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10-3


 リビングから出ようとすると、ちょうど如月がやってきた。ふむ、タイミングの良い奴は好きだ。


「如月、おもたせで悪いが出しておいた。それと別で頂いたケーキがあるのでよければ食べてくれ。あ、如月こそ甘いものは大丈夫だったか?」

「ああ、ありがとう。いただくよ」


 如月は柔らかに笑むと、噛み締めるように呟いた。


「梓真さんに初めて普通に名前を呼んで貰った気がする」


 ……そうだったか?


「そうか?」


 しょっちゅう呼んでいる気がするが……口にはしていなかっただろうか。記憶を遡りながら、如月を席に誘導した。私も続いて着席し、合掌ののち紅茶を飲んだ。


「だってほら、君、とか貴様、とかそんなのばっかりだったし、『如月様』はノーカンでしょ」


 相手の立場から聞くと、私はなかなかに酷い奴だな。これからはもう少し意識的に相手を代名詞以外で呼ぶようにした方が良いかもしれんな。知らずの内に中島さんなどにも失礼なことをしていたのかもしれない。反省。


「言われて……みれば? そうだったかもしれんな。気を付けるよ」

「折角だし名字じゃなくて名前で呼んでよ」

「なぜそうなる」

「じゃあ一回で良いから」

「夏樹さん」


 私は投げ槍に言うと、フォークでブルーベリーレアチーズケーキの先端を一口大にカットし、刺したところで相手の反応がないのが気になった。目の前を見ると、如月は笑っていない顔でこちらをじっと見ていた。な、なんだ。不気味じゃないか。「さん」じゃなくて「君」の方が良かったのだろうか?

 それともケーキが不味かったのか? そんなはずはないのだが、いや、彼の皿を見れば、そもそも食べていないじゃないか。

 まさか紅茶か?


「紅茶は苦手だったか? コーヒーを入れようと思っていたのだが、そもそもコーヒーがなかったのを失念していたんだ。すまない。今は水と紅茶しかないので苦手なら水を入れてくるが」

「いや、ごめ、違うんだ。大丈夫。飲むよ。いただきます」


 如月はそう言うと、ケーキを食べ始めた。ただ食べるだけの動作だが、洗練された動きに、お坊ちゃまなのだなあと思わずにはいられなかった。

 無用な感想を湧かせつつ、ようやく私もケーキを口にした。鮮やかなブルーベリーの香りを小さく閉じ込めたレアチーズケーキは、冷たくなめらかな舌触りが心地良い。ほのかに広がる酸味の中で、ブルーベリーの果肉とタルト生地の食感が甘い余韻を運んだ。

 決して華やかとは言いがたいが、素朴な優しさに溢れる味は、マスターの手作りならではだった。反面、奥様が作ると、見た目も味も華やかになる。私は二人の作るデザートがどちらも大変好きだった。本当に素晴らしい所をバイト先にできたものだ。ファインプレーじゃないか。


「このケーキ美味しいね。どこの?」


 心の祝賀会で己の功績(偶然である)とケーキを称賛していれば、如月が問うてきた。

 ……正直に答えるべきだろうか。しらを切ったところで、身元不明のケーキを食べているのか、となるのも厄介だしな。


「ああ、それはロボウというカフェのものだ」


 ロボウはローマ字表記で、意味はそのまま路傍だ。


「へえ。お持ち帰りができるんだ?」

「いや、持ち帰りはできるが、それはマスターが親切でくれたんだ。よく行くのでな」

「へえ、梓真さんには行きつけのカフェがあったんだね。ちょっと意外だな」


 嘘は言ってないぞ、嘘は。

 黙々とケーキを完食すると、如月の手土産に手を出した。マドレーヌやフィナンシェなどの焼き菓子の詰め合わせのようだ。うむ、うまい。さすが高級菓子(多分)だ。

 私は間を置かず感想を伝達した。


「如月、これは美味しい。ありがとう」

「それは良かった」如月は半分食したケーキを指して言った。「そういえば梓真さんはこういうお菓子は作ったりしないの?」

「菓子か? 菓子は……作れはするが……年に数回するかしないか、だな」

「ふうん、なるほどね」


 ここは会話のキャッチボールとして「貴様は作るのか」とでも聞くのが無難かとも思ったが、如月が菓子を作るかどうかなど微塵も興味が湧かないし、どうせ如月のことだから作れるのだろうとしか思わないので、やはり聞く必要はないだろう。

