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15-1


 万全の態勢を整えた。

 羽山邸をこれでもかと磨きに磨き抜いた。

 昨日はバイトを終えると、ずっと掃除に駆け回った。我が人生に悔いなし、と言いたくなるほどやり切ったという達成感で、満ち満ちている。

 特に今回力を入れたのはガラスだ! 見よ、この透明感、輝き、五十代とは思えな――それは肌だ。

 いや、しかしうっかりしてると鳥のように激突しかねないこの透明度、朝日で煌めくこの輝き、我ながら惚れ惚れする。いやいや、元がな、元が素晴らしいガラスなのだよ君。そうそう。

 羽山さんの到着予定時刻まであと幾ばくか、暫しソファで何も考えず、無心となった。


 やがて車のエンジン音が聞こえると、玄関を出た。

 車庫に停まった一台の車に近付いたところで、音は止まり、中から人が降りてきた。

 羽山さんだ。


「羽山さん、お帰りなさいませ。お待ちしておりました」


 咄嗟にお帰りなさいませと言ってしまったが、少し違う気もする。かといって他に思いつく言葉もないので、まあ良いか。

 私が笑って言うと、それを見た羽山さんも、柔和に笑いながら返事をくれた。


「梓真ちゃん。久し振り。ただいま帰りました」

「はい。お久し振りです」


 へへ、と笑いながら玄関の扉を先に開け、羽山さんの後に続いた。

 気を抜くと、表情筋がレンジで焼いた餅のようになりそうだ。引き締めなければ。羽山さんという嬉しい存在ばかりじゃない。数刻後には奴も襲来……ではなく、ここに来るのだから。

 リビングに着くと、椅子に腰を下ろした羽山さんに要望を聞き、コーヒーをいれた。これでこそ嗜好品を一通り揃えた甲斐があったというもの。

 自らの仕事に満足を覚え、机を挟んだ羽山さんの対面に座った。

 羽山さんは優雅にコーヒーを飲む姿さえ様になる。更に英字新聞と銀縁眼鏡が加われば、見た者全てにオシャレという概念を叩き込むであろう、最強かつ幻想の象徴となるのだ。うむ、何を言っているんだろうな私は。

 ああ、いつも見ている空間が、羽山さんが一人いるだけでこんなにも違う。ダイヤモンドダストでも舞っているかのようにきらきらとして見えるのだ。まるで羽山邸全体が、主の帰還を祝福でもしているかのように、空気から違うのだ。

 私は思わず脳の沸騰した発言をしていた。


「羽山さんがいると世界が輝いて見えます」


 それを聞いた羽山さんはからからと笑って、余裕を持った対応をした。


「そう? はいはい、ありがとね。そんな可愛い梓真ちゃんにお土産ですよ」

「……オ? おお、お土産、ですか?」

「はい。これ」


 受け流されたことが少し寂しくもあり、同時に、真剣に取られて変態を見る眼差しを受けるよりはマシだろうかと安堵もしていたところで、予想していなかった展開に面食らった。

 そんな心情のなか、羽山さんが渡してくれたお土産は、ワインレッドの色をした六角形の箱だった。中央には店名か商品名かであろう、光沢のある金の文字が刻印されていた。文字列は語る、嗚呼、やはり世界は輝いていると…………。


「ありがとうございます。家宝にします」


 羽山さんは口元に笑みを浮かべながらも、その眼差しは渋かった。穏やかでありながら、鋭利な現実が胸に突き刺さる。


「いや、ただの市販のお菓子だから。腐る前に食べようね。梓真ちゃん何飲む?」


 はいはい開けちゃいましょうねと、羽山さんは私が抱え込んでいた家宝を回収すると、開封して机の上に置いた。箱の中には可愛らしい焼き菓子が並んでいた。

 そして羽山さんは流れるように台所へ向かって、鬼マグを取り出していた。

 私は慌てて羽山さんの元へ駆け寄り、その手に握られた鬼マグを奪取しようとした……が、ひょいと頭上に持ち上げられれば、身長という単純明快な差を前に、無理を悟らざるを得なかった。

