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※冒頭から改行までムナクソです。読み飛ばしても差し支えはありません。
梓真さん。梓真さん。梓真さんはさ、梓真さん。梓真さんの、梓真さんと、梓真さんに。梓真さん、梓真ちゃん、梓真、梓真。梓真! おい、梓真。出せ。全部出せ。見せろ。これだけなわけないだろ。これで全部? たったこれだけしかないってのか? こんな金で生きていけると思ってんのか? 俺はいつもこれの五倍だったぞ? なに? 口答えするんじゃねえ! いっっテェ! テメェそれが親に対する態度か! 親に手をあげるために習わせたんじゃねえんだぞ! おい稽古代返せよ。それで慰謝料チャラにしてやる。おい、なあ。おい。本当に親を病院送りにする奴があるか? 病院の次は棺桶か。大層な御身分だよ。人一人殺しておいて自分は貴族ぐらしか? え? イイ家住んでんじゃねえか。俺が居たときたぁ大違いだ。俺には嘘ついてはした金で惨めな家に住まわせて、死んだらその金で自分は裕福な暮らしってか。冗談じゃねえ。俺を殺しておきながら。お前だけ、お前だけ。お前だけ幸せで! 俺は惨めなまま死んで! お前だけ! お前だけが!
「――違う!」
荒い息が、大きく胸を動かしていた。
頬が冷たい、濡れている、枕か。ゆっくりと上体を起こした。服が背中に張り付いている。髪も首すじに纏わり付いていた。
夢。夢を見ていたのだと気付いた。悪夢、だった。
全身にぐっしょりと汗をかいていた。今日は平日だったか? 昨日が、たしか……日曜、か。時計を見ると、いつもよりも一時間早く目覚めていた。
丁度いい。シャワーを浴びよう。それから布団も洗っておこう。うむ、外も予報も晴れだ。ここの洗濯機は大きいので大抵の布は洗えるのが魅力的だ。
カバーやシーツなどを洗濯機にかけ、その間にシャワーを浴びた。鏡に映る顔はいつもと変わりない。だがまるで、心臓辺りに穴が開いているような気がした。
今日はまだ始まったばかりなのに、もう既に体力が半分以下になってしまった。
食べる気力が湧かなかったが、食パンを半分無理矢理詰め込み、布団を干して早めに家を出た。歩行速度はゆっくりだったが、それでも教室には一番乗りだった。
私は本を開いたまま、ページをめくることなく、その中心を見ていた。
窓の外は爽やかに晴れ渡っているが、その明るさがより深く胸の穴に暗い影を落としていた。
頭がうまく働いていなかったため、中島さんが挨拶をしたことに気付くのが少し遅れた。
「おはよ、七瀬ちゃん。あれ? もしもし?」
「……あ。おはようございます」
「うん、おはよ。あ、七瀬ちゃんなんかいいニオイする。シャンプー変えた?」
「いえ、いつもと同じです」
「そう?……あ! 分かった朝風呂だ?」
「……名探偵ですね」
「へっへへ~。見た目はJK! 頭脳もJK! その名は名探偵マリナ!」
中島さんはキラッ! と効果音が鳴りそうな眩い笑顔とともに、瞳にブイサインを添えた。朝から、濃いなあ……。
「それはただの女子高生ですね。イテッ」
中島さんに肩を叩かれた。なんでだ。
「もーやだ七瀬ちゃんてば! ツッコミ所はマリナでしょ!」
「……すみません」
暴力は腑に落ちないが、ツッコミ所も腑に落ちない。
今の気分では、少し中島さんと話せそうな状態にない。頭が働かない。散歩がてら、糖分を摂取するために、自販機で甘い飲み物でも買ってこよう。
購買は昼からなのが残念だが、自販機は常時買いに行けるし、飲み物だけでなく、携帯食料も販売しているのがありがたい。成長盛りには嬉しい簡易栄養補給機だ。
自販機まで辿り着くと、温かいココアを買った。自販機は屋外にあるので、冬の今はあまり人を見かけない。そもそも品揃えがいまひとつなので、基本的にはあまり誰も買いに来ないようだ。スポーツドリンクはあるので、夏場は多少需要がありそうだが。
自販機の前には机と椅子が設置されている。寒くはあるが、しばらくここで座って飲むことにした。
長椅子に腰掛け、ココアを飲んだ。甘い、砂糖の存在感が強い甘さだ。もう少しココアの香りが強い方が好みであるが、致し方あるまい。
一息ついていると、隣に誰かが座った。わざわざこちらに座らずとも、長椅子はもう一つあるぞ?
