15-2
外に出ると、いつの間にか雪が降っていた。どうりで寒いわけだ。
折り畳み傘を差し、普通の傘を持って、バス停まで如月を迎えに行った。降車した如月に傘を渡せば、太陽は出ていないのに、相変わらずサングラス越しに見たくなるような爽やかさだった。それは羽山邸に着いても変わりなく、その上折り目正しさまで備えて、腹が立つことこの上ない。いや、いかん。落ち着け、深呼吸だ。
玄関で迎えた羽山さんに、私は簡素に互いを紹介した。一瞬羽山さんが驚いたような顔をした気がしたが、もう一度見たときにはいつもと同じで、気のせいだったのかと思った。
リビングでは私と羽山さんが隣に、対面に如月が座り、羽山さんがいる目の前で契約を結んだ形になった。
如月は再び最初から最後まで読んでいたが、結局何も注文は付けずに署名した。あっさりと終わった手続きは、あまり実感を持てなかった。
――こんなことまでして、結局如月の手の内が分からなければ、道化師も良いところだ。そうならないように尽力したいものの、具体的にどうするべきか。まずは友好的な態度から、だよな。今までの対応と真逆の行動になるが、不審に思われないように徐々に対応を変化させなければ。……できるのだろうか、いろんな意味で。
そしていずれでも動揺を見せなかった如月だったが、羽山さんとの面談となると、僅かに緊張を見せた気がした。
それから二人は会議室――客室に籠り、夕方になっても出てくることはなかった。
二人が話し込んでいる間、私は掃除やら本を読むやら気ままに過ごしたが、時間が経過するにつれ、そわそわと落ち着かなくなっていった。日が落ち始め、そんなにも時間がかかるものなのだろうかと、不安さえ覚え始めたところで、ようやく二人は出てきたようだった。
リビングでテレビを見ていた私は、足音のした扉に意識を向けた。羽山さんが見えたので、私は扉の方に向かった。
入って来るなり、羽山さんは帰り支度をし始めて言った。
「もう暗いから、彼を送って行くね。あと、私もそのまま帰るから梓真ちゃんとはもうお別れだけど、あんまり何もできなくて、ごめんね」
「い、いえ! お疲れ様です! 私は何も望んでませんし、充分に頂きましたから。お気をつけて」
私が軽く頭を下げれば、羽山さんはにっこりと笑って、「そこに頭があったから」とでもいうような勢いで私の頭をガシガシと撫でた。羽山さん、撫で方はワイルドだ……。
私は気恥ずかしさと嬉しさで胸が温まったような心地だった。今更、誰かに撫でられることがあるなど思ってもみなかった。リビングから出て行く羽山さんを見ながら、ふと思い立つ。
ということは如月も帰るということで、羽山さんの様子から見て、もうすぐに帰ってしまうようだ。ならば如月の荷物を撤去――ではなく、持っていかなければ。私は覚えている限りの荷物を回収し、リビングを出れば、丁度こちらに来た如月とぶつかりそうになった。
なんとか衝突を免れた私は、好都合とばかりにそのまま確認を口にした。
「荷物はこれで全てだったか?」
問い合わせてみたが返事はなく、見上げた如月は……少し様子がおかしかった。爽やかさのさの字が消えたような、これまで見たことのない如月だった。少し顔が俯き気味で、暗いとまではいかないが、なんというか、思い詰めているといった印象だ。どうしたのだろう。如月がこんな風になるなんて、羽山さん、一体何を……?
既に玄関の方にいた羽山さんを見るが、特に変わりなかった。羽山さんが何かを言ったとかではないのか? ならばこの如月は何だ?
「どうかしたのか、如月……?」
思わず私が声を掛けると、如月はまるで今私に気付いたといった雰囲気でこちらを見た。いつもと変わらない調子で微笑んでみせたが、よく見れば目が赤い。……泣いたのか? あの如月が?
やっぱり羽山さん、何か言ったのか?
私が困惑を隠せず、二人を交互に見比べすぎたせいか、こちらを見た羽山さんが笑いだして言った。
「自分で言うのも変な話だけど、彼、よっぽど私と話したかったみたい」
言葉を噛み砕くのに、少しだけ時間が掛かった。
あ。……ああ? そ、そういうこと、か?
感激の涙、と? そういうことなのか?
如月を見れば、静かに笑って頷いた。やっぱり如月は建築士として羽山さんが好きだと言うのは嘘ではなくて、そして私との関係性も羽山さんとのパイプにしたかったからだったのか?
ならばこのキラキラしさの減少した姿は、喜びのあまり疲れ切った名残り、と? それほど感激するような人物と会えたということであれば、念願が叶ったということか。
「良かったな、如月」
私は特に何も考えずに言ったが、それを聞いた如月は、驚愕したように目を見開いた。その様子を見て逆にこちらが驚いた。え、今の台詞は絶対に過去一番、驚かれるような言葉じゃない。平々凡々、至極真っ当、驚く要素は何一つないだろう。とことん如月が分からん。というか荷物はこれで全てなのか? 返事をしろ如月!
如月は何も言わず私から荷物を受け取ると、玄関へ向かった。それが返事か、如月貴様。
如月の後に続くように玄関に向かうと、羽山さんが笑顔で別れを告げた。
「じゃ、梓真ちゃん元気でね」
「はい。羽山さんも」
羽山さんが軽く手を振って先に出て行くと、如月が残った。先週も見た背中だが、今日は心なしか小さく見える。君は本当に、肯定的な感情だけで泣いたのか?
