12-2
隣に並んだ高坂さんと、黙々とアスファルトを踏み続けた。本当に、彼の行動に意味はあるのだろうか。無意味かつ無駄、互いに不利益しかないこの状況を、なぜ奥さんは指示したのだろうか。
漏れた店の明かりと、思い出したように立つ街灯がぼんやりと視界を形作るなか、取り留めのない思考を彷徨わせた。
私が考え過ぎなのかもしれない。そして高坂さんもまた、融通の利かない真面目、もしくは不器用な人なのかもしれない。
奥さんのことだ、「紳士としてちゃんと送っていくのよ〜!」と軽い冗談のように言った言葉を、高坂さんが真面目に、義務として捉えてしまったのではないか。有り得る話だ。
高坂さんは、コーヒーを淹れる「練習」をするような人物、つまり真面目な側面があるのは間違いない。そして他人とのコミュニケーションをどこか疎ましく感じている。少ないやり取りの中では、誤認を誤認と気付かぬまま過ぎることもある。そんな彼が冗談を義務と捉えても不思議なことではない……か。
――いかんいかん。正否の出ないことを、一々考え込んでしまうのは私の悪い癖だ。そうだ、帰って風呂に入ってふかふかの羽山邸高級布団に沈むのだ。高級と聞いたわけではないがきっと高級品だ。睡眠の質がそう告げている。
「あれっ、高坂?」
突然聞こえた声は、前方からだった。
薄明かりの中に、二人の人物が立っていた。もう少しでバス停だったはずなのだが……厄介だな。高坂さんに用があるなら、会話の中でサラッと断って抜けだせるだろうか。二人の後方をよく見れば、バス停の看板がなんとなく見て取れた。
互いにはっきり顔が見える距離になると、先程とは違う声が喋り出した。
「えーっまじ高坂じゃん! どしたん? てか、えっ? え、え、え。彼女? 彼女いたの! えっ?」
いかにも軽薄を体現したような男性は、高坂さんと私の顔を忙しなく見比べながら、早口で喋った。
これは面倒臭いタイプだ。高坂さんに用があるならそっと離れられたのだが、私の存在も認識されてしまっている。この場合抜け出そうとすれば、余計に絡んでくるタイプだろう。そっと、息を殺すように、存在を黙した。
「ああ、大塚……と誰」
高坂さんは向かって右側、先に発言したと思われる男性の方を見て納得し、左の軽薄体現男性を見て眉根を寄せた。
高坂さんと同じ大学の人たちだろうか。もう少し進めば確か、遅くまでやっている店も数軒あったから、その帰りか待ち合わせか、何かだろう。
「エーッ忘れられてるんですけどォ!」
軽薄男性はわざとらしく、後ろに倒れるような動作で、彼なりの悲しみを表現した。動きがうるさい。
大塚さんは彼のオーバーアクションに慣れているのか、淡々と紹介をした。
「ああ、コイツ中西。同じサークルの。あれ? 高坂今日バイクは?」
「一旦置いてきた」
「へー。そう」
大塚と呼ばれた男性は、何かを悟ったように笑いを滲ませ、それを見た高坂さんは少し不服そうだった。
二人のやり取りを見て、中西という軽薄男性が嘆きを挟んだ。
「えっさっきの質問ガン無視〜⁉︎」
高坂さんは軽薄中西を一瞥すると、すぐに大塚さんに視線を戻した。
「大塚。付き合う奴は選べ」
高坂さんの忠言に、大塚さんは軽く笑った。
「まあコイツこんなだけどさ、こんなだけど……あれ。こんなだけど、何か良いとこあったっけ?」
大塚さんはフォローを入れようとして、失敗に終わった。
「え、ちょちょちょ、待って、待って。扱いヒドくない⁉︎ 同じ仲間でしょーよ! 高坂ちゃんもおんなじ学部じゃ〜ん! え、で、で、で。彼女? いつから付き合ってんの?」
軽薄中西は高坂さんの肩に腕を回して、またもや高坂さんと私を交互に見た。
体重を掛けられている高坂さんは、この上なく冷ややかな目で相手を一瞥した。
「バイト先の子。後輩。付き合ってない。じゃ」
高坂さんが腕を剥がしながら歩き出したのを見て、私も追随した。
しかし軽薄中西は、我々の前方へ回り込み、覗き込むように上体を傾けた。面倒だな。
「え〜でもなんで二人きり〜? あっやしーな〜」
二人きりが怪しいのならば、そのままそちらにも当てはまるのだが。相手に疑惑を向けるときは、自らも同じ疑惑を向けられる点がないか要注意だ。
