19-2
私はとにかく白いモノが気になって仕方がなかった。何の飾り気もなく、一見「ただの米」なのだが、炊きたてのご飯とは違った光沢で輝いている。汁気のないお粥のようであるが、チーズの匂いがする。不思議だ。とりあえず掬って食べてみた。
「うっ……」
「もしかして嫌いなものあった?」
珍しく如月が不安げに尋ねた。私は首を振って否定した。
「うまい……」
「それなら良かった」
米の一粒一粒が確立して、米ならではの歯応えがある。うどんでいうコシのような。そしてチーズの風味と、これは、よく分からんが旨い味で、とにかくうまい。美味しい。うまさに浸ればうっかり涙が出た。
如月がギョッとして尋ねた。
「えっ、ちょ……梓真さん泣いてる?」
「失礼。おいしくて」
近場にあったティッシュで目を拭いた。
「そんなに喜んでもらえたなら光栄、だけど」
まごついたようにこちらを窺いながら、如月は静々と食べていた。
私は嬉しいや悲しいなど種類は問わず、感情の総量が基準を超えると、行き所のない感情を処理しようと体が涙を作ってしまうタイプである。感情の内訳や理性とも関係なく泣いてしまうのだ。しかし他人から見れば涙を流すというのは「堪え切れない何か」、とりわけ悲しみや嬉しさを流す行為と受け止められるので、動揺させてしまうのも理解でき、今の場面においては多少申し訳ない。私自身、他人が泣いていればそう判断してしまうだろうし。
つまりは美味しさで満たされた上に、それを噛み締めることができる嬉しさと、久し振りのちゃんとした食への感動、宿敵との決別を決意した門出に漂う、ほのかな晴れやかさと切なさの合計値が、基準をうっかり超えてしまっただけなのである。また、基準値は体調やメンタルによって変動するので一定ではない。
そんな言い訳を心の中で済ませて、スープやサラダ、肉団子も食べ進めた。どれもこれもうまい。なんなんだ如月は本当に。ここまで来れば腹は立たない。むしろ叩頭させてほしい。うまい。毎日、いや、毎食食べたい。
「君は天才だ、尊敬する。グルメリポーターのような表現はできないが、とにかく大変おいしい。お金を払うので毎食食べたいほどにおいしい。無理なのは分かっているが」
「そ……、かん……いや、えっとありがとう」
胃袋を掴むという言葉は、こういう事態を指すのだろうか。料理が上手いというのはそれだけで才能だものな。その魅力に、うっかり心の臓が奈落に落ちても致し方あるまい。嗚呼、羨ましい、憎らしい、素晴らしい、最高だ。
「ところでこれらの料理名は?」
私が唐突に尋ねれば、如月は順に示しながら答えていった。
「ああ、そうだね。シーザーサラダにオニオンスープ、ピーマンの肉詰めとリゾットだよ」
「ほお、なるほど」
この白きモノの名はリゾットと言うのか。そういえば名前は聞いたことがあるが、見たり食べたりしたことはなかった。へえ、これが。なるほど。気に入った。近う寄れ。
ピーマンは横に切れば花のようだな。華やかだ。
初めて知った風な私を見て、如月は少し不思議そうにした。
「どれもメジャーな料理だと思うけど。全部簡単だから、すぐに作れると思うよ」
「……簡単なのか? これらが?」
「見てたでしょ?」
「いやあ、しかしだね、初心者をそう舐めてもらっては困るな」
如月は気が抜けたように笑った。その顔に少し胸が騒ついた。
「そこで威張られても。リゾットなんかは特に、放っておいたらできるし。ちゃんとやろうとすればスープを少量ずつ足していくべきなんだけど、それだと使うコンロが圧迫されるから。なんならレンジでできるよ」
「これが……レンジで……」
「今回は元々用意してたダシを持ち込ませてもらったから、コンソメとかブイヨンでやればもっと簡単。もちろん味は違うけど」
ああ、そういえばどこから取り出してきたか分からん、大きなペットボトルに入った液体をどばどばと注いでいたような。七つ道具かと思ってた。ダシだったのか。
「それであのコンソメを……」
私が思い返しながら考えていれば、如月が肉詰めにも話を向けた。
「こういうタネはベースさえ掴んでおけば他に流用できるからね。今回は肉詰めにしたけど、丸めてスープに入れたりあん掛けにしたりとか、もちろんハンバーグにも。慣れてきたらバランスを考えて、材料を変えていけば良いから」
「ほお……」
