこちらの弱点を突いてください、とでも言えるような。どんな弱点であれば、付け入りやすいと思ってもらえるだろう。
釣りやすく対処しやすい弱点というのが思い浮かばないまま、日中はただ勉強をしているだけという、学生らしい生活で日々が過ぎていった。
対しリゾットの方は一度、食べ切れないゲテモノを錬成して以来は、越えてはいけない一線が何なのかが漠然と分かったような気がして、好転へ向かっていると思う。ただ一つの難点は、研究へ回したい好奇心と、そろそろ違うものが食べたい食欲とのせめぎ合いが勃発していることであった。
そうして平日の終わる頃に噂を聞いた。情報を統合するに、如月の誕生日が、どうやらテスト前日の休日であるらしい。
噂を知り、教師に確認を取ったところ、事実であると判明した。私は妙な冷や汗が出るような気がして仕方なかった。
テスト前日……。知っていれば、私は……。
私は知っていれば断ったのだろうか。知っていても承諾したのだろうか。可能性を検討したが答えが出せなかった。こんなことは初めてだ。
土曜日のバイトでは、作業をしながらもずっと気に掛かっていた。食器洗いや清掃など何も考えずにできる作業の間は、手を動かしている方が考えに集中できた。
さて、誕生日は他人が指定すればただの一日だが、当人が指定するのには意味があるだろう。だが、その意味は何だ?
誰かに祝ってもらいたかったが、同時にテスト前日でもあるので誰も会ってくれず、私しか承諾する人間が居なかったとか。だがそれは無理がある。
祝ってほしかったのなら、誕生日であると告げたはず。だが奴は答えなかった。では自分の誕生日を忘れていたのか。あの如月が、それは有り得ないだろう。そしてわざわざテストの前日である必要はない。
どういう意味だ……?
誕生日であるとの自覚があり、当人にとっては特別な日に、わざわざ私と話しがしたいなど、それではまるで、特別な話があると言っているようなものだ。
私にする特別な話とは何だ。誕生日なのだから、本人にとってはめでたい話、もしくはその可能性がある話を選ぶだろう。私が呑気に過ごしている間に、羽山邸の権利書は頂いた。出て行ってもらおうか、とか。しかしそうなれば羽山さんから連絡があるはず。
いや、考え過ぎか? 中間なのかもしれない。如月が実は慎ましい性格と仮定して、自分から誕生日だと告げるのは祝ってもらうのを催促するようで憚られるが、誕生日に一人なのは寂しいのでとりあえず誰かと会いたい。さらに候補者が減っていき私に絞られたとき、私の場合は誕生日だと告げれば断る可能性の方が高くなるので伏せた、とか。
いやあ、しかし、どちらにせよわざわざ誕生日に私に会いたいか? 私なら別に私のような奴とは会いたいとは思わんがなあ。それに如月は家族がいるんじゃないか? 家族と過ごせば良い。というかやっぱり如月は友達がいないのか? だめだ、さっぱりわからん。
そういえば如月って「夏樹」じゃなかったか? なんで冬生まれなんだ? いや、逆か。なんで「夏」なんだ? だめだ、さっぱりわからん!