「ありがとう梓真さん」
扉の前で少しこちらを振り返った如月は、鼻声で言った。じゃあ、と言って出て行こうとする如月になぜか、猛烈に挨拶以外の何かを言うべきだと思った。気付けば私はそのまま降りて、如月の腕を掴んでいた。
如月は掴まれた腕を不思議そうに見た。そりゃ、不思議だよな、私も不思議だとも。ああ何を――何を言うべきだ。
私は何も考えずに、そこにある感情を言葉にしようとした。
「如月、その、君は……この関係は、本意じゃなかったかもしれない。私も本意じゃなかった。だが、君を知れて良かったと、思えるようになりたい。それは、本心だ」
私は手を放した。如月は何とも言えない顔をしていた。困惑、悲観、不快、それらを混ぜ溶かし、薄く塗ったような顔だ。そりゃ、そうだよな。訳の分からないことを言った自覚はある。それについ先日までの私の態度を思えば、今の行動は急変に近い。戸惑わせて申し訳ない反面、私自身も戸惑いを持っていた。
「引き止めて悪かった。では、……また」
不可解な表情をしたままの如月を押し出し、誰も見送ることなく戸を閉めた。
履いていた靴下を洗いに出すと、リビングのソファに埋まった。――やった、やってしまった。
ダンゴムシのように丸まり頭を抱えた。失態。これはかなり精神的ダメージの大きい失態だ。無策で懐に飛び込んだ以上の失態だ。
あれか、あの……同情、というやつだろうか。雨に打たれた子犬、震えるウサギ、そういったいずれも同情を誘うような姿から可愛げを全て抜いたような、そんな姿に見えた。
普段なら腹の立つような言い回しをする如月の、口数が少なく反応も鈍い妙な姿を見てしまったからには、こちらも対応を変えざるを得なかったのだと、そういった言い訳の立て札を突き刺した場所で眠りたい。つらい。
常に笑っているのが奴のアイデンティティじゃなかったのか。奴から爽やかさやら笑顔を抜けば、斯様な辛気臭い、ではなく陰気な、じゃなくて、なんというか、見ていて平手打ちしたくなるような姿だったとは。いやいや、暴力はだめだ。そうじゃないんだ。
いわゆるギャップというべきものに、動揺したのだ。相手への好悪を抜きにして、普段と違う様子というものは気にかかるもの。人でなく、物でも環境でもそれは同じで、些細な変化、大きな変化で印象は違う。私にとって先程の如月は大きな変化で、だから動揺して、動揺した結果、別の感情が芽生えた。あれはどんな感情だった。
一度考えていたことを放り出し、早めの夕食を食べる用意をした。といっても、残っているご飯をお茶漬けにするだけなのだが。自分の用意できる食事は基本的にお茶漬けなので、漬け物などのご飯に合うものだけは、少し種類を揃えてある。今日は白菜にしよう。
ボリボリと白菜を噛み、ご飯を掻き込みながら放り出した思考をもう一度手元に手繰り寄せた。
私の行動は同情だった。二種類の同情だ。きっかけは見た目からの同情だ。誘発されたのは、私と付き合わざるを得なかった如月への同情だ。
如月は、羽山さんと話すために私と接触をした。理由は分からないが、羽山さんとは直接話すことができない環境だったのかもしれない。如月がもし初めから羽山さんに会いたいと言っていたら、私は断ったかもしれない。
そもそも今回は羽山さんから提案があったから会えることになったが、本来ならまだまだ会える可能性は低いはずだ。如月がこちらに訪れる頻度を増やすことで、自然と羽山さんに会える可能性が僅かに増えていく、という程度だ。
私がややこしいことを言わなければ――そもそも、私がややこしい人間でなければ、適当に付き合って、そこから羽山さんと接触する機会を窺ったはず。そして羽山さんと会える頃にはそれなりに時間も経って、良いように別れることができ、目的は達成できる。
だからそんな私と、付き合おうという選択肢しか選べなかった如月への、同情だ。
如月はなぜ羽山さんと会いたかったのだろう。羽山さんと何を話したのだろう。
あの如月が泣くほどの何か。嬉しかっただけとは、思えない。
……まさか私が如月の印象を悪くしたのが影響しているとか、そんなことはない、よな? この協定に反対してほしい気持ちはあれど、泣かせてほしいとは思っていなかった。もし印象を悪くしたせいで羽山さんが怒って如月が泣いた、とあれば後味が悪く申し訳ない。でもあの如月が、怒られた程度で泣くような神経にも思えないが。
私が如月に同情を感じたのは、初めて如月の本心に近しい感情を見受けられたからだ。今までの如月は私にとって、感情と行動が一致しているように思えなかった。だからこそ本心の片鱗が見えたときには、高揚するような興味が湧いた。そして今回は、同情した。
同時に、同情できた自分に驚いた。心の底から嫌いな相手であれば、そんな感情は湧かない。少量であれ、同情できた自分は、心の底から如月を嫌っているわけではない……のだろう。
だからこそ、「知れて良かったと思えるようになりたい」というのは、紛れもなく本心だ。嫌いだという感情のまま、去りたくない。嫌いでも良かったのだと、自分の嫌いが何なのか知れて良かったと、思えるようになりたい。
たぶん、大丈夫だ。これから彼を知っていけば、全てが嫌いとなることもないだろう。そもそも嫌いなのは彼の矛盾した行動であり、彼そのものではないと、そう結論付けたはず。
ならばこれから彼に納得ができれば、たぶん大丈夫だろう。
食事を終えると、テーブルを片付け、日課を済ませて一日を終えた。




