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羽山さんは言葉を探しているというような空気だった。
「それに、うーん、なんていうのかな、埃とか汚れだけの話じゃなくて、生活感のない雰囲気にも少し引っかかってて。綺麗な暮らせる倉庫に来た感じって言うのかな。自分で言うのもなんだけど、こんなに素敵な家なのに、誰も住んでいないのが勿体ないなって」
「もしかして、ご自身でデザインを?」
「そ。自分の自分による自分のための家。家も生きてるからさ、誰も住んでないと緩やかに死んで行くんだよね。それで、君に住んでてほしいってことです」
付け足したような今の話が、羽山さんにとって一番の本心のように思えた。「誰かに住んでいてほしい」という気持ちを内核に、条件で包み込んでいったのではないか。
どう? と再び羽山さんが尋ねた。
概ね私の中にある答えは決まっていた。今までのやりとりは、少女漫画なら、主人公が即決してモノローグでまとめられ、最初の数ページで終わる話だ。
――余談だが、少女漫画がもたらす幻想の主体は、向こうから惚れてくれるイケメンな青年ではなく、明るく前向きで能動的な主人公にあると思っている。そんな子が居れば私だって、イケメンな好青年特有の酔狂な嗜好がなくとも、好きになっている。
だが私は生憎、能動的な主人公にはなれない。石橋を叩いて叩いて叩き割って、新しく橋を作らないと渡れないような、そんな面倒臭い人間でやってきた。
だから、もう少しだけ、一人で考えさせてほしい。
「すみません、少し、時間を下さい。お手洗いに行ってきます」
「……え。あ、うん。行ってらっしゃい。って大丈夫? ちゃんと歩ける?」
「はい。ありがとうございます」
やはり、優しい。もし本当に私を騙す気ならそれも敢えてなのかもしれない。だが、素で言っているように思えた。
先程よりも力は、入る。
案内板の表示に従い、奥へと進んで行った。
木製品を取り入れた、落ち着きのあるデザインは、御手洗内部まで続いていた。鏡に映る自分は、洒落た内装に不釣り合いで、覇気が無かった。目の下に滞在するクマも、痩けた頬も、今すぐにはどうしようもなかったので、乱れた髪だけ手櫛で整えた。
手を洗って、深呼吸をし、一度渦巻いた思考をリセットした。
脳内会議を開催した。
始めに自分の置かれた状況を整理する。
車に轢かれそうになったところを助けて貰った男性に、家まで提供されそうになっている、で大筋間違いないだろうか。
……客観的な正否の判定は下されないのが、なんともムナシイ。
今問題としているのは、居住の提供を受けるか受けないかだ。
提案を受けるとするならば、一体何が問題となってくるのだろうか。利益と不利益を考えるとする。
利益はもちろんタダで住めることだ。家賃、水道、電気、ガス代全てが無料。新しく住む家を探している人間にとって、こんなに素晴らしい利益はないだろう。
しかしそれは同時にリスクを備える。提示された条件は、あまりにも私にとって利益が大き過ぎるからだ。美味い話には裏があって当然なのだ。
それでは、裏、不利益は何だろう。
まずは羽山さんが信用できる人物かどうか。
正直に言えば半分半分だ。助けてくれたこと、別荘居住の提案は素直に有り難い。だが、それは同時に不信へと繋がる。何の見返りもなく一方的に善意を示す人間などいない。そんな人間は、人ではなく仏か神である。
そうすると一体、羽山さんから見て、私から得られる利益は何なのか。しかし、これが思い付かない。
私はどこからどう見ても金なぞ持ってそうには見えない。以前ならともかく、今のこの寂れた風貌でなら尚更だった。
ならば女子としては? これは輪を掛けて有り得なかった。あまりに方法が回りくどい。――羽山さんは無自覚な人タラシではありそうだが。
となるとやはり本人の主張通り、条件に合う管理人代わりを探していた、というのが羽山さんにとって一番の利益となる。