 飛び上がれば埋まる距離ではあるが、そこまで足掻く理由はない。私は物理的には諦めたが、精神的には諦めていなかったので、率直に不服を申し立てることにした。


「自分がやります」

「いつも自分でやってるんでしょ? こういうときぐらい大人に甘えなさい」


 私は思わず目を丸くした。羽山さんの一見厳しいような口調の中に、溢れ出る優しさが目頭に沁みた。泣いても良いでしょうか。


「はは……泣きますね……グェッ」

「いや宣言されても……泣かれたら、っていうか泣かないの! もー、可愛い子が『グエ』なんてそんな泣き方を」


 羽山さんを呆れさせてしまったが、嗚咽が止まらない。ずびずびと鼻水も止まらない。

 そんな私を傍目に、羽山さんは苦笑しながらも紅茶を用意してくれて、先程と同じ席に座った。

 私は大人しく着席し、まだ少し泣きながらカヌレを頬張り、羽山さんの淹れてくれた紅茶を飲んだ。ここは、市販の紅茶がこんなに美味しかったことがあるか? と言うべきポイントだが、生憎半分以上味が分からない。嗅覚が味に影響を与えていることを実感した。

 ……ダメだ。こんな顔で奴には会えない。話題を変え、気持ちも切り替えよう。


「羽山さん、本当に今日はありがとうございます。こんな下らない話のためにわざわざ――」

「いいのいいの。それでその契約書っての、見せて」

「エッ」


 私は昨日と同じく動揺した。

 昨夜羽山さんから電話があり、突然に色々と聞かれ、私はうまく躱す言葉が思い付かずに、大体のことは喋ってしまった。羽山さんは、あえて直前まで聞くのを待っていたような気もするし、気紛れで聞いたなような気もする。羽山さんの思考回路は、よくわからない。


「あるんでしょ?」

「あ、あるにはあるというか、一部を除き仕上げましたが、その、他人に見せられるようなシロモノではなく……」

「保護者は知る権利があると思うな〜」


 法律上は羽山さんは保護者ではないし、後見人は叔父だ。それでも私の心理上では保護者のように羽山さんを慕っているのは事実であり、それを指摘されれば最早これは弱点のようなものだ。


「そっ……そんなところで保護者を出さないでください! ずるいです! 卑怯でございます!」

「クク……ごめんごめん。でも私も無関係ではないのだし」


 私はしばらく羽山さんを見つめた。いつもと変わらず、にこにことしている。私はようやく諦め、渋々書き上げた契約書もどきを取ってくると、羽山さんに差し出した。

 羽山さんは躊躇なく読み始め、私は羞恥心で居た堪れなくなった。う、穴があったら入りたい。顔から火が出るとはこういうことか。今すぐ外の海へ、頭から落ちるように飛び込みたい。タスケテ誰か――!


「うん、良いんじゃない」

「……」


 逃亡経路を算段していると、声が掛かった。

 私は顔を覆っていた手をそっと開いた。返事を思い付く前に羽山さんは続きを言った。


「ここはわざと空けてるんでしょ。なら、これで良いよ、『梓真ちゃんが許可した場合は許可する』ってことでね」

「え? と言いますと、それは」


 羽山さんが指したのは互いの利益提供の部分だ。私の方だけ空白にしている。だから作った契約書は一つだけだ。二種類作ると息巻いていたのは、多少なりとも大袈裟に伝えるためであった。いや、当初は二種類作ろうとも思っていたこともあったが、早々に取り止めた。なにせ面倒だし。

 つまりこれは、羽山さんの許可がもらえたという方向で結論付けて良いということか。


「私はもう答えを決めていたから。梓真ちゃんが苦労する方をわざわざ選んだりしないよ」

「ど、どど、ほ、ほんとですか」

「ほんとほんと。だからそんな感じでそこ埋めといて。で、彼がきたら私の前でちゃちゃっと名前書いてもらって、今日の名分は終わり!」

「では、面接はいらないのですか」

「この契約に関してはね。でもこんなこと言ってくるような子、どんな子か見ないわけにいかないじゃない? だから面接はするよ。梓真ちゃんを託せるに足るのか」

「た、託す⁉︎ な、何を仰い、仰るのですか羽山さん、そ、そのような関係ではございません! 清廉潔白! 言語道断!」


 支離滅裂! ダメだ、情報処理が追いつかない。


「こんなの作ってまで付き合うのに?」

「付き合うための線引きです」

「変な関係だねぇ。まぁ、私と梓真ちゃんも似たようなもんか」

「え」

「だってそうじゃない? 私とのアレは契約書というよりも、取り扱い説明書みたいな意味合いが強いものでしょ。これも同じかなあってね」

「そ、そうでしょうか……」


 私と羽山さんは変な関係だったのか……?

