17
翌日、如月センサーズ待望の「如月君」が登校したことにより、サイレンの音量は平時の五割増しだった。元気そうでようござんす皆様方、……と思っていれば、いつの間にか二倍になっていた。鳴り止まない。朝からどうした。
周囲に人影を感じた途端、サイレンは鳴り止んだ。嫌な予感とともに、人影を仰ぎ見る。
――如月貴様、なぜここに。
如月が笑顔で立っていた。サイレン以上の警鐘が、頭の中で鳴り響く。ここで後手に回れば致命傷だ、先手を打たねば。如月が行動するよりも先に、席を立ち上がる。
「おはよう梓真さん」
クソッ、発言には間に合わなかった、だがまだ致命傷ではない、かすり傷だ。
「おはようございます」
会釈をしながら最速の歩行で教室を出た。かすり傷かと思ったが、これは重傷だ。結局後手に回ってしまった。ああ、もうそろそろ朝休みも終わるというのに、どこへ向かえば良いというのか。もしかして如月は、話があったのか? 念のため、以前も訪れた実技教室の方へと向かった。
階段を上り切ると、近くの角にうずくまった。冬の朝は寒くて染みる。……ああ、頭が痛い。
センサーズが居た手前、邪険に扱うこともできず、真顔で挨拶するという選択肢しか取れなかったが、手痛い結果に思える。無視をすれば愛想がなく、笑顔で返せば媚びへつらうと囁かれるのが定石だ。
噂だけで済むなら構わないが、風向きの悪くなった七瀬丸は、下手をすれば難破する。今はまだ船として進んでいるはずだが、いつ大破して沈没するか、もうすでに沈没は始まっているのか、分からない。
本来ならサイレンがいつも以上に鳴っていた時点で、退室するべきだった。だが、まさか如月が協定を易々と破ってくるとは思っていなかった。奴を信じた私がマヌケだった。
そして不戦条約――ではなく、校内での接触禁止、つまり会話さえも禁止していることは明文化している。なのに、なぜだ。なぜ奴は破った。
一定の調子で聞こえてくる足音を認識して数十秒後、如月は現れた。しゃがんで見上げると圧力を感じたので、立ち上がった。そういえば階段近くも危険だよな。声が通りやすい。廊下の端へ移動し、如月と対面した。
如月はもう本調子なのか、いつもの笑顔であった。
「どうして逃げるの、梓真さん」
「どうして話し掛けてきた如月」
「梓真さん。それは答えになってないよ」
思わず溜め息が漏れた。
「私には君と話す意思はなかった。だがあの場で主張するのは憚られた。だから対象から遠ざかった。それで、君の答えは?」
如月はくすくすと笑った。
「昨日電話くれてたでしょ。何か用事だったのかなって思って」
「ならば折り返せば良いだろう」
「ごめんね、着信に気付いたのが今朝だったから」
ケッ、白々しい。なら今日帰ってから掛けやがれってんだ。てやんでえ、べらぼうめ。
「何度も言うが、校内で話し掛けようとするな。契約違反だ。繰り返すようなら契約を破棄する」
如月は満足そうににっこりと笑う。
「僕は良いよ。破棄しても」
やけにあっさりと告げた如月に、何かが引っかかった。また、何かを企んでいるのか?
「……これは、君から持ち掛けてきた話じゃなかったか」
「はは、『契約』にしたかったのは梓真さんでしょ? 契約してもしなくても、僕に損失はないんだよね。簡単に言えば、梓真さんの利益がなくなるだけだよ」
……そういうことか。確かに、如月は「付き合うこと」の条件として利益提供を提案した。相互の利益提供にしようというのは私の提案だ。その形に落とし込むために契約という手段を取ったのも私で、如月の本来の申し出は「付き合おう」という一点のみ。「付き合うこと」が――「羽山さんとの接触」ができた今、利益提供という餌を撒いてまで無理に継続する必要はない。
つまりここで破棄すれば、私は利益を受けることもできない上に、如月に脅し……交渉することもできず、不利を得る、と。
ああもう、頭を掻き毟りたい気分だ! 人通りの多い路上で一発芸を十回するだとか、とにかく破棄するリスクももっと重点的に書いておくべきだった! 今更無茶苦茶な条件を思い付くとはな! 過失で破棄する場合、望む物資の提供だけにしたが、自らの甘さに反吐が出る。
私は契約してしまった以上、継続していた方が得だ。違反行為があった以上、無償の利益提供を求める権利ができる。具体的には要望どおりのレシピを寄越せ、だな。……どう料理してやろうか。
しかし、もしも破棄さえしてしまえば、絶対に如月が話し掛けてこないというならば、そちらの方が良い。そこはどう出るのか。
「ならば破棄すれば君は話し掛けてこないのか」
「ああ、何の憂いもなく梓真さんと話せるね」
――だめだ、契約は続行の方針でいく。
だが、なぜ如月は私と接触しようとする? 羽山さんと話すという目的が達成されたなら、私の存在はもう無用なはず。……あ。連絡先を教えて貰えなかった、とかか? 私が印象を悪くしたせいか? そんなはずはない……よな?
