10-1
土曜のバイトを終えると、残ったケーキを頂いた。正しくはブルーベリーレアチーズケーキだ。できれば冷蔵庫よりも、今日中に胃の中へ入れた方が良いのだが、丁度二つあるので明日のお茶請けに回そう。どのタイミングで出すべきだろうか。案内を終えた後で良いか。そして食べ終えたらさっさとご帰還を願うという形にすれば完璧ではないか。
と、明日の算段をしていると、なんとも憂鬱な気分になってきた。
如月を招かねばならない。神聖なるこの羽山邸に、あの邪の化身、陰険の祖とでもいうべき如月の立ち入りを認めなければならないのだ。……というのはさすがに言い過ぎか。
私の偏見によれば奴は、重箱の隅をつつくタイプだ。なんなら無い埃をねつ造しては「おや梓真さん。こんな所に埃が」なんて言いかねない。……これも言い過ぎか。
ああ、一度紹介すると決めた以上は、うだうだと悩んでも仕方ないことなのだが、分かっていても憂鬱に浸りたいときがあるのだ。
――駄目だダメだ。掃除、掃除をしなければ。
万全の状態で、一片の塵も残さず、奴を招き入れてみせようぞ。構えよ! これより迎撃体制をとる! 援軍は尽きた! 我らが最後の砦、全身全霊をもって敵を迎え撃つのだ!
さて。まずは玄関からか。掃除をして、心を落ち着け、無の境地へと到るのだ。はたいて、掃いて、拭いて。はたく、はく、ふく。は、は、ふ。ハッ、ハッ、フッ!
いかん、また脱線した。羽山邸は広いのでついうっかり箒を剣にしたくなる。心の中にいる小学二年生男児よ、出てきてはならん。こんなことでは如月を迎撃するどころか叩きのめされてしまう。
集中力がないのは……そうか、晩ご飯がまだだった。一息付いて再開としよう。
お客さんが少ない方だったとはいえ、バイトで働いた後だったのだ。集中力も切れよう。食事と休憩を取ると、羽山邸を一気に磨きあげた。元々美しい羽山邸だ、その美に僅かばかり貢献できたと思えば素晴らしいことだ。ハハハ。よーし風呂に入って早めに寝て英気を養うのだ。ウハハ、如月覚悟! ハーッハッハッ……
目覚めると、窓を開けた。太陽光を浴びながら空を見上げた。澄み渡った綺麗な空だ。冷たい空気が鼻筋を通り抜け、肺を冷やした。新鮮な酸素を満喫すると、準備に取り掛かることにした。
掃除は一通りしたが、まだ残った汚れはないか確認する。案内経路と避難経路の確保、私物の整理、これでよし。避難経路はもちろん、私が如月から逃げる場合のものだ。
早めの昼食をとり指定時間までは読書をした。といっても漫画である。タイトルは『戦国・NABE☆殿』だ。城で出される鍋料理の不味さに嫌気が差した殿は、城下町へ忍び込み自ら鍋料理を研究する。鍋料理を通して出会う城下町の人々との交流や、人として、また殿としての成長が描かれていく。
全三巻のコミカルテイストで気軽に読めるので、昔からこういったどうしようもない隙間時間に何度も読んでいた。そうだ、今日はこの雑炊にしよう。漫画の中ではしっかりとダシをとったりしているのだが、そこは文明の力に任せてしまえば簡単にできるのではないのだろうか?
そうして全巻読み直したところで丁度良い時間となった。
――腹は括った。いざ、出陣じゃ!
バス停で待っていると、ほぼ時間通りにバスが到着した。降車する人間は一人しかいなかった。如月だ。
休日なのに無駄に爽やかな顔が鬱陶しい。
如月は白いタートルネックに、暖かみのある茶色いコート、黒いズボンという格好だった。なんだ、私服がとんでもなくダサい線はなしか。つまらん。ああ、何の生き物かわからないキャラクターが描かれた、奇妙な色合いのセーターを着て来てくれれば、大手を広げて盛大な笑顔で迎えられたものを。
ちなみにそんなセーターは、りっちゃんの家に遊びに行った際に、彼女が嬉々として見せてきたのを覚えている。
あとは絵心とか歌唱力だな。とりあえず挨拶はするか。
「こんにちは」
「はは、こんにちは。梓真さん、ごめんね待たせて」
……笑う要素はあったか?
