10-2
二人でキッチンへと移動した。
如月は一通り周囲を眺めながら「良い冷蔵庫だね」などと設備の素晴らしさをぼやいては、シンクを見て、次にコンロをじっくり見た。その観察の仕方はやはり、重箱の隅ツツキ魔のようだった。私の偏見は当たっていたと言えよう。
「へえ、綺麗だね。新品同様だ。使われた形跡が一切見えない。どうやって掃除してるの?」
――嫌味か? 皮肉か? 当て擦りか?
分かって言っているのか、それとも本気で言っているのか?
両眼に力を込めて相手を見る。如月は私を振り返ると少し後退った。
「……そんなに睨まないでくれるかな」
「ご慧眼のとおり一切使用しておりませんので。汚れていなくて当然でございますとも」
苦みを含めて言った私に、目を瞬いた如月はやがて笑った。
「ああ、はは。そういうことか。ごめんごめん、皮肉のつもりはなかったんだけど。てっきり梓真さんは普段から料理してるのかと思ってたから」
「どこからそんな飛躍した思い込みが」
「だっていつも料理の本を読んでるし、そこにも料理の漫画があるし。料理好きなのかなって」
「ゲッ」
しまった、如月が指し示した、あれに見えるは読み終えたまま仕舞い忘れた『戦国・NABE☆殿』! 表紙にでかでかと描かれた具材溢れる鍋と殿、料理漫画と判断せざるを得ない……! 七瀬、本日最大の不覚!
「ゲッって」
斯くなる上は、論点を殴り飛ばすほかあるまい。
「な、何で私が読んでる本を知ってるんだ、大体なんだ貴様、ことあるごとに料理料理と、料理に一体何の因縁がある」
「貴様……」
アッ、しまった、うっかり「貴様」が……。普段心の内で言い慣れた呼び名が、いざという時に飛び出すのだな……。七瀬、本日最大(記録更新)の不覚……。
「――失敬。悪意はない」
「日常で貴様って言う人初めて聞いたよ」
出たな妖怪如月節。いや今回は妖怪揚げ足取りの方が良いかもしれん。
「……すまん。私が悪かった。だが、あれだ、貴様はほら、昔は尊敬の意があったと言うじゃないか?」
私の見苦しい言い訳に、如月はクククッと小さく笑った後、回答を述べた。
「その場合のアクセントは『き』に付けた方が良いんじゃないかな? それに言葉の意味そのものより、本人がどういう意思で使ってるかの方が大事だと思うけど。それと、本に関しては梓真さんが読んでるときに中が見えたから。不快にしたなら、それはごめん。料理のことを聞くのは、共通の趣味があるのかと思って」
「共通の趣味?」
「料理が好きなんだ」
「エ゛ッ」
料理ができると言うのか? お坊ちゃんが? 学園のアイドル(笑)が? ただでさえ設定がインフレを起こしているのに更に盛るというのか? あんまりだ。情報過多だ。スキルの累進課税を要求する。
「どこから出たのその声」
「なんだそれ。腹立つなあ……腹立つ」
「え、なんで」
「貴様に賎民の気持ちが分かるまい。……失礼、うっかり本心が。次は和室を紹介しよう」
すぐさま私は歩き出した。後ろから如月の声が後を付いて来る。
「はいはい。僕としては少し心を開いてくれたみたいで嬉しいけど」
「はあ。恥ずかし気もなくよくそんな台詞が出てくるものだ。鳥肌が出そうだ」
「貴様もなかなか出てこないよね」
ケッ! 妖怪揚げ足取りめ。覚えておれ、今日の不愉快は今日中に清算してやる。何か良い報復の術はなかったか。
和室に来ると如月は深呼吸をした。
足裏の感触が畳を認めた。思い返せば、清掃以外ではあまり訪れていないことに気付いた。折角ある掘り炬燵を放置するのは勿体ないだろう。今後はもう少し和室も活用しようか。
しかし炬燵は、うっかり入るとなかなか抜け出せない、魔窟なのだよな。魔王ジダラクを切り裂く勇者の剣があればな……。
如月はもう一度長く息を吸うと、満足そうに呟いた。
「うん、木と畳の香りだ。日本人を堪能できるね」
ぐるりと一周しながら観察している如月の姿は、楽しそうだった。
「ははっ、なんだそれ」
私の声に、如月がこちらを見た。
「あ、笑った」
その言葉で、私は瞬間的に自らの表情筋が、定位置に戻るのを実感した。
「生きていれば笑うことぐらいある」
「なんですぐに真顔に戻したのかな」
「生きていれば笑いたくなくなることぐらいある」
「ふうん。人間笑ってる方が何かと便利だよ」
そう言って、如月は笑った。
それは経験談か?