すると高坂さんが、手袋を徐に引っ張りながら、一層低い声で言った。
「……中西。思い出した、ゴミ野郎。オーナーに頼まれたんだ。お前みたいなゴミを掃除するようにって」
高坂さんの視線は、今にも斬り伏せんとばかりに、鋭利に研がれていた。
わだかまりのある言い方だったが、高坂さんは過去に彼と何かトラブルでもあったのだろうか。
「あわわわわわゴメンゴメンソーリーソーリー!」
慌てて謝る軽薄中西ソーリーと、ナイフアイ・高坂の間に入ったのは不動・大塚レフェリーだった。
「まーまーま、許してやって。な? もうお邪魔はしないから、さ。中西帰ろう」
大塚さんに押されて促されてもなお、軽薄中西はその腕を押し退け抵抗した。
「待って待って待って。じゃ、さ。彼女フリーでしょ? LINK交換しよ? そういや君名前は? 俺中西翔」
呆れてものが言えないとはこのことか。
その紙より薄い脳みそで、どうやって幾重にもなる大学受験のテスト用紙に打ち勝ったのかは甚だ疑問だが、今はその問題は後回しだ。手早く断るにはどうすべきか。
と、そこに助け船……ならぬ助けバスがきた。行き先は羽山邸の最寄りを通るルートだ。運命の女神に愛されているのかもしれない。
「あ、すみません。バスが来たので。失礼します」
私はチャンスとばかりにバス停へと駆け寄った。
「えーっ、ちょっと待っ――ウッ」
「消えろ」
バス停前に立ち、彼らの方を振り返れば、軽薄中西が高坂さんに襟元を掴まれていた。
ご愁傷様です。
ドスの利いた声が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにする。少しだけ声を張って高坂さんに別れを告げた。
「高坂さん、ありがとうございました。お先に失礼します」
「ああ。じゃ」
高坂さんは軽薄中西を持っていない方の手を軽く上げてくれた。私はバスへ乗り込み、前方の座席から、彼らの様子を眺めていた。
高坂さんは大塚さんと少し話した後、一人で来た道を戻って行ったようだ。一方、軽薄中西は少し悄気た様子で、大塚さんは同じ調子のまま、まだ同じ場所に立っていたのを、バスが出るまでは見ていた。
バスに揺られながら、少し申し訳なさが募る。もしも高坂さんがバイクで通っていたのなら、わざわざ送るためだけに徒歩でここまで来て、そしてまた店まで戻らなければならない。なんと非効率な……ではなく真面目で、融通の……ンン、律儀な人であるか。とにかく気分としては「申し訳ない」なのだ。本当だぞ。
私も何か、自転車などで帰れば、送られる必要もなくなるだろう。今後似たような状況になるとも分からない。早急に自転車を見繕わねば。中古品ならば安く買えるだろうか。そういえばガレージの使用許可を羽山さんに取った方が良いのだろうか。面接のときにでも聞いてみよう。う、面接、嫌なことを思い出した。自分の仕掛けた罠にかかった気分だ。
帰宅すると、再び契約書について考えることにした。
バイトでは温存できた気力を、バイト後で大幅に減らしてしまったが、今できることはしておきたい。
契約書の完成は早めに算段をつけねば、如月がどう出るのか判断ができない。期限の延長を申し込みはしたが、却下される可能性も大いにある。
期限を過ぎれば、如月が飽きるまでの無限牢獄行きだ。それだけは避けねば。
……だがこの草案も、無限牢獄に片足を突っ込む下準備のようなものではないのか。
そうだ、契約期間を限定すればいい。携帯電話にだって二年縛りとかなんとかいうのがあると聞いた。最長卒業までにしておこう。
だいたい、学生時分の人間関係などその後の進路ですっぱりさっぱり、なんてのはよく聞く話だ。問題ない。
すると突然、静まり返った空間を割るように羽山邸の電話が鳴った。少し驚いた。心臓に悪い。
噂……はしていないが、奴か。
電話の内容は予想どおり、下駄箱へ投入した報告書についてだった。
予定日はそのままで問題なかったようだが、それが少し意外だった。ああいう類いの人間は私のような凡人と違い、大抵忙しいもの、という偏見があったのだが。休みなくびっちり塾や習い事などでスケジュールが埋まっているイメージだ。たとえお坊っちゃまでも日曜日は休むものなのだろうか。
