19-1
日曜日の午前中に、私は如月を招いた。
理由は「月二回、最低一時間の交流」という条件を消化するためだ。そして、少しでも奴の真意を汲み取るためだった。
尋ねたとしても、正直に話すとは到底思えない。しかし奴の中ではどういう名目での行動なのか、それを知るだけでも多少は違うだろう。原因を探るだけが全てではないはずだ。思考や行動パターンを把握していくことで、奴を理解することになり、ひいては真意を理解できるようになっていく、はずだ。……それがいつになるかは分からないが。
呼んだのは私だが、何をするかについては如月から提案があった。ちゃんと、料理を教えてくれるらしい。その提案を聞いてからずっと、妙な緊張感があった。平常より少しだけ、どくどくと脈が強くなるような、胸の高鳴りがあった。
料理。
料理……。
それは如月よりも長い、長い付き合いの宿敵だった。その宿敵と、向き合うだけでこれだけの年月が経った……というのはさすがに大袈裟か。だが長年の憂いを、心と体と食費と健康を煩わせてきた宿敵を、倒せるのかもしれないという一条の光が見えたような、そんな気分だった。
だから万全の態勢で挑むべく、材料を揃えて迎えれば、冷蔵庫を閉じた如月が振り返って、溜め息混じりに怒った。
「料理は材料からだからね」
そ、そうか……。材料選びから、既に料理は始まっていたのか……。知らぬが故の、軽率な行動だった。怒られて当然である。
「す、すまない。今から買い直してくる」
「一人で行ったら何の意味もないでしょ」
「……では、一緒に来てくれないか」
私が頼めば、如月は嬉しそうに笑って頷いた。初めて見る笑顔に、不覚にもどきりとした。今のは、いつもの嘘くさい顔じゃなかった。そんなに、本心から笑えるほど、料理のことが好きなんだろうか。
羽山邸から一番近い、といっても徒歩二十分ほど(坂道を除く)のスーパーへ二人で向かう道中、私はまだ先程の感情を引きずっていた。
これは一種の吊り橋効果、元々緊張状態に近かった私には、ギャップによる心理的負担が強かった。その後遺症みたいなものである。はぁ……まさか如月にTOKI☆MEKIなんぞ覚える日が来ようとは……。そういう意味でのショックを引きずっている可能性もあるなこれは。
スーパーでカートを押す如月は、案の定と言うべきか、浮いていた。端に埃の詰まった棚、並ぶ野菜、惣菜の入った透明なパック、段ボールや発泡トレー、そういった庶民的な空気感と、全く馴染んでいなかった。如月の周囲にだけ、ここは百貨店ですと錯覚させる、キラキラしいフィルターでも掛かっているかのようである。お坊ちゃんめ、アイドル皮は脱いでおけ。侍る私が悪目立ちするだろうが。
昼前だからか、ある程度人は多い。割合は女性の方が多い気もするが、男女問わずすれ違った如月を振り返る。遠巻きな視線と囁き声、私も似たような状況を体験中ではあるが、そこに伴う感情の種類は真逆である。月とすっぽんか。
気の抜けたふざけた曲だけが、唯一私に向けられた声のように思えた。
棚の前で立ち止まった如月は、手に缶を持って尋ねた。
「梓真さんツナは大丈夫?」
「ああ、ツナマヨはおにぎりの中で好きな具材上位に入る」
ちなみに一位は梅、二位は鮭、三位がツナマヨ、四位は昆布、五位におかかだ。いずれも僅差である。
「じゃあ入れとくね」
あると便利だよ、と言ってツナ缶に続きパスタや素麺やら、コンソメにナントカダシなどを勝手にカゴへ放り込んでいった。コンソメとかって、絵柄を見るに、スープで使うやつだろう? スープなんぞ一度も作ったことないぞ。絶対に使わないし宝の持ち腐れだろうと思うものの、他に利用方法があるのかもしれないと自らに言い聞かせ、保存期間が長いので渋々抗議はしなかった。
お坊ちゃんは他にもぽこぽこと、知らないものや、よく分からないものもカゴへ入れていった。入れながら、如月は食材を選ぶ基準などを説明していたので、私がふんふんと聞いて話に意識を向けていれば、いつの間にかカゴの中身は賑わっていた。庶民の財政状況を考えよ、貴君。
「きさ……らぎ君、キミはそれを誰が買うと考えているのかね」
「え? 僕が払うつもりだけど?」
「はあ?」
