20-1
月曜日は特に会うこともなかったが、火曜日からの如月はまた、先週の如月と似たような如月になった。如月ヤッカイ・シャベルーデの方だ。何事もなかったように振る舞う様子を見るに、そろそろ多重人格を疑うべきかもしれない。
月曜の部活で、轟さんと部長が神妙に範囲を話し合っているのを聞いて、試験二週間前だということに気が付いた。はあ……忘れていた……。学生の本分がオベンキョウだということに……。オベントウ……一字の違いなのにわくわくさが違うのはなぜ……。
轟さんも部長も、二週間前から勉強するタイプだったんだな……。私は今まで一週間前になってからああそろそろか、とようやく重い腰を上げていたというのに。ここ数年に限り、そんな時間がなかなか取れなかったというのもあるが。こちらのテストがどのような傾向で出されるのかが判断できないので、珍しく今回は真面目に二週間前から勉強する方が良いのかもしれない。
それからの私は、休み時間の読書を一時的に封印し、代わりに勉強へ時間を回すことにした。しかし他人がいる空間での勉強というのはあまり集中ができず、身に入らないので、諦めてまた読書をすることにした。……そうだ、関連書籍の読書をすれば良い。とも思ったが、都合が良さそうな書籍に興味が湧かなかった。さらに諦めて、教科書を読むことにした。
もちろん教科書にも興味が湧くわけではない。しかし教科書は、見知らぬ関連書籍よりは勝手知ったる存在だ。何度も読み込むことで、記憶の定着に繋がるかも……しれない。
部活で部長や轟さんにこの学校の過去問について尋ねてみれば、それを聞いていた佐倉さんが、その日のうちに過去問をくれた。「あたしは前見て生きてんのよ」と名言のような台詞と共に渡された。過去問は「あげる」と、そして返してくるなと言われた。
部長の解説によれば、家に持ち帰らず、ロッカーに入れたままの、いわゆる在庫処分品であるとのことだった。体の良い、ゴミ回収に使われたのだと。それでも私は有り難かったので、ウィンウィンの関係なのである。
用紙には、テスト中に書き殴ったのであろう、キラキラとした大きな瞳のキャラクターたちが、随所に散りばめられていた。笑いを誘う可愛らしさだった。
そしてたまに名前が付いているキャラクターもいた。リン太郎ヨシアキ、ささくれゴモントモエ、嘉門ジョニー、ちょむぽ……いずれも似つかわしくない名前だった。可愛らしい見た目のキャラクターが並ぶなか、「ちょむぽ」だけが唯一、虚ろな目をしてどこかを見つめていた。佐倉さんの闇が垣間見えた。
そして休み時間には、なけなしの集中力を掻き集めて頂いた過去問に取り組んでいれば、横に居座るようになった如月が、あれやこれやと解説をしてくるようになった。前の学校では触れられていない部分などの説明は、確かに有り難いものではあるのだが……同時にこの上なく迷惑でもあった。
そもそも先に答えを出さんか。それともその態度が「答え」なのか。言葉で示したまえよ。あ〜ああ、私も「一週間以内によろしくね」とでも言っておけば良かった。これだから甘いんだ私は。
側に如月を置く私へ、ぎりぎりと、どこかから歯ぎしりの音が聞こえても不思議ではない。如月は近所の席から勝手に椅子を拝借し、私の左隣に堂々と居座る。前の席が空いているときは、その椅子に座り、前方から話し掛けてくる。どうにも頭が痛い。
つまり勉強をするという行為が、如月に居座る名目を与えているのだ。しかし勉強は必要だ。背に腹は変えられない。私は如月の話を「ああ」とか「はあ」とか「へえ」とだけ小さく返して聞いていた。
次第に教室には、如月に勉強を見てもらおうと、自主的に勉強を始める生徒が増えていった。女子の割合は多いが、男女問わずだった。もちろんテスト前だからでもあるのだろうが。
「如月君、ここが分からないんだけど……」と集合してくる生徒にも、如月は笑顔で解説していっていた。その解説は側から聞いている私にも分かりやすかった。雪だるま式に人数が増えていくので、やがて周囲の強い希望により、黒板を使った如月講座が始まっていった。
本人は謙遜に見せ掛けた不服を見せたようにも思えたが、周囲の圧力が勝ったようだ。如月とはいえ、一対多数では分が悪かったか。