バイト終わりに、マスターや奥さんに誕生日について尋ねてみた。
マスターの家庭では、誕生日を祝う感覚は希薄だったらしい。奥さんと出会ってから、祝ったり祝われたりするようになったそうで、マスター自身は未だに生まれた日だなぁという感想以外には湧かないが、今は祝われれば嬉しいことは嬉しいそうだ。へえ。
逆に奥さんは盛大に祝うようで、最初はマスターのような人物が信じられなかったそうだ。誕生日一つでも色々あるんだな……。そして奥さんは何度か見掛けなかった間に、以前の髪色から赤、というべきかオレンジ色が薄く足された髪色になっていた。
「そうだ、いよちゃんにも聞いてみたら良いじゃない」
軽く話も聞けたし、帰ろうと思えば、奥さんがそう助言をくれた。
「イヨチャン……というのはどなたですか」
私が尋ねれば、奥さんの方がきょとんと不思議そうにした。
「え? いよちゃん、会ってるでしょ? 何回か二人に頼んでるじゃない」
ここでバイトしているのは、私以外に高坂さんしか居ないはずだが。
「……もしかして、高坂さんですか?」
私が言えば、奥さんはにぱあと花開くように笑った。
「そうそう、伊由ちゃん。言ってなかったかしら?」
高坂さんはイヨリさんだったのか……意外だ。響きが滑らかなで綺麗な名前だな。
提案はありがたいが、日が迫っている。次にいつ一緒に入るか分からないので、聞く機会はないも同然だ。
「お気遣いありがとうございます。ただ、日があまり――」
「明日来たら良いじゃない! コーヒーとかならおまけするわ! それとももっと急いでる?」
客として、ということか。コーヒー、おまけ……。
「エッ良いんですか」
「もっちろん。いよちゃんにも言っとくから」
そう言って奥さんは可憐なウィンクをした。コーヒーを一杯であれ、食に関するサービスは全て受け入れたい。そんな気分で二つ返事をした。お客さんの少ない開店と同時あたりに来れば問題ないだろうか。
日曜日の午前中、開店時間に訪れた。まだ人は居ないが、時間が経てば賑わうだろう。ささっと聞いて食べて帰ろう。
マスターは挨拶すると裏へ行ったので、カウンターに高坂さんだけがいる。私はカウンター席に座ると、作業をしている高坂さんに注文をした。仄かに漂うコーヒーの香りは、気分を落ち着かせた。客として居る分には、穏やかな時間が流れていた。積極的にコーヒーを飲むタイプではないが、偶には羽山邸でも嗜んでみるか。
やがて料理が運ばれた。私はタマゴトーストとカフェラテだけを頼んだはずだが、かぼちゃスープとサラダも付いてきた。あれ。
美春ちゃんがサービスしろって、と高坂さんは小さく言ったが、これは過剰じゃなかろうか。まあ……良いか。高坂さんの判断なら、損失があった場合の補填は高坂さんに頼みますよっと。
出された料理を黙々と食べ、半分ほど食べたところで高坂さんが口を開いた。
「……で?」
高坂さんはどこか睨むような視線で尋ねてきたが、それが睨んでいるわけではないことは、最近何となく理解し始めた。むしろどちらかというと、照れ隠しのような、そんな印象がある。
そして高坂さんの方も私への理解が出てきたのか、当初よりは喋ってくれるようになった。懐かない猛犬が、吠えはしなくなったような。存在を黙認されているような感覚だ。
「高坂さんにとっては、誕生日ってどういうものですか?」
「……生まれた日」
う~む、高坂さんも自分と似たような人種であるということも、これまた最近理解し始めた。私も似たような印象だった。生まれた日であり、年によっては失念していることもある。前日辺りまでは覚えているのに、当日になると忘れていることもある。だからこそ、そうじゃない人にとっての誕生日を知りたかったのだが、無理だったようだ。
諦めて、違う質問をすることにした。
「誰かと過ごしたいとか思います?」
「別に。……選べって言うなら、家族」
驚くほど私と似たような感覚だった。だよなあ、別に誰かと過ごしたいとかはないよなぁ……。
「貰って嬉しい物って何ですか」
「バイク用品?」
趣味のものか。何かを渡すと決めたわけじゃないが、誕生日と知っているのに何もしないというのも、なんとなく私の居心地が悪いような。如月の場合、料理に関するグッズなどだろうか。しかし趣味であればこそ、こだわりがあれば逆にありがた迷惑になりかねん。特に道具などはそうだ。選ぶとするなら慎重にならざるを得ない。
