20-2
部室棟は人通りは少ないが、全くないというわけでもない。昼のこともあり、これ以上接触を持つのは致命傷だ。
「お話ならば電話で伺います、では」
私は一礼をして、すぐに帰ろうとした。しかし如月が私の鞄を掴んだ。
「一緒に帰ろう、梓真さん」
「嫌です致しません」
言うが早いか、私は素早く鞄から手を引き抜いた。今日の鞄は重い。持ち方が安定していなかった如月は、鞄を取り落とした。私は即座に鞄を回収して走り去った。廊下は走ってはいけません、なんて知るか。セニハラ、ナムアミ、ハラソーギャーテー。
途中、八木さんたちを追い抜いた気もするが、気にせず帰った。
溜め息を吐き出しながら、誰も居ない空間に「ただいま」と投げて帰宅した。最低限の家電は時間設定によりついているので、明るいし暖かい。以前の家ならば有り得ない好待遇だ。何だかんだと嫌なことがあっても、こうして羽山邸に辿り着けば、それだけで毒素が少し落ちていく。
帰り支度を済ませれば、ボーッと庭を眺めた。日が落ちて、空には灰色に青が混じっている。やっぱり、綺麗だ。枯れ木でも風情がある。適当に食べ物を口に放り込み、また景色を眺めていた。いつの間にか、すっかり暗くなっていた。
料理には、土日辺りに挑戦してみよう。今週は気力が湧かなかった。人間、余裕がないと、新しいことには挑戦し辛い。そんな言い訳を並べながら、今日を振り返っていた。
そういえば、と如月に渡された物を思い出した。鞄から取り出して、封を開けていった。軽さからして、グミとかマシュマロなんだろうか。どんなものであれ、食に罪はない。美味しくいただくとしよう。
中身を見て、言葉を失った。
――て、手袋。
な…………なぜ?
なぜ、食べ物じゃない? お菓子じゃないんだ? なぜなんだ? 何で手袋? どうして? 何が起きた?
落ち着け、深呼吸だ。見つめるのは現実、明後日の方向ではない。
何らかの解説が入っていないかと、もう一度中を確認したがカードも、説明文もとくに見当たらなかった。純粋な贈呈品なのか……?
手袋は色だけ見ればチョコレートと同じだった。シンプルなデザインで、手首の辺りに紐のような細い帯の装飾があるのみだ。装着した際のシルエットが美しい仕上がりで、厚くないのにしっかりと温かい。庶民には縁遠そうな良い品、だが……。
――なぜ?
記憶にある手袋に関連する事項を並べ立て、一番可能性が高いものを選んだ。
……つまり決闘。
この手袋は決闘を意味する、宣戦布告なのだ。羽山邸の管理者権限を求め、争う。そういうことなのだ。もしくは、どんな手を使ってでも、必ず羽山邸や羽山さんに関する情報を手に入れるぞ、ということか。
くそう、憎っくき悪魔の手袋め。いや、手袋に罪はない。罪はないが、出所が悪い。
ああ、これが羽山さんから贈られたものなら、喜んで毎日見せびらかすように着けて行ったのに。如月から、だもんなあ……。いや如月自身も悪いわけじゃないんだが、なんというか、如月だもんなあ……。
如月が私に何かを渡したのが判明している翌日に、私が新しい手袋を装着していれば、それはつまりそういうことだ。喧嘩を売っているに等しい。どうぞ私を殴ってくださいと言わんばかりの、歩くサンドバッグだ。
如月だもんなあ……。
とにかくゴミを捨てようと、箱を潰し始めると、ヒラヒラと何かが落ちてきた。やっぱり何か書いていた紙があったのか。拾い上げたカードには、文字が書かれていた。
『テストの前日に会ってください』
なんだこれは、暗号か? なぞなぞ、または怪文書か?
誰とどこで会うんだ? 私と如月か? 時間はいつ? こんなに少ない情報で、本当に会う気があるのか? そもそもこんなものを送り付ける前に返事を寄越せ。
というか何でテストの前日なんだ。テストの前日なんて一番誰にも会いたくないだろ。最後の足掻きができる、大詰めの日なのだから。誰かと会ってる余裕などない。
……といいつつ、バイトは休んでいないので、その日はバイトを入れていたような。予定を申告するときは、テストのことなどすっかり忘れていたので、うっかり入れていたのだ。
それともそんな日だからこそ、来るか来ないかが重要な意味をもち、何かの判断基準にするとか、そういうことなのか?