私は思わず素っ頓狂な声が出た。何で私の食材を貴様が払う。わけがわからん。貴様に借りなど作らんぞ。
私が眉を寄せていれば、如月は苦笑して言った。
「初回サービスだと思ってくれれば」
む。初回サービスか……。
「後で見返りは要求してこないと?」
「もちろん」
そう言って如月は柔らかに笑った。初回サービスなら……仕方ないな。借りではない。サービスなのだから。でもたぶんそれ、結構な額だぞ。
不承不承、如月のサービスとやらを受け入れた。
それぞれ一つずつ袋を持って、スーパーを出た。
帰り道、如月はいつもの調子で笑って言った。
「まさか初デートがスーパーとはね」
その発言に私はギョッとして、鳥肌が、なんなら蕁麻疹が出そうだった。今は陽があっても寒いに変わりない。寒さを自覚すれば、一種の恐怖心も相まって本当に鳥肌となった。
私が何も言えないまま目を見開いていれば、如月はくつくつと笑った。
「そんなに驚かなくても」
付き合っているという体裁上、そんな発言はやめてくれとも言えなかった。やめてくれと言ったところでやめるかは別として、だが。思わず腕や手を摩っていた。
それにしても、同じ笑い顔でもここまで印象が違ってくると、手品のように化かされているんじゃないかとも思えてくる。それとも如月自身の問題ではなく、私自身の問題なのだろうか。
軽い緊張状態と、それが収まった状態では、やはり受ける印象は違うだろう。だが果たしてそれだけだろうか。
一見同じようでも、自然な笑いと、作った笑いは何かが違うのだろう。ならばその微細な何かが私にとって不愉快であったり、全身を掻き毟りたくなったりするのか。だが私にそんな微々たる差を知覚できているのだろうか?
そもそも、顔の違いなのか。忌避しているのは発言ではないのか。無言の如月と、喋る如月ならば後者の方が厭わしい。ならば如月には極力黙っていてもらえれば、私は彼をもっと許容できるのだろうか。
……つまり口を縫い付ければ良いのか? それはちょっとバイオレンスだな。やめておこう。
羽山邸に戻ると、如月が支度を始めた。
黒いエプロン姿は、様になっている。エプロンってするべきものなのだろうか……。持ってないから、良いよな、しなくても。
ところでこの如月を写真に収めてブロマイドにしたら、売り捌けないだろうか。しかし私が売れば袋叩き一直線だな。中島さんとか、誰かが代理で売ってくれれば……いや、面倒臭いな。やめだやめ。
そもそも撮影できる機械がない……とそんな話はさておき、今回は初回ということで、私は見ているだけらしい。そんなことってあるのか。普通は先に私がどの程度できるのかを把握して監督するものじゃないのか? 教育方針の違いか? それとも君、ただ自分が作りたいだけじゃなかろうな。
しかしもしも如月は作りたいだけで食べたくない、というタイプならば、食べるだけの私が消費を担当すればウィンウィンの関係なのではないか。如月は作って満足、私は食べて満足という素敵な関係に早変わりだ。ダメかな。
さて、如月のお手並みはどこで拝見しようか。
「私は背後から見ている方が良いのか、正面から見ている方が良いのか、どちらだ?」
私が初歩以前の質問をすれば、如月は腕を捲りながら真面目に答えた。
「見えにくいだろうから正面で良いんじゃないかな。あと動線把握してないとぶつかったら危ないし」
「承知した。よろしく頼む、先生」
「先生はやめてくれる?」
「……師匠?」
「いつもと同じで良いよ」
なんだ、つまらんな。遊び心のないやつめ。
私は椅子を引っ張ってくると、調理台を挟んだ如月の正面に腰を下ろした。良い具合に手元が見えやすい。少し骨張った指は長く、整えられた爪は清潔感がある。
じゃあ始めようか、と言った如月は、道具の説明から入った。包丁の持ち方や手入れなど、基本的なことから一通り教えてくれた。如月の説明は分かりやすく丁寧で、「先生」と呼ぶに相応しかった。この講習、何時間の予定なのだろうな。
聞きながら見ていた左手首は綺麗なもので、どこにも何の傷跡もなかった。もし傷があったとしても、数日で治る程度の些細なものだったのだろう。つまり包帯という処置は過剰、しかしお坊ちゃんであることを考慮すれば、過保護な対応が行われたのかもしれない。なんにせよ酷い傷を付けたのでなければ安心した。