次に、今のところ羽山さん自身に大きな欠点を感じられないのも、人として信じられない点の一つでもあった。一見完璧に見えると、人ではないのではないか、と近寄り難く感じてしまう。羽山さんに何か弱点があれば、信じたい、という気持ちも湧くと思うのだが……。
この議題については、心情としての信用は半分だが、状況としては信じるしかない、という結論とする。
次に、私が条件をのんだ場合の問題点についてだ。
これも現時点ではっきりと判断できない。今のところ利益はあれど、不利益と感じる部分が少ない。問題が出てくるとすれば承諾後に、話を詰めてからでしか分からないだろう。
では少し角度を変えて、現時点で考えられる問題は何だろう。別荘地が「海と山の間」ということは、ここからはそれなりに遠いので、多分、転校は免れないところだろうか。仮に今の学校へ通うのに片道一、二時間掛かるとしても、通い続けられないわけではない。
しかし順当に考えて、それだけの交通費と時間を消費するのであれば、何らかの思い入れや目的等がない限り、近場の高校へ通うのが建設的であろう。勿論現在通っている高校には、何の思い入れもないため問題ない。選んだ理由は、家から一番近い公立校という一点のみだった。
あとは掃除生活の難易度か。羽山さんが掃除にどの程度の水準を求めているかは大きい。埃を払う程度で良いのか、それとも隅々まで一点の曇りなく磨き上げることを望んでいるのか。しかしこれは現段階で測ることはできなかった。
他には取り立てて思い付かなかった。「では契約料として百万」とでも言われない限りは、今のところ詐欺と思える要素はなかった。
しかし逃げようとした瞬間、周りから黒い男達が現れ、拇印を確認するまで取り押さえられる……なんてことは、映画でも見かけない。もしもそんな事態に陥れば、そればかりは流石にその時の己に身を任せるほかない。南無三。
さて、他に審議内容はあるだろうか。私なりに考えられる限りは出尽くした所感だった。
ところで、利益が大き過ぎるのは信用性が低い、という話とは別に、私は赤の他人から一方的に恩を受けるという環境があまり好きではない。世間では一般的であろう「奢る」という行為も、理由なくされるのはなんとなく苦手意識を感じる。
どこかで恐怖を感じているのかもしれない。金は返したと具体的に数字で確認できるが、恩は数値化できない。当人同士の満足感に左右されるのだ。そういった不確定要素が、好きになれないのだ。明確でないものが、不安に思えて、近寄りたくない。曖昧なものは受け取ってはいけないと、どこかで思い込んでいる。
あれこれ理由を付けてはいるが、羽山さんの提案を即断できないのは、本当はこの気持ちが大木となって根付いているからだった。不安だった。私が頼れるのは自分しか居ないのだから。
しかし自ら出した結論はどれも、見てみなければ分からない、話が進まなければ分からない、ばかりだった。
追い込まれ、仕方なさと、惰性で今まで生きてきた。そこから歯車が一つ、弾け飛んだ。噛み合わなくなった。色々なものから解放され、様々なものを失った。これからも今までと、似たような暮らしを続けることはできる。けれども本当に続けるつもりなら、態々家を探す必要なんてなかった。今の家でも生活は続けられるのだから。
区切りを付けたかった、気持ちの切り替えをしたかった、だけではないはずだ。どこか、どこか自分自身が変わりたくて、家を探し始めたのではなかったのか。
惰性で生きる生活には、いつだって戻れる。いつでもできるのだ。
しかし羽山さんの提案は今でなければならない。今しか手に入れるチャンスはない。
であるならば、前に進むほかないのではないか。幻想の主体、能動的な主人公に一歩近付くときではないのだろうか。
席へ戻ると、羽山さんは窓の外を見ていた。机に肘をつき、手の平に顎を乗せていた。
羽山さんの横顔から、窓越しにいくつもの車が流れて行った。道路の上を車が走るなど、数えることができないほど見たことがある光景だが、一つとして同じ瞬間はなかった。
経過時間は数分だと思うのだが、随分待たせてしまったように思う。
羽山さんは私を認めると、少し安堵したような雰囲気をして、ニッっと笑って言った。