はー! どこまでも訳のわからん奴だ!
大きく溜め息をつくと、考えるのをやめた。ゴミは捨て、手袋は自室の引き出しに収納し、存在を忘れるまじないをでっち上げて自分に掛けた。一度だけ音を鳴らして手を合わせた。はい、忘れました。おしまい!
リビングに戻ると、しばらくして電話が鳴った。
たぶん悪――如月か。出れば案の定如月で、思わず溜め息が出そうになったのを、なんとか飲み込んだ。
如月の用件を聞く前に、自分の疑問をぶつけた。
「アレは何だ」
「アレって?」
「手袋と怪文書だ」
「怪文書……?」
如月は不思議そうな声を出した。怪文書である自覚はないと? 君、本当に頭が良い設定なんだろうな? それとも頭の良い如月君は、やはり幻想の産物なのか。
「誰と誰がいつどこで会うんだ。明記されていない。訳が分からんだろ」
「うん。それに関して梓真さんと話したかったんだけど」
それで部室まで来たのか? 生憎、あの時点では中身を確認していなかったのだから、結局無駄足だったな。
「ほう。聞こうじゃないか」
「その日に、僕と会ってほしい。場所も時間も、どこでも良いから。ただ……話ができたら」
「何だ? 何か理由でもあるのか? 特別な日とかか?」
私の質問に、少しだけ沈黙があった。
「それは、聞かないで」
つまり何か理由があるか、特別な日である、もしくは両方だと。テスト前日には、テストの前日であるという意味しかないように思うが。他に何かあったか?
「何だそれ。よく分からんが、とりあえず会うだけで良いならばまあ……会おう。で、時間と場所は」
「梓真さんの都合に合わせてくれたら」
その日はうっかりバイトを入れてしまったからなぁ。バイト終わりで良いか。
「なら夕方、バス停の……緑沢は分かるか?」
「うん。大丈夫だよ」
「そこで会おう。帰るまでの道のりでなら付き合う」
「ありがとう、梓真さん」
沁み入るような声音に、まるでノイズが混じるような、何とも言えない違和感を覚えて、居心地が悪い。一体、何がそんなに感謝をされるようなことなのか。
「で、手袋はどういう意味なんだ? なんで手袋なんだ。なぜ食品でない」
「もちろんバレンタインだからね。食べ物の方が良かった? 付き合ってるなら、それぐらいが良いかな、と思ったんだけど。それと、無理を言ってるのは分かってるから、迷惑料として受け取ってくれても」
一部の発言にゾッと背筋を冷やしながら、同時に納得していた。
ああ、なるほど。つまりオプション申請の、提供する利益の部分を勝手に決めて押し付けたと。オプションならオプションだと、最初に明言してほしいものだ。怪文書などを送る前に。
そもそもオプションだと言われていれば、賄賂を渡されずとも承諾したのに。オプション利用の初回サービスとして、融通を利かせたさ。私にだってサービスを返せるぐらいの余裕と義理はある。自分が言える立場ではないが、なかなかに評価が低いものだ。
「分かった。納得した。いつもそういう理由を明示してもらいたいものだな」
「ちゃんと言ってるけどね?」
如月の笑いを含んだ声に、私は鼻で笑った。
「納得できん曖昧な理由ならな。では、ご機嫌よう」
「おやすみ梓真さん」
即座に通話を切った。やはり如月の声を聞いていると、何だか全身が痒くなる。如月アレルギーか?
全身を掻くのは面倒くさいので、転がることにした。多目的室で、腕を伸ばして寝っ転がり、ごろごろごろごろと横方向に回転していった。このごろごろ、たまにやると非常に楽しい。痒さなど忘れて、どこまでも無邪気に、童心へ返るように、ひたすらにごろごろと、丸太のように転がっていく。楽しい。
草原とかなら、尚楽しいだろうな。穏やかな日差しに包まれて、勾配を転がっていく。芝滑りとかも良いよな。そんな思いを馳せれば、少しだけ春が楽しみになった。
延々と回転していれば、気持ち悪くなってきたので止めた。高い天井を、大の字になって見ていた。
こんな風にしてストレスを軽減できる場があるのは、ありがたいことだ。以前のような家のまま、今の状況に置かれていれば、そろそろ髪を振り乱して発狂していた頃かもしれない。……髪は乱れているが。
そういえばボールはあったかな。急にバスケットボールが――ドリブルがしたくなってきた。倉庫を探せば、バスケットボールもあった! 羽山さん、天才だ!
