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11-1


※冒頭から改行までムナクソです。読み飛ばしても差し支えはありません。






 梓真さん。梓真さん。梓真さんはさ、梓真さん。梓真さんの、梓真さんと、梓真さんに。梓真さん、梓真ちゃん、梓真、梓真。梓真! おい、梓真。出せ。全部出せ。見せろ。これだけなわけないだろ。これで全部? たったこれだけしかないってのか? こんな金で生きていけると思ってんのか? 俺はいつもこれの五倍だったぞ? なに? 口答えするんじゃねえ! いっっテェ! テメェそれが親に対する態度か! 親に手をあげるために習わせたんじゃねえんだぞ! おい稽古代返せよ。それで慰謝料チャラにしてやる。おい、なあ。おい。本当に親を病院送りにする奴があるか? 病院の次は棺桶か。大層な御身分だよ。人一人殺しておいて自分は貴族ぐらしか? え? イイ家住んでんじゃねえか。俺が居たときたぁ大違いだ。俺には嘘ついてはした金で惨めな家に住まわせて、死んだらその金で自分は裕福な暮らしってか。冗談じゃねえ。俺を殺しておきながら。お前だけ、お前だけ。お前だけ幸せで! 俺は惨めなまま死んで! お前だけ! お前だけが!




「――違う!」


 荒い息が、大きく胸を動かしていた。

 頬が冷たい、濡れている、枕か。ゆっくりと上体を起こした。服が背中に張り付いている。髪も首すじに纏わり付いていた。

 夢。夢を見ていたのだと気付いた。悪夢、だった。

 全身にぐっしょりと汗をかいていた。今日は平日だったか? 昨日が、たしか……日曜、か。時計を見ると、いつもよりも一時間早く目覚めていた。

 丁度いい。シャワーを浴びよう。それから布団も洗っておこう。うむ、外も予報も晴れだ。ここの洗濯機は大きいので大抵の布は洗えるのが魅力的だ。

 カバーやシーツなどを洗濯機にかけ、その間にシャワーを浴びた。鏡に映る顔はいつもと変わりない。だがまるで、心臓辺りに穴が開いているような気がした。

 今日はまだ始まったばかりなのに、もう既に体力が半分以下になってしまった。

 食べる気力が湧かなかったが、食パンを半分無理矢理詰め込み、布団を干して早めに家を出た。歩行速度はゆっくりだったが、それでも教室には一番乗りだった。


 私は本を開いたまま、ページをめくることなく、その中心を見ていた。

 窓の外は爽やかに晴れ渡っているが、その明るさがより深く胸の穴に暗い影を落としていた。

 頭がうまく働いていなかったため、中島さんが挨拶をしたことに気付くのが少し遅れた。


「おはよ、七瀬ちゃん。あれ? もしもし?」

「……あ。おはようございます」

「うん、おはよ。あ、七瀬ちゃんなんかいいニオイする。シャンプー変えた?」

「いえ、いつもと同じです」

「そう?……あ! 分かった朝風呂だ?」

「……名探偵ですね」

「へっへへ~。見た目はJK! 頭脳もJK! その名は名探偵マリナ!」


 中島さんはキラッ! と効果音が鳴りそうな眩い笑顔とともに、瞳にブイサインを添えた。朝から、濃いなあ……。


「それはただの女子高生ですね。イテッ」


 中島さんに肩を叩かれた。なんでだ。


「もーやだ七瀬ちゃんてば! ツッコミ所はマリナでしょ!」

「……すみません」


 暴力は腑に落ちないが、ツッコミ所も腑に落ちない。

 今の気分では、少し中島さんと話せそうな状態にない。頭が働かない。散歩がてら、糖分を摂取するために、自販機で甘い飲み物でも買ってこよう。

 購買は昼からなのが残念だが、自販機は常時買いに行けるし、飲み物だけでなく、携帯食料も販売しているのがありがたい。成長盛りには嬉しい簡易栄養補給機だ。


 自販機まで辿り着くと、温かいココアを買った。自販機は屋外にあるので、冬の今はあまり人を見かけない。そもそも品揃えがいまひとつなので、基本的にはあまり誰も買いに来ないようだ。スポーツドリンクはあるので、夏場は多少需要がありそうだが。

 自販機の前には机と椅子が設置されている。寒くはあるが、しばらくここで座って飲むことにした。

 長椅子に腰掛け、ココアを飲んだ。甘い、砂糖の存在感が強い甘さだ。もう少しココアの香りが強い方が好みであるが、致し方あるまい。

 一息ついていると、隣に誰かが座った。わざわざこちらに座らずとも、長椅子はもう一つあるぞ?