そして如月は元々このクラスの人間ではないので、如月のクラスからのやっかみがあった。他のクラスでやるならまず自分のクラスですべきだ、という旨の抗議である。人気者は人気者なりの辛さがあるんだな……と他人事のような感想が浮かぶ頃には、随分快適になった。
人が少なくなった教室は過ごしやすい。一時的だったとはいえ、自分の周囲に人垣ができ、人口密度が高くなったときは窒息しそうだった。今は集中しやすく、休み時間は以前より安堵できる時間になった。本当に、嵐のような奴だ。
また、如月に対抗するべく――かどうかは謎だが、他生徒、他クラスからも何人か独自の講座を開く者が現れたようで、始まりの地となったこの四組も例外ではなかった。私は過去問に取り組みながら、なんとなく聞いていたが、あまり頭には入ってこなかった。
そんな濃密な数日を過ごしていたときだった。
ある日、教室の雰囲気が変わった。皆一様に浮き足立ったような、そわそわとした空気に、甘い香りが混じっていた。ふと、思い当たるイベントがあった。バレンタインデーだ。
昨日までは勉強、勉強! とでもいうような空気だったので、周囲の切り替わりように驚いた。今年は平日だったのか。へえ。そういえばスーパーのレジ横でやたらとチョコレートを売っていたような。そんな時期かとはぼんやり思っていたものの、今日だったとはな。
如月からは関係性を破棄する旨が伝えられないままなので、継続しているという前提で考えてはいるが、特にバレンタインに関して話題が及ぶことはなかった。及ぶ機会もなかったが。バレンタインなどのイベントごと、または追加要望などは「オプション」という扱いになるので、申告がない限りは互いに何もしないと決まっている。
オプションは内容に応じて、話し合いの末、お互いの利益提供を決定して行われる。そういった手続きが必要なので、希望するならば前日以前の申告が必須だ。しかし当日である今日までになかったとなると、やはり必要はなかったのだろう。
そう安心していたツケとでもいうのか。
今日の昼休みは、一段とかしましい如月サイレンが鳴り響いた。如月センサーズには、メインセンサーとサブセンサーがあるのだろう。普段はメインセンサーのみで、何かあればメインとサブの両方が稼働するため、爆音が仕上がる、と。ああ、頭が痛い。
各所から如月の元へ、手に菓子を持ったりした人間が集結するが、如月はその人波を割り、こちらへとやって来た。側に来たのは分かっていたが、私は見遣ることもなかった。
私から渡せるものは何もないぞ。オプションだからな。そちらの申告漏れなのだからな。私は一切用意していないぞ。大体それだけもらえるのだから、私一人分なかったところで、大した損失じゃないだろう。さぁ帰った帰った。
「梓真さん」
私はもう会釈すらすることのなくなったまま、仕方なく声が降った方を見た。如月の手には箱があった。早速貰いましたよ、とでも?
すると如月は顔を寄せて、小さいがはっきりとした声で言った。
「これ、梓真さんに」
如月は机の上に箱を置くと離れた。
突然の出来事に驚き仰け反った私は、音を立てて椅子から転げ落ちそうになった、が、壁が受け止めてくれた。以前の席から見て反対となる、廊下側の壁際最後尾である。
如月が手に持っていたものを、私に渡したのだと周囲の人間が分かった瞬間、きゃあああという悲鳴が上がった。紛うことなき悲鳴だ。絶望悲嘆の、地獄で鳴り響くような悲鳴である。まさに阿鼻叫喚だ。
如月は地獄を作るだけ作って、そのまま出て行った。
周囲の人間は、それでも受け取ってもらおうと如月を追い掛ける者と、戦意喪失し、その場に留まる者とに分かれた。地獄はしんと静まり返った。
そして私は、強張ったように身動きが取れないでいた。
――爆弾だ。
こ、こんなの、爆弾じゃないか。どうすれば、どうすれば良い。
この赤い箱め、貴様は悪魔の使者か、パンドラの箱か⁉︎
だ、大丈夫、一つ一つ順番に配線を切っていけば、爆発しない。だがあと何分、いや何秒だ、いつ爆発するんだ! いっそのこと、窓の外へ放り投げ――これは爆発物ではない。落ち着け。
体勢を立て直すと、慎重に手に取った。想像していたよりは軽い。手の平より少し大きく、厚みのある箱だ。どくどくと鳴るのは鼓動なのか、秒針なのか。