「おはよう、梓真さん。ここって寒くない?」
――ココアを口に含む前で良かった。
声からの予想どおり、隣を見れば如月がいた。ただでさえ会いたくないのだから、今の心理状態では尚更会いたくなかった。なんなんだろう。もしかしなくてもストーカーなんだろうか。警察に届けるべき? しかし証拠がない。
「ああ、ココアで温かいんだね。梓真さんは甘いものが好きなのは間違いなさそうだ。それで、契約書はできた?」
私が返事をするより先に、如月は喋り続けていた。
一秒でも早くここから立ち去りたかったが、生憎逃げ出す気力が抜け落ちていた。精神疲弊の産物だ。
仕方なく、会話の続行を選択した。
「いいえ。ご用件は以上ですか」
如月は一瞬形容し難い顔をしたが、そのまま話し始めた。
「用件って言われると、何もないけど。ここに向かってる梓真さんが見えたから」
笑う如月が、不思議な生き物に見えて仕方なかった。なぜそんな風に笑えるのだろう。何が楽しくて、何が面白いのだろう。
私にも何か笑えることがあるだろうか。何か楽しいこと、何の憂いもなくはしゃげることが。
そういえば羽山さんに確認を取ることを忘れていた。いっそ確認など取らずに、ダメだった体で如月が絶対に承諾できようもない、無茶苦茶な条件をさっさと提示すれば良いではないか。どうして私はここにいて、どうして私はこの人間の話を、馬鹿正直に聞いているのだろう。
どこまでも甘い、甘いのだ。ただ甘いだけで、うまみも香りも、良いところなんてない。すぐに冷えた生温いココアと同じだ。
冷たい風が手や顔を冷やし、髪を少し乱していった。
「……あ。梓真さん、良い香りがする。シャンプー?」
反射的に顔が強張り、目を見張った。
咄嗟に如月から距離を取ろうとした。しかし先に如月の両手が、私の空いた手を包み込んだ。
「あれ、どうかした?……梓真さん、大丈夫? もしかして何かあった?」
伺うように如月がこちらを見た。
覗き込む目を逸らせずに、ただ見返した。
冷静になれなかった。握られた手の温かさが、侵食してくるようだった。もう名前を呼ぶな。私に触れるな。声が、視線が、体温が流れ込んで、感情とぶつかって混濁した。
如月の心配する素振りが、本心からなのか、そうでないのか、考える余裕はなかった。
「顔色良くないよ。こんなに手も冷たい。冬場は特に体を冷やさない方が良い」
言い切る如月の言葉が、過去の経験を呼び起こす。
『引っ張った時も頼りなかったし、立った時も青い顔してるし、折角の可愛い顔が台無しになるんだから、しっかり食べないと』
どうして不愉快な如月が、大好きな羽山さんを思い出させる。似ても、似つかない。何も、似ていない。
手を引っ込めるように振り解くと、その勢いのまま立ち上がった。残った甘ったるいココアを、一気に飲み干した。
「次に、校内で接触することがあれば、契約は白紙にします。それでは、失礼します」
質問を無視して一礼すると、ゴミ箱に缶を捨て、その場を去った。
逃げることができた。だが、私は逃げてばかりだ。
決着をつけよう。契約書で、これからの関係をはっきりさせよう。焦燥感を伴う胸焼けが、倒れたココアのように音もなく広がっていった。
放課後、部活に顔を出し、課題のテーマを聞いた後、帰ることにした。
布団を取り込むために、早めに帰らねばならない。あまり放置しておくと湿気る。
それから参考にするために、作品集持ち出しの許可を部長から得た。作品の傾向が被らないようにするためにも、研究は必要だ。私はどういうジャンルで作れば良いのか。
よく分からない部の、よく分からないお遊びを、真剣に取り組もうとしていた。だがそんなお遊びを全力でできるのも、健全な青少年たちの輝く青春らしくて良いんじゃないのか、と枯れた感想が浮かんだ。
靴を履き替え段差を下りると、肩を叩かれた。
振り返ると、井門さんがいた。なぜここに。
「あれ、どうかなさったんですか?」
質問をすると、井門さんは歯を見せてニカッと笑った。
「俺も今日は帰ろうと思って。なんかパッとしなくて」
「そうですか」