そんな器用なことができるんだろうか……。いや、当たって砕ける、それしかあるまい。やると決めたんだろ七瀬。突撃あるのみだ。しかし肉との格闘はレベルアップしてからだな。乞うご期待。
そうして如月から知識を受けながら、昼食は終わった。私の中では昼食と呼ぶよりも夜食に近いものだったが、事前アンケートによる「簡単かつ腹持ちの良い料理で」という曖昧な希望には忠実だった。私から見て簡単と言えるのかはさておき、だが。
食器類は食洗機に託し、一息ついた。
昼過ぎ、光が差し込む中でお茶を飲む、穏やかな時間だ。部屋の中は暖かく、心地いい。だがこれから、戦闘に入る。自分の心はゆっくりと冷えていった。
テーブルの上以外は、先程と何ら変わりない。切り替わってゆく自分の心情に、自分で驚いた。
「さて、本題を話したいのだが」
料理の続きを聞かせてくれ、そう言うのと変わらない温度で言葉が出た。聞いた如月もにっこり笑った。それはいつもの、見慣れた如月だった。
「なにかな」
「君はなぜ私に話し掛けてくるのか?」
如月は笑みを深めた。
「話したいと思ったからだよ」
「契約を破り、やめろという私の主張を振り切ってまで、話したいと思うのはなぜだ?」
「仲良くなりたいからだよ」
如月は似たような返答を繰り返した。やはり話す気は当分ないようだ。
「残念ながら、私の意思に反する行動を繰り返すことで、君への好感度は下がる一方だと伝えておこう」
「料理は喜んでもらえたと思ったんだけどな」
どこか白々しい声に、私も淡々と返した。
「学校での君と、ここでの君は別評価だ。合算したところでマイナスではあるが」
「僕はあくまで梓真さんの意思を尊重したつもりだったんだけどね」
如月はゆっくりお茶を飲んだ。
「どの辺りが?」
あれが尊重した行動なのか? 真逆も良いところだが。
「僕のことを『知りたい』と言ったのは梓真さんでしょ? 月二回話す程度じゃ、何年経ってもお互い分からないままだと思うよ。毎日話してたって分からないことは沢山あるのに」
たまにとんでもない解釈をする如月に、付いていけない自分がいた。先程までは話が通じていたからこそ、失望感さえ滲んだ。
「私が君に対して『知りたい』と思ったのは、雑談で済む日常のことや、好みだとか、そういう話じゃない。君の、考えを知りたい。君がなぜ、私と関わるに到ったのか、その理由を。そんなことは公共の場で話すようなことじゃないだろう? だから無駄なんだよ。無意味で、むしろ私にとっては不利益だ」
「僕の? 考えって?」
「君は羽山さんと話したかったんだろう? そしてその目的は達成された。なら後は私と別れるだけだ。私は君のもてなしのおかげで充分利益を貰った。羽山さんに用があるなら私が打診しよう。だからもう無理に私と関わる必要はない。つまり別れないか? 契約を破棄して、お互い関わることがなかったであろう、本来の関係性になろう。君の正直な意見が聞きたい」
すると如月はなぜか狼狽えを見せた。
「ど……、どうして。一度で構わないの? それで充分だって? 話を聞いただけで、身に付いてはいないでしょ。話だって、半分以上忘れたってさっき――」
「私の話は良いだろう。それより君の意見が聞きたい。今の話も違うなら違うで良い。本当でも良い。君はどう思っているんだ? 何を考えている? 私にはそれを知る権利はないか?」
やがて如月は表情がなくなっていった。
「その話は、彼がそう言ったの?」
「羽山さんか? 羽山さんは何も話していないよ。全て私が勝手に考えたことだ。むしろ羽山さんには止められたぐらいだ。君が話すまで待つようにと」
痛いほどの沈黙が降りた。
「なら、……僕は話せない」
如月はきっぱりと心の扉をしめた。
りっちゃんに聞いたことがある。「人」を攻略するゲームにおいては、好感度が重要なのだと。同じ時期、同じ場所でも好感度が違えば、話す内容が違うと。秘密を打ち明けてもらえる展開になるのかは、回収した要素による好感度が左右するのだと。
見せられた端末機の「ルート分岐」という画面を思い出した。
「好感度が低いのは私の方だったか」
私が自嘲すれば、如月は目を見開いた。テーブルの上に置かれていたマグカップを握る指先は、力んで白くなっていた。……私の解釈は間違っていたか? 事実だろう? 何に驚き、耐えている? それは図星を突かれた怒りか?