つまり「何かと便利」だから今も笑っているのか? 便利だから常にその、爽やかさを貼り付けたような顔を振り撒いているのだな?……ふむ、私のような平民には分からん苦労があるのだろう。
もしかすると、奴と私は同属なのかもしれない。付けている面が違うだけで、外面の変化が乏しいのは同じなのではないか。
「……そうか。次に行こう」
私は笑うことなく客室へ案内した。
如月が会議室のようだという同じ感想を述べたことに、一瞬疎ましくもあったが、大抵の人は同じ感想かもしれないと思うと、なんということはなかった。
客室と名付けるより、会議室と名付けていた方が良いのではないのか、とも思うほどだが、逆に会議室と名付けるとなぜ別荘に会議室があるのか、という新たな疑問が生まれるところだ。だがそれも、多目的室があることに比べれば、些細な疑問になるのかもしれない。
多目的室を訪れた如月は、やはり私と似たような反応だった。一見変わりないが、よく見れば困惑している。この部屋の存在意義を検討しているところではなかろうか。
「ここは一体……?」
「体育館と似たようなものだな。あの壁は特殊フィルムを貼っているので、映写機を使えばスクリーンとして使用できる。奥の扉は倉庫なのでボールだとかマットだとか諸々置いてある」
「なるほど。梓真さんは使ってるの、ここ?」
「たまに、かな。唐突に運動したくなったときは便利だ」
「へえ。唐突ってことは、ストレス解消とか?」
「ああ、誰かさんのおかげで最近溜まりやすいのでな」
ジッ、と如月を見た。整った顔が腹立たしい。
「ふうん。梓真さんも大変だね」
如月は胡散臭い笑顔で言った。白々しい。
「ご理解いただけて何より。では次に行こう」
「はいはい」
大風呂の前にある脱衣所に来ると、中程で如月が足を止めた。
きょろきょろと辺りを見回した後、足元を指差した。
「えっと、ここって、このまま入って行って大丈夫? その、靴下とか」
「ああ。しばらく使用していないから湿気や水滴などもないだろう。気になるのであれば脱いでくれても構わないが」
「いや、規則違反に含まれるんじゃないかと思ったから」
「問題ない。ご配慮痛み入るよ。滑り易くはあると思うので、その点は気を付けてくれ」
「了解」
「では、どうぞ」
私がドアを開けると、如月はわあと声を出した。晴れやかな顔で、中へと進んで行った。私も後に続いた。
「すごいなあ、ここは」
彼は感嘆の声で呟いた。私は過去の自分を思い出すようだった。ちょうどあんな風に、なんにも言葉が出てこなかった。私が見た景色は、暗い室内のガラス戸が、真っ赤に色付いた木々を鮮やかに切り取っていた。
しかし今映し出されている風景画は、枯れ木の佇んだ姿だ。侘しくもあるその姿が、凛として映えるのは、羽山さんの望む景色がかくも眩いものであるからだろうか――なんて。
ここからの眺めを見て、ふと、紅葉が枯れ木になるまでの時間が過ぎたのだと気付いた。ここで過ごした日々は、たったの数ヶ月で、それなのにもう随分と長くいるような、不思議な気持ちになった。一人で過ごしてきたはずなのに、ずっとこの家に見守られてきたような、そんな気がした。
もしも、引っ越したのがここでなければ、私は今の自分でいれただろうか。
――梓真ちゃん。
「……さん、梓真さん。どうかした?」
如月が、私に声を掛けていた。心の故郷に帰っていた思考回路を元に戻した。現実を見ましょう。
「――あ、ああ。良い眺めだろう? ここは」
如月は穏やかに口元から笑んだ。そんな笑い方もできるのだな。
「そうだね。ここから見える四季は、俗世から離れて、違う時間が流れているような錯覚をする。……って、ちょっと変なこと言ったかな、忘れて」
「いいや。ものの見方は人によって違う、その人だけの見方があると思う。だから君のその感想も素晴らしいものだと、私は思う」
「……梓真さんこそ、よく恥ずかし気もなく言えるよね、そんな台詞」
「褒めるのと自惚れるのは違うだろう」