 私は真っ当な――。いや、真っ当な()だと思っていた? 羽山さんとは兄でも親戚でも何でもなく赤の他人だ。そうだ、例え保護者のように思っていたとしても、私と羽山さんはただの契約者だ。そしてその契約書も取り扱い説明書だと言われてしまえば、当てはめられる言葉を私は知らない。

 取り扱い説明書の要る関係か。言われてみれば確かにそうかもしれない。うまく名前を付けられない関係性だからこそ、私には補足説明が必要なのだろう。羽山さんとも、如月とも。

 私は空白部分に、羽山さんが言った条文を書き加えた。


「これで問題ありませんか」

「うん。大丈夫。むしろこれで梓真ちゃんは不利になったりしない?」

「大丈夫ですよ。できるだけ不利を得ないようにしたつもりですし。それに相手が羽山さんの出した答えに、何か意見するようには思えないので。ただ、私ではなく……その」

「別に問題があるの?」

「羽山さん自身に、もしかすると、何かがある……かもしれません」


 私の濁した言葉に、羽山さんは首を捻った。


「要領がつかめないんだけど」

「すみません、私自身も曖昧なんです。考えた結果『そうかもしれない』ということで、証拠とか、そういうのがあるわけじゃないんです。ただ、もしかしたら羽山さんに迷惑が掛かるのかもしれない、最悪、被害に遭わせてしまうかもしれない、と感じました」

「え……っと、危ない子なの?」

「素行不良とかではないんです。暴力を振るうなどの危険性はありません。一見穏やかそうではあるんですが。この関係性も、羽山さんと繋がりのある私だからこそ提案してきた、としか思えなくて。だからその、羽山さんが持つ何かを狙っているかもしれない、と」


 羽山さんはふーんと唸って、カヌレを口に放り込んだ。

 探偵や科学者は推論の段階で話したりはしないだろうが、私は学生なので話しちゃうのだ。だが、話して良かったんだろうか。羽山さんの、奴に対する心証を悪くしても良かったのだろうか。

 私としては、先入観を持ってもらった方が「こんな関係性は認めない」と言ってもらえるんじゃないかなんて、あわよくばそんな結果を期待できるので、良いだろう。人としては良くないかもしれないが。

 しかし、羽山さんはそんなことを言うタイプじゃないだろうなと、なんとなく思う。きっといつだって否定はしない。でも、私がもしも何かを間違えたなら、正してくれることもないのだろうか。それとも間違えたときは、間違えていると教えてくれるだろうか。私は羽山さんのことも、如月のこともよく知らない。


「梓真ちゃんはどうしてこの話を受けようと思ったの?」

「完全に、失策です。相手の狙いを探ろうと城に忍び込んで、見つかって捕まったような状態です」


 私が言い切ると、しばらくして羽山さんは笑い出した。


「ふっ、あはは。ごめん、笑うとこじゃないんだろうけど。ふふふ、そっか」

「面白いですか?」

「だって真面目に、カッコよく言うから。どんな策だったのかなって思ったら『失敗した』って。ふふふ」

「でも、完全に失敗と決まったわけでもありませんから。情報収集自体は、虜囚のまま続行します」

「その意気は大切だね。ククク。梓真ちゃんに幸運がありますように」

「はい」


 その後しばらく羽山さんとたわいもない話をして、潮時になると解散した。私は奴を迎えるにあたっての最終確認をしたり、ごろごろしたりして、羽山さんは自室で過ごして昼になった。

 互いに昼食がインスタント食品やサラダのパック、スーパーの弁当などであることに苦笑いを浮かべながら食事を済ませ、やがて如月を迎える時間となった。



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