「おはよう、梓真さん。ここって寒くない?」


 ――ココアを口に含む前で良かった。

 声からの予想どおり、隣を見れば如月がいた。ただでさえ会いたくないのだから、今の心理状態では尚更会いたくなかった。なんなんだろう。もしかしなくてもストーカーなんだろうか。警察に届けるべき? しかし証拠がない。


「ああ、ココアで温かいんだね。梓真さんは甘いものが好きなのは間違いなさそうだ。それで、契約書はできた?」


 私が返事をするより先に、如月は喋り続けていた。

 一秒でも早くここから立ち去りたかったが、生憎逃げ出す気力が抜け落ちていた。精神疲弊の産物だ。

 仕方なく、会話の続行を選択した。


「いいえ。ご用件は以上ですか」


 如月は一瞬形容し難い顔をしたが、そのまま話し始めた。


「用件って言われると、何もないけど。ここに向かってる梓真さんが見えたから」


 笑う如月が、不思議な生き物に見えて仕方なかった。なぜそんな風に笑えるのだろう。何が楽しくて、何が面白いのだろう。

 私にも何か笑えることがあるだろうか。何か楽しいこと、何の憂いもなくはしゃげることが。

 そういえば羽山さんに確認を取ることを忘れていた。いっそ確認など取らずに、ダメだったていで如月が絶対に承諾できようもない、無茶苦茶な条件をさっさと提示すれば良いではないか。どうして私はここにいて、どうして私はこの人間の話を、馬鹿正直に聞いているのだろう。

 どこまでも甘い、甘いのだ。ただ甘いだけで、うまみも香りも、良いところなんてない。すぐに冷えた生温いココアと同じだ。

 冷たい風が手や顔を冷やし、髪を少し乱していった。


「……あ。梓真さん、良い香りがする。シャンプー?」


 反射的に顔が強張り、目を見張った。

 咄嗟に如月から距離を取ろうとした。しかし先に如月の両手が、私の空いた手を包み込んだ。


「あれ、どうかした?……梓真さん、大丈夫? もしかして何かあった?」


 伺うように如月がこちらを見た。

 覗き込む目を逸らせずに、ただ見返した。

 冷静になれなかった。握られた手の温かさが、侵食してくるようだった。もう名前を呼ぶな。私に触れるな。声が、視線が、体温が流れ込んで、感情とぶつかって混濁した。

 如月の心配する素振りが、本心からなのか、そうでないのか、考える余裕はなかった。


「顔色良くないよ。こんなに手も冷たい。冬場は特に体を冷やさない方が良い」


 言い切る如月の言葉が、過去の経験を呼び起こす。


『引っ張った時も頼りなかったし、立った時も青い顔してるし、折角の可愛い顔が台無しになるんだから、しっかり食べないと』


 どうして不愉快な如月が、大好きな羽山さんを思い出させる。似ても、似つかない。何も、似ていない。

 手を引っ込めるように振り解くと、その勢いのまま立ち上がった。残った甘ったるいココアを、一気に飲み干した。


「次に、校内で接触することがあれば、契約は白紙にします。それでは、失礼します」


 質問を無視して一礼すると、ゴミ箱に缶を捨て、その場を去った。

 逃げることができた。だが、私は逃げてばかりだ。

 決着をつけよう。契約書で、これからの関係をはっきりさせよう。焦燥感を伴う胸焼けが、倒れたココアのように音もなく広がっていった。




 放課後、部活に顔を出し、課題のテーマを聞いた後、帰ることにした。

 布団を取り込むために、早めに帰らねばならない。あまり放置しておくと湿気る。

 それから参考にするために、作品集持ち出しの許可を部長から得た。作品の傾向が被らないようにするためにも、研究は必要だ。私はどういうジャンルで作れば良いのか。

 よく分からない部の、よく分からないお遊びを、真剣に取り組もうとしていた。だがそんなお遊びを全力でできるのも、健全な青少年たちの輝く青春らしくて良いんじゃないのか、と枯れた感想が浮かんだ。