新しいオモチャを買い与えられた子供のように、バシバシとボールを叩きながら走り回った。無意味なドリブル、楽しい!
架空のパス相手を創造し、パスを出した。もちろん空振りである。虚空を転がっていくボールを追い掛け、掴めば再び架空パス請負人、パス子にパスをする。客観的に見れば、どう考えても危ない人間だった。それでも非常に楽しかった。パス子と青春を分かち合えるようになった頃には、疲れ切って床に伏していた。危ない青春、良いな。
そうして風呂に入り、布団に入れば、昼間に眠れなかったのが嘘のようにしっかりと眠れた。羽山邸の恩恵を、これでもかと受けていた。
土曜日の夜、ようやく私は因縁の相手、料理と向き合うことにした。
如月から与えられたレシピ集を探せば、例のリゾットも記されていた。やるっきゃない。
レシピを見れば、どれも完成写真以外は文章のみだったが分かり易かった。ノートもこんな感じなのだろうと思わせるようなまとめ方だった。
表記方法はパソコンか何か、機械で打ち込んだ文章を基本とし、手書きのような文字で補足が書かれていた。そしてちゃんとしたレシピに付随するように、どういう理由でその工程が必要なのか、省ける工程や代替材料を記した簡易版のレシピも備えられていた。
なんなんだ、これは。
レシピを眺めていれば、また訳がわからなくなってきた。やっぱり如月は真面目で、気配りもできる人柄だ。配慮というものがなければ、これほど丁寧に仕上げることはできないだろう。これが怪文書を同封した人間と同じだと? 立てば面倒、座れば厄介、歩く姿は邪の化身、というべき如月と同一人物とは思えない。いや、言い過ぎか。
……あまりに私の思い込みが強過ぎるのか。しかし何の欠片もないのに、邪の化身に見えたりするものなのだろうか。なぜこれほど印象が違うのだろう。如月の問題なのか、私の精神状態が問題なのか、何なんだろう。分かるときなど来るだろうか。
今回はまず、材料を簡易版で、工程をちゃんとした方で作ることにした。
手順に一通り目を通して、器具と材料を揃えた。
ところで、羽山さんにはガスコンロよりもIHヒーターを使用していそうなイメージがあったのだが、なぜガスコンロなのだろう。もしかして高橋さんがガス派で……とかだろうか。もしくは調理器具も最低限なところを見れば、興味はないけどとりあえず揃えました、というところだろうか。シンパシーを感じる。
意を決し、火を点けた。少し緊張する。
鍋に水とコンソメを入れ温めた。もう一つの鍋で、オリーブオイルを垂らして生米を炒めた。中火とあるので、火力調節のつまみを丁度真ん中へずらした。全体が白くなるまでとあったので炒めていれば、全体が白くなる前に透明なままと焦げがちなものとが出てくる。なぜだ。ちゃんと炒めていたのに。
諦めて、焦げてしまう前にスープを投入した。タイマーをつけ、観察しながら時折かき混ぜたり、スープを足していく。タイマーが鳴る頃にはスープはなくなり、それっぽいものができた。チーズを混ぜ合わせ、皿に盛る。食べる。違う。
なんだこれは!
不味いわけではないが、全然違う! なんなんだこれは!
材料が違うのだから、味は違って当然だろうが、なんというか、黄色いというべきか、茶色いし、食感も違う。あんな風に真っ白でないし、なんだこれは。
なんとか完食するが、違いを憤りながら食べるのはなかなかに労力がいる。そしてなんとなく、味や食感などは別として、変なものを食べている感覚になる。
やはり書いてあるとおりにしているはずなのに、書いてあるとおりにはならないのだ。そしてどこを間違えたのかが分からない。中火にしたはずだが強かったのだろうか。最初や途中に入れるスープの量やタイミングも間違っていたかもしれない。そしてほとんどかき混ぜることなく、放置しておいた方が良いのかもしれない。
あ~! 悔しい!
現状で考えられる点を改善して、もう一度作り直したい。だが今はもうこれ以上食べられないので明日以降になる。これは明日までモヤモヤするぞ。
如月と同じような味になるとは思ってないし、そこまでの高みは目指していない。しかし納得できない。とりあえず自分が納得できる程度に原因を探り改善したい。
それから一週間ほど夕食は毎日、リゾットと格闘することになった。