「自惚れ屋を褒めるのは恥ずかしくないんだ?」
「お望みなら褒めてやろうか?」
「……遠慮しとくよ」
「そうか。では、次は二階だ」
私は小さく笑った。
階段を上り終えると大まかに説明をした。
「一番の見せ場は終わってしまったのでな。あとは似たような作りの部屋と羽山さんの部屋、それと風呂場とバルコニー、以上だ。とりあえず一室案内しよう」
部屋の一つを紹介すると、これまた過去の自分と似たような感想だった。
「へえ、なんかホテルみたいだね」
「ああ。複数の客人を泊める前提で作ったらしい」
「なるほどね」
「ほとんど同じだが他の部屋も見たければ見てくれ」
「分かった」
今度は私が如月の後に付いて行く形になった。
如月はそれぞれの窓からの眺めや、違う点などを隈無く見ていた。そんなに面白いのだろうか。
如月の手は、入ろうとした部屋のドアノブを握り、止まった。
「あれ、鍵が」
「そこは私の部屋なので施錠した。確認は諦めてくれ」
「……そう。それは残念だな」
振り返った如月に説明を続けた。
「それから羽山さんの部屋も入れない。案内はするが」
「分かった」
私は残った羽山さんの部屋と風呂場の位置を案内した後、バルコニーに続く扉の前まで移動した。
「ここがバルコニーだ。出るか?」
「うん。ここも専用スリッパが……あるね」
「話が早くて助かるよ」
我々はバルコニー専用スリッパで外へと出た。風が先刻よりも少し強い。
「ははは、良い風だ」
風に吹かれた如月が快活に笑った。そんな笑い方もあるのか。
欄干まで寄ると、真下には庭と、遠くに海が見える。肌寒さと庭の香り、時折辿り着いた海の臭いが心地良かった。私は如月が居るのを忘れて、ただ庭と海、自然の流れていく様を見ていた。
ふと我に返ると隣に如月がいた。そうだ、案内途中だった。己の職務を放棄していた。失態だ。
「――すまない、冷えただろう。中に戻ろう」
私は踵を返したが、如月は動く気配がない。まさか、凍ったか?
どうした、と声を掛けようとしたところで、如月が穏やかな顔で言った。
「もう少しだけ、見ていてもいいかな」
予想外の返事だった。感傷に浸るような、人間らしい機構が如月に備わっているとは。
「ああ、私はリビングで待っているよ」
如月がセンチメンタルボーイになっている間に、私はお茶と飲み物を用意することにした。
以前、奴が飲んでいたのは確かコーヒーだったか? 真っ黒だったのでブラックか、砂糖だけ出せば良いか。待てよ、ここで敢えてミルクを入れてやるという報復をしてやろうか。
しかしキッチンの戸棚を探してみたが、コーヒーがなかった。それもそのはず、私が飲まないのだから仕方ない。しかし羽山さんが買ったものが、もしかするとあったりするのではと思ったのだが……。
置いてあるものは基本的に勝手に使っても良いとのことだったが、コーヒーは長期的であるとはいえ、使用期限が定められているので、置いていないのかもしれない。思い返せば調味料の類いもなかった。
これは「報復はやめなさい」という神の思し召しか。いや、ここは羽山さんが建てた別荘であるからして、「対人関係は建設的にね」との忠告か。クク……ビルディングジョーク……ククク……。
いや、しょうもないギャグを考えている場合じゃない。つまり出せる飲み物が紅茶しかないということだ。如月め、紅茶が嫌いじゃなければ良いのだが。ええいヤムナシ。入れてしまえ。
あとはブルーベリーレアチーズケーキと洋菓子アソートをそれぞれ皿に盛ればいい。
ケーキの方は問題ない。さて、手土産を出してみる。
――こ、これは!……えーと、何だ? 箱にはアルファベットが並んでいるが英語でないように思う。よくわからんが、いかにも高級そうだ。とりあえず皿に移して運んでしまう。
と、なんだかんだで準備が終わってしまった。まだ来ないのか。いつまでセンチメンタルボーイをやっとるんだあの坊ちゃんは。凍っているわけではあるまいな。仕方ない、様子を見に行くか。