どうすれば良いのか分からなかったが、とりあえず鞄に入れた。臭いものに蓋をするように、自分の記憶から抹消し、なかったことにした。爆発するなら、私の知らない場所で爆発しておくれ。
そして麻痺が解けたのか、その場に留まっていた者たちは、口々に疑問や不満を放った。
「どういうこと」
「なんで貰ってんの」
「調子のってんじゃないの」
「意味わかんないんだけど」
「何なの一体」
その内容に一部同意していた。私自身困惑していた。
……規模は小さいが、結局爆発してしまったか。
音に出さず、ゆっくりと深呼吸した。大丈夫だ、落ち着け自分よ。このまま何事もなかったように、いつもと同じように過ごせば良い。
過去問を進めるべく、机に向き合った。
女子生徒数人は怨嗟を漏らしながら、教室を出て行った。これから、注意深く過ごしていかなければならないだろう。彼女たちの中で不満が爆発したからだ。遠巻きに何かを囁かれるだけなら、実害がないので問題ないのだが、行動に移されていくと必然と実害が生まれてくる。予め対策を立てておかねば。
よくあるのは身の回りの備品や荷物に、何らかの工作が加えられることか。幸いにも、この学校にはロッカー、下駄箱共に鍵が付いている。荷物やらは基本的にロッカーへ入れておき、机の中は空にしておこう。しかし鞄までは入りきらないだろうから、極力離席を減らし、できるだけトイレにも近づかない、そして貴重品と食品もロッカー行きだな。
不要な物は基本的に持ち込まないようにしているが、どれだけ入るかが疑問だな。再点検して不要な物は、今日持ち帰ろう。彼女たちもいきなり行動には移さないと信じて、放課後まで普通に過ごそう。
いつもは快適に眠れている昼間の睡眠時間は、あまりよく眠れなかった。
センサーズによる視線の鋭さは増していたが、放課後まで何もなかった。
ロッカーを点検し、不要な物を回収すると、机の中にある物を全てロッカーに入れた。何とか入ったので一安心だ。
部活では来週から活動は停止するが、個人で集まって勉強会をしないかとの提案があった。私は辞退を申し出た。他人と交流しながら頭に入るタイプの人間ではないし、多分もう関わらない方が良い。もしも爆発事故がなければ、経験として一度参加してみたかったが。
私以外には八木さんが不参加のようだ。少し意外な気がしたが、轟さんは参加するようである。
部長からは、気が向いたらいつでも来てくれとの温かい言葉をいただいたので、笑ってはいと返事だけした。
テスト前最後の部活が終わり、部室を出ると――私は思わず叫びそうになった。喉まで出掛かった声を、ギリギリのところで堪えた。
「梓真さん、お疲れ様」
――なぜここに貴様が! お前はストーカーなのか?
そんな言葉も出せずに、私は直立不動のまま、壁際に立っていた如月を凝視していた。
「そんなに驚かなくても」
如月が言うと同時に、井門さんと八木さんから声が掛かった。
「シジョウ、どした?」
「後ろ閊えてますがー」
私は気を取り直すと、入り口から避けて謝った。
「すみません、何でもありません」
部室から出て来た皆のうち、佐倉さんと轟さんは気付かずに帰って行った。そして井門さんと八木さん、部長の三人がその場に残った。
「もしかして七瀬、入部届けを出してなかった、とかはないな?」
如月の存在に気付いた部長が、如月と私を見ながら尋ねた。如月が生徒会長だから、だろう。私は即座に首を振った。
「いえ、私は出しました」
「七瀬さんと個人的に話があるだけなんだ」
如月が言えば、部長は納得したようで、部室の鍵を閉めると「じゃあ、気を付けて」とだけ言って帰って行った。部長がいない心細さたるや……。
すると様子を見ていた八木さんが、こちらの側に来ると背伸びをして、私に耳打ちをした。
「六番目、ですか?」
私は目を見開いた。驚きながらも、しっかりと小さく頷いた。離れた八木さんはにっこり笑うと「続き、楽しみにしています」と言って、井門さんの手を引いて帰っていった。井門さんはずっと不審げにこちらを見ながら引っ張られて行き、遠くで「なんなんだ一体」と言っているのは僅かに聞こえた。
如月はずっと、一部始終を見て笑っていた。