それ以外なら私と話す理由は何だ?
「何が目的だ」
「はは、それは梓真さんの口癖かな」
如月は感想を漏らしただけで、その後に続く話はなかった。
やはり答える気はないようだ。
……それもそうか。悪役設定でもないのに「お前は用済みだ」とは言い辛かろう。羽山さんが目的というのも、私の推測でしかないし、如月としてはそんな主張はしていないのだから、体面上は円満に別れるのが理想だろう。つまり「用済みになったのですぐに別れた」とは思われたくないということだ。
付き合い始めてからすぐに別れようと言ったとあれば、ただでさえ常に疑っている様子の私が、詰問してくると思っているのだろう。……間違ってはいないが。
私から別れを切り出されるのが理想、ということか。ならばやはり私は、関係性を継続させた方が良い。私との契約が少しでも「縛り」になるのならば、羽山さんへの被害も事前に察知できるかもしれない。如月の出方を伺い続けるためにも、この契約は必要だ。虜囚として、諜報を続ける。
そして、早速聞くべきことがある。これは羽山さんのためではなく、自分の身を守るためだ。そもそも電話を掛けた理由がこれだった。
「君はなぜ昨日と一昨日休んだ?」
「あれ、梓真さん知ってたの。僕のことを気にしてくれてたんだ?」
私は無言で睨み上げた。数秒してようやく如月は答えた。
「気分が悪かったんだ」
問題です、如月君は何で休んでいたのでしょうか。答え、気分が悪かったからです、二日間も。
胸焼けが続くなら病院に行くか、献立を改善した方が良いんじゃないか。なんて、私が言える立場ではないな。
いや、ふざけている場合じゃない。私が聞きたいことはそうじゃない。
「それは、日曜日のことと関係があるのか?」
「体調が悪かっただけだよ」
「どこが悪かったんだ?」
聞けば、如月は笑う。
「やっぱり心配してくれてるの?」
「ふむ、そうだな。疑問を持つことが心配というなら、それで良い。それで、どこが悪かった?」
私が食い下がれば、予鈴が鳴った。もうそんな時間か。如月の顔は、いつの間にか笑顔が消えていた。
「頭が痛かっただけ。……もう戻らなきゃ」
「待て。ここでは――学校では、君と話したくないが、それ以外でなら、私は君と話してみたい。ちゃんと、友達になろう」
「……え?……いや、付き合ってるんだから、友達にはもうなれないでしょ」
如月は冷めたように笑った。
確かにそのとおりだ。
今の関係性が嫌だと思うのは、私のわがままだ。自分が後悔したくないがための、自己満足のための行動だ。
だから何人も、自分が上手く立ち回れる範囲でしか相対しなかった。だがその閉じた世界に、無理矢理土足で入り込んで来たのは如月の方だ。私の心情に、ストレスという形で入り込んで来たからには、私には対峙する必要がある。
心の平穏を守るため、謎や不快を放置して、そのまま生きていくことはできない。心の第三地区まで蔓延したストレス臭は、無視できるものではない。
悪臭の原因を処理するには、ちゃんと調べなくてはならない。
「人として、付き合うことは不可能か? 私は、君を知りたい」
如月は眉根を寄せる。どこか悲痛にも見えるその表情は……嫌悪だろうか……。
「やめてよ。……もう、戻れなくなる」
如月の言葉で、私は我に返った。
「そうだな、すまない。生徒会長が廊下を走っていたら面目が潰れるな。引き止めて悪かった。戻ろう」
言うや否や、私は遠回りをして教室に戻った。
もしも如月が、私を利用するために近付いたのなら、意図せぬ範囲から「好意に見えるもの」を寄せられたとあれば、面倒に感じるだろう。私としては好意ではなく、原因調査であるのだが、客観的にそう取れないのは分かる。
私はどこか、如月を「人」と思っていなかったのかもしれない。だが如月は涙を流すような、人だった。私はそれに気付いたはずだったのに。
私はどこかで「心ない人間」だから、こちらも同じように土足で踏み込んでも良いと思っていた。しかし心ない人間だからといって、私が受けたストレスを同じように返して良い理由にはならない。心があるなら、尚更だろう。