「七瀬さんはバス?」
「はい」
「じゃ途中まで一緒に帰る?」
「ええ。では折角ですし」
井門さんは笑顔で頷くと、喋りながら遠ざかっていく。
「自転車取ってくるから歩いといて。追い付くから」
言うが早いか、井門さんは走ってすぐに見えなくなった。やっぱり陸上とかサッカーとか野球が似合いそうなのだが。なんでこの部なんだろうか。
校門を出る手前で、自転車を引き連れた井門さんがやってきた。早い。
「早いですね」
「だろ? 中学んときはテニスやってたけど、体育大会で陸上に勝ったからな」
ぶい、と突き出したピースサインに、光る歯が添えられた。なんというか、眩しい。
やっていたのはテニスだったのか。
校門を出ようとすると、突然声を掛けられた。
「あのっ、七瀬先輩ですよね? これ、受け取ってください!」
――誰だ? 見れば知らない女生徒がビニール袋を掲げている。意図せず片眉を上げていた。
「ヒュウッ、七瀬君モテるねぇ~!」
井門さんは茶化したが、この状況、覚えがある。……悪い予感だ。
その場凌ぎで、謝辞を告げ、受け取るだけは受け取った。
すると女生徒は急いで校舎の方へと去って行った。やはり……嫌な予感だ。
歩道を並んで歩きながら中を見ると、ポケット菓子が入っていた。そして紙片も入っていたが、この場で確認するのは危険だ。見なかったことにして、鞄に入れた。
井門さんが不思議そうに尋ねてきた。
「何だったんだ?」
「お菓子でした」
「もう後輩にファンができたのか? すげえな」
ファンはファンでも、私ではなく奴のだ。
私は答えを分かっていながら、杜撰な推理を提示した。
「その考えは無理があるでしょう。たぶん井門さんや部長を落とすために、外堀から埋めようとしているのかもしれませんねぇ。もしくは井門さんに渡そうとして、本人を目の前にしたら、やっぱり無理だった……とかでしょうか」
「わはは! それこそ無理があるだろ!……でも仮にそう考えると、俺か庄司のファンってことか。それはそれで楽しみだな!」
そりゃ結構。
井門さんは引き続き、はははと笑っていた。
期待させて申し訳ない気持ちは、一抹だがあったので、話題を変える。
「ところで井門さんはなぜこの部に? テニスとは掛け離れていますが」
「ああ、中三で足の靭帯切ってさ。手術はしたし、続けようと思えばできたんだけど、なんか……さ。靭帯と一緒に、気持ちも切れたんだよな。『ま、いっか』って。熱烈に好きだったってわけじゃなかったからさ。高校からは何か違うのをしようと思ったんだけど、やりたいことないし、部活は必須だし……で迷ってた。そしたらこんな名前だったから、庄司から誘われたんだ。んで、入った。以上!」
やはりそういう感じか。スポーツが似合うのにスポーツをしてない人は大体そういう設定だ。例に漏れず、というわけだ。
本人があっけらかんと話したので、ここは湿っぽくする必要はないだろう。だが、話題は逸らした方が良い。そのぐらいの配慮はあるさ。
「なるほど……。そういえば部長のことは、イチジョウではないのですか?」
「ああ、それ。俺、仕事とプライベートは分けるタイプなんで、みたいな? っていうか、部内だけに限定した方が特別感あって良いだろ?」
井門さんは冗談と得意気を混ぜて言った。
特別感か。井門さんは心の少年が大手を振っているのか。
「そういうものですか」
「そーゆうもんです。あ、俺はどっちもカイだからカイで良いぜ」
キラキラとした笑顔で言われた。いちいち眩しい。
「いえ、結構です。私は七瀬で構いませんが」
「なはは! なんだそれ。七瀬って独特だな」
「私からすれば部の皆さんの方が独特ですよ」
「それは否定できねえ!」
がははと笑う井門さんと、しばらく適当に会話を続けてバス停に着いたので、そこで別れた。
自転車に乗って去る背を見送りながら、ふと口角が上がっている自分がいることに気付いた。明るい人間はいい。私ももう少し明るい人間になれれば良いのだが、今すぐにはまだ無理そうだ。
少し軽くなった心でバスを待った。