 靴を履き替え段差を下りると、肩を叩かれた。

 振り返ると、井門さんがいた。なぜここに。


「あれ、どうかなさったんですか?」


 質問をすると、井門さんは歯を見せてニカッと笑った。


「俺も今日は帰ろうと思って。なんかパッとしなくて」

「そうですか」

「七瀬さんはバス?」

「はい」

「じゃ途中まで一緒に帰る?」

「ええ。では折角ですし」


 井門さんは笑顔で頷くと、喋りながら遠ざかっていく。


「自転車取ってくるから歩いといて。追い付くから」


 言うが早いか、井門さんは走ってすぐに見えなくなった。やっぱり陸上とかサッカーとか野球が似合いそうなのだが。なんでこの部なんだろうか。

 校門を出る手前で、自転車を引き連れた井門さんがやってきた。早い。


「早いですね」

「だろ? 中学んときはテニスやってたけど、体育大会で陸上に勝ったからな」


 ぶい、と突き出したピースサインに、光る歯が添えられた。なんというか、眩しい。

 やっていたのはテニスだったのか。

 校門を出ようとすると、突然声を掛けられた。


「あのっ、七瀬先輩ですよね? これ、受け取ってください!」


 ――誰だ? 見れば知らない女生徒がビニール袋を掲げている。意図せず片眉を上げていた。


「ヒュウッ、七瀬君モテるねぇ~!」


 井門さんは茶化したが、この状況、覚えがある。……悪い予感だ。

 その場凌ぎで、謝辞を告げ、受け取るだけは受け取った。

 すると女生徒は急いで校舎の方へと去って行った。やはり……嫌な予感だ。

 歩道を並んで歩きながら中を見ると、ポケット菓子が入っていた。そして紙片も入っていたが、この場で確認するのは危険だ。見なかったことにして、鞄に入れた。

 井門さんが不思議そうに尋ねてきた。


「何だったんだ?」

「お菓子でした」

「もう後輩にファンができたのか? すげえな」


 ファンはファンでも、私ではなく奴のだ。

 私は答えを分かっていながら、杜撰な推理を提示した。


「その考えは無理があるでしょう。たぶん井門さんや部長を落とすために、外堀から埋めようとしているのかもしれませんねぇ。もしくは井門さんに渡そうとして、本人を目の前にしたら、やっぱり無理だった……とかでしょうか」

「わはは! それこそ無理があるだろ!……でも仮にそう考えると、俺か庄司のファンってことか。それはそれで楽しみだな!」


 そりゃ結構。

 井門さんは引き続き、はははと笑っていた。

 期待させて申し訳ない気持ちは、一抹だがあったので、話題を変える。


「ところで井門さんはなぜこの部に? テニスとは掛け離れていますが」

「ああ、中三で足の靭帯切ってさ。手術はしたし、続けようと思えばできたんだけど、なんか……さ。靭帯と一緒に、気持ちも切れたんだよな。『ま、いっか』って。熱烈に好きだったってわけじゃなかったからさ。高校からは何か違うのをしようと思ったんだけど、やりたいことないし、部活は必須だし……で迷ってた。そしたらこんな名前だったから、庄司から誘われたんだ。んで、入った。以上!」


 やはりそういう感じか。スポーツが似合うのにスポーツをしてない人は大体そういう設定だ。例に漏れず、というわけだ。

 本人があっけらかんと話したので、ここは湿っぽくする必要はないだろう。だが、話題は逸らした方が良い。そのぐらいの配慮はあるさ。


「なるほど……。そういえば部長のことは、イチジョウではないのですか?」

「ああ、それ。俺、仕事とプライベートは分けるタイプなんで、みたいな? っていうか、部内だけに限定した方が特別感あって良いだろ?」


 井門さんは冗談と得意気を混ぜて言った。

 特別感か。井門さんは心の少年が大手を振っているのか。


「そういうものですか」

「そーゆうもんです。あ、俺はどっちもカイだからカイで良いぜ」


 キラキラとした笑顔で言われた。いちいち眩しい。


「いえ、結構です。私は七瀬で構いませんが」

「なはは! なんだそれ。七瀬って独特だな」

「私からすれば部の皆さんの方が独特ですよ」

「それは否定できねえ!」


 がははと笑う井門さんと、しばらく適当に会話を続けてバス停に着いたので、そこで別れた。

 自転車に乗って去る背を見送りながら、ふと口角が上がっている自分がいることに気付いた。明るい人間はいい。私ももう少し明るい人間になれれば良いのだが、今すぐにはまだ無理そうだ。

 少し軽くなった心でバスを待った。



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