 すると如月はケーキを完食し、紅茶を飲んで改まった。


「ところで梓真さん」


 ……なぜだろう。その声を聞いた途端、こんなにも雰囲気は落ち着いていて、私はどこまでも安心して座っているのに、背後から音もなく死神が、大鎌を私の喉元に当てているような気分になった。

 返事をすれば、後戻りはできない気がしたが、私には聞き返すほか術はなかった。


「何か?」


 如月は大鎌に手を掛ける。



「僕と付き合わない?」



 大鎌の刃はぱっきり二つに折れた。落ちた刃がガランガランと音を立てた。

 ――何を言っとるんだコイツは。脳がやられたのか。あまりに脈絡がない。

 顔が良ければ何を言っても許されるとでも思ってるんじゃなかろうな、このお坊ちゃんは。

 私は菓子を呑み込むと言った。


「それはどういう意図だ? 交際として? それとも貴様の行動に付き添うという意味としてか?」

「もちろん交際として。恋愛としてね」

「何が目的だ」


 如月は半ば呆れた顔をした。


「なにそれ? 梓真さん。僕が梓真さんのことが好きとは考えられないわけ?」


 気持ち悪いな。あり得ないだろうそれは。理解できない。

 三石先輩といい、相手の好みそのものを否定するわけではないが、理解はできない。どこに好きだと勘違いできる要素があるのか。

 三石先輩は出会った翌日だし、コイツは出会って数日だ。そんな短い期間で何をどう好きになれるのか。わけがわからん。

 如月との付き合いは無論御免蒙るが、何が目的かは知る必要がある。


「……好きと言われた記憶はないが。で、仮に好意を持っていたとして、貴様にとっての利益はなんだ。付き合ったとして私が得られる利益は」

「そう来るか……。じゃ、それに納得できたら付き合ってくれるの?」


 フン、やはりあくまで口説こうとするのではなく、付き合うか否かを確認してくるあたり、「好きだから」という理由での提案ではないことは確かだ。興味のない他人にどう思われていようがどうでも良いが、好かれているのかどうかぐらいは分かる。

 ――ならば目的は何だ? 話を寄せつつ、真意を測るしかないか。

 私は紅茶を飲み干した。


「納得できたら検討はしよう。その後、互いに条件が呑めれば可能性はあるだろう」

「断定はしてくれないんだね。ずるいなぁ」

「貴様に言われたくはない。それで利点は」


 私は机を指でトントンと叩いた。


「僕は単純に梓真さんと付き合いたいと思ったからだし付き合えたら僕は嬉しいね。なにその顔。梓真さんにとっての利点は……そうだなあ……他の人にこうやって告白されることはなくなるんじゃない? 今の反応を見る限り、梓真さんは告白されるの嫌そうだし」


 確かに告白されるのは嫌いだ。気分が悪くなる。だが如月の話は、如月と私が交際関係であると周囲の人間に主張した場合にのみ通る話である。

 そんなことをしてみろ、私がどんな目に合うか。平穏は死に、地獄生活待ったなしだ。


「私の利点が薄い。第一貴様と付き合うことになったとして、それを周りに吹聴することはしないしさせない。その条件が呑めない場合は付き合わない」


 如月は少し考えているようだった。私はもう一つフィナンシェに手を伸ばしたが、紅茶を飲み終えたことを思い出し、食べるのはやめた。

 すると如月が、笑顔で言った。


「じゃあ梓真さんの望みを一つ叶えてあげよう」


 如月の提案に呆れた。相手の望みを叶えるまでして、手に入れる価値のある関係性とは何だ。私は水を汲みにシンクへ向かい、席に戻ると要求を述べた。


「私の望みは、貴様と今後一切関わり合いを持たないことだ」

「それはダメだよ。他には?」


 間を置かずに却下された。それはそうだ。矛盾した関係になってしまう。しかし切実かつ正真正銘、心からの願いであるのだが。

 如月を見た。普段と変わらず微笑を浮かべていた。

 望み。望み? 私に望みはあったか?