嫌いな人間にほど、こちらが手を下してはならない。
如月と一緒に戻ったとあれば、即座に死刑台送りになる気がした。
教室に戻ると、如月センサーズから多少の視線を感じながら、席に着いた。
着席して少しすればホームルームのチャイムが鳴った。担任の話を要点だけ聞きながら、如月から感じた違和感を振り返っていた。
……そうだ、それはある意味での拒絶、「やめて」という言葉だ。今までの如月ならば、自分の意思に反することは、「それはどうかな」という態度だったように思う。真っ向から否定をするわけではないが、意見が違うということは主張するという印象だ。その如月の「やめて」という言葉を、私は初めて聞いた。
包帯を巻くほど……かどうかは定かではないが、強く握りしめたときでさえ、「やめて」だとか「離して」とは言わなかった。あまつさえ言い訳のようなことを喋っていたというのに。
――余裕がなかったのか?
……それはなぜだ?
考えられるのは休んだこと、その理由だ。本人は体調不良と言ったが、どこか煮え切らない。
如月センサーズの指摘する「鬱」というのも、大きく外れてはいない気がする。もしも多大な精神的衝撃を受けたのならば。それは如月が泣いていた日曜日、羽山さんとの会話で。
如月に聞いても答えないのなら、もう羽山さんに尋ねるしかないのか? 羽山さんを煩わせるのは気が引けるが……。しかし、他に方法が思い浮かびそうにない。とりあえずやるべきことを、やれそうなことからやろう。
それから、約一週間ほどが経った。
一度如月について、羽山さんに尋ねてみたが、答えは貰えなかった。
『私が話すことじゃないから――どうしても、私からは話せないから、ごめんね。どうか本人から聞いてほしい。本人から話せるときが来るまで、待っていてあげて』
羽山さんからそんな風に頼まれたとあっては、私はもうそれ以上掘り返すことはできなかった。
如月については、拒絶されたのはあの一度きりで、それ以降、本人は相反する態度を示し続けた。以前にも増して接触を図ろうとしてくる。具体的には、私を見かける度に声を掛けてくるだとか、毎日いずれかの休み時間に私を訪ねてくるだとかだ。
始めはサイレンが鳴れば教室を出ていたのだが、私が教室にいないときには、教室で私の名を挙げていることを耳にして以来は、諦めて教室に居ることにした。「七瀬さんいる?」とか「七瀬さん知らない?」と如月の口から出る回数が増える方が辛い。教室前の廊下に居る生徒は、同じクラスの人間だけとは限らない。
如月には虫除けスプレーのような、こちらから打って出ることができる防御策がなかった。常に後手に回った私は、数日で噂されるようになった。「如月君」がいつも転校生の「アズマナナセ」を探している、「如月君」は「ナナセアズマ」とどういう関係なのか。
基本的に噂は中島さんからしか得ることがなかった私でさえ、最近の噂は彼女以外からよく耳に入ってくるようになった。そもそも中島さんとは席が離れたので、会話をすることもほとんどなくなったのだが。
――どうにも頭が痛い。私の方がストレスで休みたい気分だった。
如月には何度もやめろと言ったが、レシピさえ与えておけば正当化できるとでも思っているのか、一向にやめる気配がない。むしろレシピを渡すのを口実にまた話し掛けてくる。これは一度、果たし状で校舎裏に呼び付けて、本気でボッコボコにするしかないのか。言ってきかぬなら体に示すまでよな……。
そしてそのレシピが活用できているかと言えば、一度もできていない。正直なところ如月が用意したという事実だけで、レシピが憎らしい。レシピに罪はないと、そのままファイルに入れ込んでいるが、羽山邸の片隅に溜まっていく一方だった。
数日前には、折角何の約束事もない休日が久し振りに訪れたとあったのに、あまり気は休まらなかった。羽山邸からボーッと海を眺め、山を眺め、空を仰いだ。ただ時が過ぎていった。