解釈を間違えているとなると単純に、「好感度が低いわけではない」ということになるが。高くはないだろうが、低くもなかったのだろうか。例えそうであっても、握り締めるほどの話じゃないだろう。
黙り込んだ如月に、続きを促した。
「それで関係性についてはどうなんだ。断つ方向で構わないのか? 断つといっても事務連絡は受け付けるが」
「それは梓真さんの考えでしょう」
「なら君は続行したいのか」
再び如月は押し黙った。私はゆっくりと順番に尋ねていった。
「迷っているのか?……分からないのか? それとも答えは出したくない、何も言いたくないのか」
如月は並べたどれにも反応を示さなかった。
喋る如月は厄介だが、黙る如月もなかなかに厄介だった。喋っても黙っても厄介ならつまり……厄介でしかないな? 如月ヤッカイ・シチメンドーとかに改名したら良いんじゃないか。なんて、脳内とはいえ失礼に過ぎたか。
私はちゃんと真面目に話を続けた。
「意思表示をしないのなら、私は都合の良いように解釈する。そう解釈した上での話だが、君がもし迷っていると仮定するならば、それは執着だろう」
如月の周囲はどこまでも静かで、日曜日の昼に相応しい、落ち着いた時間が流れている。そして如月の、見開いた目と目が合う。垂れた目の形と似付かわしくない、強い感情を宿した瞳は、奥底から地鳴りを呼び起こすようだった。
――的を射たのか。
私は内心震えていた。吊り橋を渡るように、眠る獣の側を歩くように、震えながらも、気丈に、冷静に努めた。
「何に執着しているのかは分からないが、それはやめておいた方が良い。執着は疲弊しやすい感情だ。君の心と体の健康のためにもおすすめはしないな」
如月の瞳は揺れていた。いまだ口は堅く閉ざされている。
何に迷い、何と戦っているのだろうか。私は別に、如月の敵になりたいわけではない。そして戦いはすれど、如月を敵にはしたくない。互いに納得できる道はないのだろうか。
「では、特に面白みのない話をしよう。聞いていてくれるだけでいい」
私はそう宣言すると、一呼吸を置いてから、如月の了解など確認せずに一方的な話を続けた。
「どうやら『大切なもの』というのはなくしてから気付くものらしい。しかし私にとって、『どうでも良かったもの』というのは、なくしてみないと、手離してみないと気が付かなかった。私はそれをずっと、『大切なもの』だと思って大事にしていた。でもいつの間にかなくなっていた。そしてそのことに、ある日突然気が付いた。それから、ああ、あれは別に大事なものでも、何でもなかったんだと思い至った。むしろそれが有ることがストレスだったのだと、なくしてから理解した。それはたぶん心の空間コストを消費し続けていたんだな。もしくは思考の場所代か」
私は鬼マグのお茶を飲んだ。少し冷めていた。
「なにがしかの渦中に居ると、自分の思いしか頼れるものがなくて、だから『自分が大切だと思っている』というカテゴリに分類してしまえば、それに則って行動することしかできなかった。でも、それが本当に『大切なもの』なのかももう、分かっていなかった。考えていなかったんだ。だから今では、何が大切なのか、何を大事にしたいと思うのか、なぜ大事にしたいのか、考えるようになった。面白みのない話というのは、それだけだ」
私が話し終えると、如月は片手で顔を覆っていた。あまりにも話が面白くなかったか。すまんな。
如月は声を絞るように呟いた。
「今日は、帰らせてほしい」
「分かった。近いうちに、答えを聞きたい」
私は二つ返事で席を立った。そして言ってすぐに反省した。
「いや、私が要求してばかりだったな。だからこそ君の意見を聞きたかったのだが……そうだな、もし君に何か要求があるのなら――」
「それ以上、喋らないで」
ぴしゃりと遮った如月は、羽山さんと話した日曜日と同じような如月になっていた。見下ろした如月に、覇気はない。僅かに顔が赤いような気がした。まさかとは思うが、体調が悪かったのだろうか。もしもそうなら、話し続けて申し訳なかった。
私はすまなかったと、一言だけ喋った。