そして本当は、真面目な奴なんだな、としみじみ思った。だからこそなぜ、約束を破り、私の主張を無視し続けるのか、理解できなかった。なぜ学校での如月は、いま目の前で解説している如月と、あんなにも印象が違うのだろう。
どちらが本当なのか、なんてありきたりな台詞が頭に浮かんだ。迷ったときはコイントス……などという、お洒落な方法は身に付けていない。自分の好きな方を信じる、というのも良いだろう。だが、嘘も含めてのその人だと思う。本当のことを言うのも、嘘をつくのも、同じ人ならば、どうして切り離せようか。
……如月は、何を考えているのだろう。
道具の話が終わると、ようやく調理が始まった。如月の手付きは思い描いていたよりは普通だった。素早いとか鮮やかである、という点はない。高橋さんに見られたような力強さも特にはない。だが無駄も一切なかった。淡々と調理が進行していくのを見ているのは、何となく面白かった。
調理をしているときの如月は真顔だったが、何となく楽しそうだった。私は頬杖をつきながら、説明を聞き、進行を見ていた。
如月がずっとこの調子なら楽なんだがなあ……。私は相槌以外に何も話さなくて良いし、腹が立ったり全身を掻き毟りたくなるようなことも言わないどころか、自分のためになる話ばかりだ。
しかし同時に、そんな如月であればこそ、なぜ私と時間を共有しているのか疑問になる。用済みになった私とは、早く解散した方が身のためだ。無駄どころか、骨折り損のくたびれ儲けだ。
基礎はちょっと分かったし、料理そのものに立ち向かう気持ちはようやく湧いてきた。これからちゃんと練習していけば、可食物はできるはず。私が求めた簡易なレシピもそれなりに揃ったし、彼に頼る必要もないだろう。つまりもう利益はいらない。
破棄してもしなくても如月は話し掛けてくるのであれば、元々どちらでも構わない。どちらを選んでもただ、事態は悪化していく。そして何らかのきっかけで契約が露見すれば、本当に私は学校に居られなくなる。さすがにもう転校したくはない。ならばできるだけリスクを除去するべきだ。
さっさと契約は破棄しよう。それが互いのためだ。
「梓真さん、聞いてる?」
如月に声を掛けられ、意識を解説に戻した。
……少し聞いていなかった。直前まで聞こえていた音を脳内で再生し、言葉として飲み込んだ。ホウチョウ、キリカタ、ダンメン……。
「ああ、切り口一つで違うんだろう? しかし私はそこまでのクオリティを求めていないから、情報だけ得ておく。それに詰め込み過ぎだ。正直、半分以上は忘れてしまったな。情報には感謝しているが」
私が冗談めかして笑えば、如月はすぐに鍋の方を向いた。どうやら忙しそうだ。だが今回は手伝ってはいけないようだし、傍観に徹する。
料理を段取り良く作っていくには、レシピを覚えてどこをどう組み合わせるかというのを考えなければならないから、やはり頭が良くないと難しいのだろう。もちろん経験値によるものも大きいだろうが……私にできるときなど来るのだろうか。道のりは遠そうだ。
「……聞いてくれてるなら、良い、けど。あと五分ほどで順番にできていくから、食器の用意だけお願いできる?」
「心得た」
私が皿を用意して天板の空いたスペースに並べれば、しばらくして如月が料理を盛り付けていった。白い食器に、鮮やかな料理が美しい。だが一種類だけ白い皿と同じ、白い料理があった。これは何だ? 米?
後で説明があるだろう、と疑問は端に寄せ、料理をテーブルに運んだ。それぞれ準備を済ませれば、対面する形で互いに席に着き、合掌した。
並んだ料理を見れば、思わず頬が緩み、口角に力が入った。
――ああ! 久し振りのちゃんとしたご飯だ!
「如月。ありがとう」
言えば私の締まりない顔が気に障ったのか、如月は眉間を詰めながら視線をずらして呟いた。
「……どういたしまして」
大したことじゃない、と言いたいのだろうか。顔を引き締めておこう。いや、そんなことはどうでも良い。さあ、待ちに待ったごはん! 良い匂い! きみたちを! 私は歓迎する!
表面上は努めて穏やかに、心の中では両手を広げて昼食を歓待した。