ほとんど食べ終えかけたところで、高坂さんから声が降り掛かった。
「何悩んでんの」
「……え?」
まさか高坂さんに心配されるとは思ってもみなかった。私と似たような感覚を持っているのなら、他人には興味がないかと思ったのだが。他人から知り合い程度には認識が更新されているのだろうか。
「アンタただでさえ笑ってないのに、次も眉間に皺作ってたら客が減る」
笑わないと言われた直後に、私は笑った。高坂さんだって同族で、人のことを言えるような表情をしていない。
「はは、私一人の人相で左右されませんよ」
高坂さんは元々無愛想だが、さらにムッと無愛想に磨きがかかったように見えた。
「印象は良くないだろ」
「なら高坂さんが笑ってください」
「俺が笑っても意味ないだろ」
「意味がないかはやってみないと分からないんじゃないですか。マダムからチップが貰えるかもしれません」
私が言えば高坂さんは、とても接客業をしている人とは思えない表情のまま、数秒黙った。やがて会議で重大な結果が出たとでもいうような口調で言った。
「……検討する。で、何」
検討するのか……。
高坂さんに促され、部分的に誤魔化した悩みを相談することにした。
「仲良くない人に誕生日会に誘われてどうしようかな、と思いまして」
「行かなきゃ良いじゃん」
うん、私が高坂さんでもそう言うと思う。
「誕生日会と知らずに返事してしまったんですよね。行きますって」
「とりあえずプレゼント渡しといたら収まるんじゃない」
私はまるで自分と会話しているような感覚になった。これなら相談というよりも、脳内での自問自答を、代理で高坂さんの口から出してもらっている、というような感覚だ。
自分の脳を使わない分、エネルギーは節約できると言えるが……相談、なのだろうか。
「……でしょうかね。趣味の物以外なら何が嬉しいですか?」
「実用品」
「なるほど。他にはあります?」
私が問えば、高坂さんは少し考えていた。私はその間に全てを食べ終えた。やがて高坂さんが一言だけ呟いた。
「……豆?」
コーヒー豆のことか。高坂さんから見たコーヒー豆は、趣味なのか仕事なのか分からんな。新たにカテゴリを追加するなら、消費物もしくは食品か。
「食品ですか。なるほど。色々参考になりました」
「ん。気をつけて」
「はい」
言い切ると、私は立ち上がった。互いに無言でレジへ向かった。
会計を済ませ、出て行こうとする手前で、高坂さんが「アンタさ……」と呟いた。立ち止まり、高坂さんを振り返って続きを待った。高坂さんはどこか言いづらそうに喋った。
「その……、とにかく疲れたら休んでくれ。俺が入る」
「承知しました」
高坂さんなりの、不器用な優しさだろう。シフトの心配は要らないということだ。高坂さんとしても、自分のシフトが増える方が嬉しいのだろうし。
高坂さんは本当にこの店が好きなんだろうなと思えば、私は笑って礼を告げ店を出た。入れ違いで、お客さんが店に入って行った。
カフェを出た足のまま、バスを乗り継ぎ、ショッピングセンターへ向かった。
いくつもの店を内包した大きな一つの建物は、巨人の一軒家のようだ。歩いて目的の店へ向かうだけでも広さで疲弊する。
日曜日ということで、人の多さに辟易しながらも、高坂さんの助言を元に、いくつかの店舗を見て回った。
そして辿り着いた答えは、オリーブオイルだった。自分は絶対に買わないし使えないような、栄養剤ほどの瓶に詰められた五種類の……たぶん風味か何かが違うものだ。日本語以外は読めないので、何が書かれているのか分からないし、私がオリーブオイルと思っているだけでオリーブオイルではない可能性も僅かに秘めている。たぶん……オリーブオイルだ。
オリーブオイルでないにしろ、消費物なら問題なかろう。
購入し、プレゼント用として包装してもらった商品を受け取った。問題が解決した気分で鼻歌混じりに家路へ向かっていると、ふと気が付いた。
なんで私は如月へのプレゼントを買っているんだ……?
あれ、これは、なんだかおかしくなかろうか。プレゼントを買うなど、脳内会議の議決項目にあったか? なぜ私は買っている?
混乱したまま、答えも出せぬまま、リゾットとの格闘でようやく勝利を見出せば、いつの間にかテスト前日になっていた。