 平穏な日々を過ごすこと以外にはないし、平穏な日々は、如月と対極に位置する。あらゆる不穏の元凶が如月だ。

 私は素直に答えるしかなかった。


「……ないな」


 すると如月は笑った。これは何かを確信した不遜の笑みだ。


「梓真さんはさ、実際に料理はしていないけど、しようとは思ってるんだよね?」

「どうしてそう思う」


 今度の企みは何だ。


「料理をしようと思ってなかったら、レシピ本なんてわざわざ買わないよね。読書のためだけにレシピ本買う人はいないでしょ。ゼロとは言わないけど」

「では私がゼロでない内の一人だとしたら?」

「その可能性も捨て切れないけど、でも梓真さんはさっき『菓子は作れる』と言った。『菓子は作る』じゃなくて」如月も紅茶を飲み干した。「可能の言葉を使ったのには『料理はできない』という引け目があるんじゃないのかな? そして引け目を感じるのは、『できるようになりたい』という気持ちが少しでもあるからだと思うんだけど」


 ……非常に残念だが、如月の言うとおりだった。私は料理ができないことに経済的かつ精神的ストレスを抱えている。

 経済的には言うまでもなく、精神的には不健康に陥ること、店の惣菜や弁当、その他簡易食品に頼れば濃い味付けのものが多いこと、しかし自分で用意すると茶漬けや茶漬け、茶漬けに茶漬けなどの粗末なものしか用意できないことがストレスなのだ。うまい、美味いメシが食べたい。

 かれこれそんな生活を続けて一年半以上、料理技術が向上する兆しはない。なぜなら、怠惰に押し潰された向上心が日の目をみることはないからだ。


 なんの努力もせずにうまいメシが食べたい!


 そんな気持ちが九割、残り一割に真っ当な人間を装った名残りがある。たった一割の優等生ぶった向上心が、九割の怠惰に勝てるわけがないのだ。

 言い訳をするのなら、今までは日々が忙しく、料理技術向上に充てられそうな時間が、最近になってようやく確保できるようになったところだから、と言うべきか。

 私は如月に続きを促した。


「……それで?」

「だから僕が料理を教えてあげよう! 良い条件じゃない?」


 教わる……。その発想はなかった。

 しかし如月に?

 目の前で笑う、この如月に……?

 私の眉間には、渓谷ができていた。



 気持ちを切り替えるために水を飲み、フィナンシェを食べた。

 如月の提案や、口調、状況など、どこか、何か似た経験をした記憶が蘇った。


『梓真ちゃんにとっても、悪い話ではないと思うんだけど』


 そうだ、それは、羽山さんとの会話だ。突拍子もない提案を私が受けるか受けないかと、うだうだ悩むのだ。そして私から出た答えは、「分からない」だった。だが、右も左も分からないのであれば、前へ進むしかないと決めて、今私はここにいる。

 羽山さんとの違いは、まず如月の方が不審感が強いということ。そして私は如月には何の恩もないこと。

 しかしきっと如月は自分の進めたいように事を進めていく奴だ。真意を知るためにも、観察は必要だ。

 同じ巻き添えをくらうのならば、流されるのではなく、自分で歩いていきたい。


「私は、恩だとか、好きだからとか、嬉しいからとか、そういう明確に判断できない理由で、何かを受け取るのは得意ではないんだ。そういった心情に重きのあるものを、主要条件には入れたくない。第一、多分破綻するだろう。これだけ聞いてあげたのに、これだけやってあげたのにって。最初は好意で接していても、次第に見返りのないことに苛立ちを持つ。私はそういった考え方をする人間が、心情として理解はできても、人としては信用できない」


 感情は変わって当然だ。したがって軸にはできない。

 私は如月を真っ直ぐ見て言った。


「だから君も何か一つ、条件をくれ。できる範囲で私が何か手伝いをしよう」


 私の考えを静かに聞いていた如月は、疑問を呈した。


「え? 恋人になって欲しいっていうのが頼みなのに? それじゃ僕の方が望みが多いけど」


 ――ん? 誰が恋人などと言った! 訂正訂正!


「待て待て。恋人は状態だ。誰も恋人になるとは言ってない。付き合うと言ったんだ。恋人とは恋愛関係にある者を指し、恋愛とは相手に対し愛情を感じていなければならない。つまり付き合うという段階で必ずしも恋人と呼べるわけではないだろう。それからもちろん、提案したのは君だから最終的な条件を決めるのは私だ。それが呑めないのならこの話はなかったことになる。そして私が言っているのは、私の付ける条件とは別に、基本となる利害関係が必要だと言っている」


 如月は愉快そうに、口元を小さく歪めながら考えているようだった。



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