如月の予定が合わないので面接予定日の延期……なんてものを期待したわけだが、露と消えた。
私は本来「嫌なこと」にはできるだけ対面したくない。そして対面せずに済むのならば、できる限り逃避に足掻いてしまうタイプなのだ。
しかしりっちゃんからは顔に似合わないと言われた記憶はある。「最速最短で全てを処す顔」とのことだが、それは一体どんな顔だ。もしや遠回しに凶悪顔と言われていたのか? 気付かなかった……。
そして如月の慈悲により期限の延長を獲得した。奴にも慈悲の心はあった。面接が終わってから一週間、だそうだ。
最後に私は、如月に再び話し合いができないかと提案した。できれば明日にでも。
「明日、ね。そうだな、梓真さんの頼みとあっては断れないかな。時間を作るから放課後に会おうか。場所はまた前と同じファミレスで良いかな? 少し前より遅くなるかもしれないけど」
「構わない。痛み入る。では明日」
「ふふ、おやすみ。また明日」
即座に通話を切れば、耳朶に残った如月の柔らかな声で、妙に体を掻き毟りたくなった。
ケッ! 挨拶ですら腹が立つのは何でだろうな。いかんいかん、深呼吸、深呼吸。
一体私は如月の何にこんなに腹が立つんだろうな。なんとなく小馬鹿にされているように錯覚するのは、私が彼をそう扱っているからか。つまり私は如月を小馬鹿にしているのか?……うむ、心当たりが全くないとは言えないな。反省。
それよりも契約書の大基を作らなければ。できたものを軸に話し合い、その後訂正して完成させる予定だ。日曜までに渡せば丁度一週間、期限以内だ。期限の延長は貰えたものの、安心はできない。こんな下らないことはさっさと終わらせたい。私の少ない思考回路を占領している時点で大問題だ。迅速かつ的確に、最速最短で全てを処す――のが理想だ。
ああ、自分で持ち掛けておいて何だが、また奴と話すのか。はあ……。いやいやだめだ、掃除、掃除をしよう! 戦の前には掃除!
一々論って如月を嫌っていてはキリがない。
取り出したるはこの宝刀――ではなく、はたきである。『埃を掴んで離さない、瞬間接着毛!』と謳う、ほわほわの毛が特徴の清掃道具だ。ご近所さんなどいないから、こんな夜でも掃除機をかけても問題はないのだが、今の気分に掃除機は重い。片手で持てるこのはたきで、埃がありそうな場所を無心でなぞる。
棚の隙間、テレビなどの普段動かさない物の天面や側面、つまり大掛かりではないが忘れがちな部分の掃除、これは心の掃除、如月もお掃除、さようなら埃。
誰も嫌いにならないのであれば、それが一番良い。けれど私には、嫌いなものがあって、好きなものがある。その全てが急になくなることはない。
小さい頃、食べ物にも好き嫌いがあって、大人になるということは、その好き嫌いの「嫌い」だけがなくなることだと思っていた。実際、今は嫌いなものは少なくなった。でも本当は、嫌いなものがなくなったのではなく、嫌いなものとの付き合い方を知ったということが、大人になることなのだと思う。
大人は、上手に嫌いなものとの関係性を掴んでいるのだ。それは遠ざかったり関わらなかったりすること、もしくは自分の見方や感じ方が変わったりすること、それを卒なくこなすことができる人だ。
だが私はまだ大人ではなくて、嫌いなものは嫌いで、それにわざわざ対峙してしまう。嫌いなものと正面からぶつかって、ケガをして、ケガをさせる。それでは自分も、相手にも、良くない。
嫌いなものはたぶんきっと、嫌いなままで良い。嫌いなものを嫌いだと、認めることが恐ろしかった。辛かった。嫌いなのだと思いたくなかった。
それを嫌いだと感じる自分の感性がおかしいんじゃないのかと、間違っているのではないのかと、嫌いと認めることで、そうと断定してしまうと思っていた。でも嫌いなものは嫌いなのだから、嫌いなままで良い。感性に間違いなどない。
ただ、正面からぶつからないように、そっと避けていく。心の座標をずらしていく。穏やかな大人になりたい。嫌いなものがあっても、緩やかに曲がっていける、上手な大人に。