「おかえり」
「お待たせしました。すみません」
「いいよ気にしないで。気分はどう、ちょっと落ち着いた?」
私は答えながら席へ着いた。
「はい。お陰様で。ありがとうございます」
正面から、羽山さんをしっかり見た。澄んだ茶色い瞳は、私を通してどこか遠くを見ているように思えた。
姿勢を正し、意を決して口を開いた。
「答えを出す前に一つだけ、羽山さんのことを聞いても良いですか?」
「なに?」
「羽山さんに弱点ってありますか」
羽山さんはきょとん、という擬音がよく似合う表情をした。少し視線を彷徨わせて考えた様子だった。やがて、残り少なくなって冷えたコーヒーをかき混ぜ、軽く笑いながらも、どこか真面目さを加えて言った。
「私は別にダメなところと思ってないけど、男の人が好きなところかな。あ、あと虫はダメ。特に毛虫とかのうにょうにょしてるのとか、コガネムシみたいにブンブン飛んで来るのとか」
流れるような羽山さんの発言から、衝撃と同時に、予感が的中したような納得を得た。どこかそんな気はしていた。でも、虫が苦手、だけでも良かったのだが。
こんな初対面の小娘に、掘り下げた話をして良かったのだろうか。ちなみに私は年上の人が好みだ。いや、何の話だ。
彼自身を知る為に、掘り下げた話を聞けたのは、純粋に有り難いことではある。だが、少しだけ、うまく言えない申し訳なさがある。私自身も似たような、返し辛い話をした覚えがあるとはいえども。
それとも、惚れたら後が辛いぜ、ということだろうか。イケメンに浮かれてウッカリ惚れたらフォーリンラブからゴートゥーヘルだぜと、忠告してくれているのだろうか。煌めくウィンクでイチコロハートが涙と共にシューティングスターとなる前に――
……と、ふざけるのはここで止めにしておこう。
脳を切り替え、本題に戻すことにした。
「そうですか。ありがとうございます。それでは、ご提案いただいたお話のことですが」
「え、うん。……それだけ?」
「はい。羽山さんの人柄を少し知りたかっただけです」
羽山さんは少し笑いながら「変わってるなあ」と小さく呟いた。
私からすれば羽山さんだって相当変わっている。出会ったばかりで、というよりも命を助けた相手に、礼を貰うどころか、むしろ自分の別荘を貸し与えるようなことをするのだから。
ここは本来、私が鶴ならば機を織らねばならないし、亀ならば竜宮城へ案内せねばならないところだ。そのどちらもできない私に、素敵な場所を提供するのだから、おかしな話だ。
恩返しのできない私がしたことといえば、石橋を叩いたことだけ。叩く内に、叩いていた金槌が割れたので、見切りをつけて渡ることにした。
今までの自分ならばきっと、そこから渡るという発想にはならなかっただろう。留まるか、引き返すかだ。
しかし私は一度死んだも同然だ。死んだ命を、羽山さんが拾い上げてくれた。死んで、また生きているのならば、それは生まれ変わったというのだろう。
つまり私を構成する歯車の動きが変わったのだ。そして私は今までの自分と違った選択肢を手に入れることができた。
進むということを覚えた。
橋の向こう側はまだまだ見えそうにないが、不安は砕けた金槌と一緒に置いてくることにした。
もう充分に検討した。断る理由はなくなった。
「謹んでお受け致します」
羽山さんは、綺麗な形の目をまん丸に開いた。
数秒その形を保つと、やがて細めてくつくつと笑い始めた。
「ふ、ふははっ。それ、女子高生のセリフ? ふふ、でもありがとう。良かった。本当に、ありがとう」
羽山さんは目元を拭っていた。やがて呼吸を落ち着かせて言った。
「厳しい顔してるから、断られるのかと思ってた」
「元々こういう顔です」
「なにそれ」
もっと笑いなよ、可愛い顔してるんだから。そう羽山さんが言った。
何だ、それは。
余計に、どんな顔をしたら良いのか分からなくなる。いつの間にか眉に力が入っていた。
「あ、でもこれセクハラじゃ――」
「承知してます」
台詞を遮ると、羽山さんは破顔した。つられて自分も顔の力が抜けていた。