「いえ。では付いて来てください」
「あれ、なんか怒ってる?」
休日に貴様の顔を見なければならないという点では腹立たしいものはあるが、それはとうに折を付けている。だが貴様と違って、他人に振り撒く爽やかさがないだけだ――と正直に話すのはさすがに性格が悪いので、珍しく空気を読んでその点は黙っておこう。休日にわざわざ相手を不快にさせるものでもないだろう。
「いいえ。平常どおりです」
「そっか、なら良かった」
私が歩き出すと如月が後に続いた。なんとなく、如月の後ろ姿というものをあまり見たことがない気がした。現れるときは大抵、私の背後か横からやってくるし、解散するときは私が先に逃げ帰ってしまう。
かといって奴の背を見たところで仕留められる気もしない。なんとなく隙はない。もし背後を取れたとして、頸椎へ手刀を一閃しても、躱されるイメージしか湧かない。なぜだろう。一度本当に背後から殴ってみても良いかもし……いやいや、いかんいかん。危険思想だ。
「……梓真さん? 何か変なこと考えてない?」
フ、私もまだまだだな。こんな仕様もない殺気を悟られるようでは。――いやいや、どこを目指している。いかんいかん。戦国気分が抜けていないのかもしれない。気を引き締めよう。歩きながら振り返ると、軽く笑顔を作って否定した。
「いいえ」
「やっぱり何か怒ってるとかではないんだよね?」
「はい、勿論。如月様は本日お客様ですから」
如月は少し解せないような顔をしたが、不平は言わなかった。
私は会話が終了したものと思い、顔を正面に戻したが、如月の声は続いた。
「……それはどうも。それより梓真さん。この前梓真さんが言ったこと、覚えてる?」
「どの時点の話ですか」
「ん~ファミレスと、廊下かな」
嫌な予感がする。なんとなく察しはつくが、答えたくない。過去の自分を殴りたい。
坂道の中程に差し掛かった。私は黙ったままだった。やがて如月が答えた。
「梓真さんが言ったんだよね。学校以外なら僕と友達だって」
「……」
「今日は友達として接してくれるって。敬語はなしっていう僕の提案に納得したのも梓真さんだ。違う?」
この畳み掛けは如月節と名付けることにしよう。そのままだ。何の捻りもない。
如月節は休日でも絶好調だった。なぜ此奴はこうも人を圧迫するのが好きなのだ。
「――わかった。わかったから。休日までその無駄な圧力をかけてくるのはやめてくれ。それで、何が望みなんだ」
「だから普通に会話をしてくれること」
「きさ……君の話を聞いてやることはできるが、私から話せることは何もない。案内は別として」
「内容なんてなくても良いんだよ。ただの会話のキャッチボールさ。まずは世間話とか雑談とか。友達ってそういうのじゃないの?」
そのとおりだ。君が本当に友達ならば、な。昨日のバイトで「タマゴトースト」を言い損ねて「トマゴタースト」と言ってしまったなどという、下らない話を披露したとも。
しかしこんなことが笑いのタネになるのは、りっちゃんだけだと分かっているので雑談にはできない。
君に見せられる雑談はないのだ。
「……はあ。君の言い分は分かる。だが実行できるかは別だ。私は世間話というのはあまり得意ではないし、本当に君に話せることなど何もない」
「じゃあほら、自己紹介。好きなこと、嫌いなこととか――あ、ここがそう?」
如月と会話のキャッチボールもどき――たぶんデッドボールになる――が開幕しそうになったところで、ようやく門の前へ到着した。門扉を開け、中へ入るように如月を促した。
「そうだ。では、ようこそ。羽山さんの別荘へ」
「お邪魔します。なるほど……」
如月は羽山邸を見上げて溜め息を漏らした。
私は門扉を閉めると、如月の背を見た。そこに隙はあった。今なら一閃、当たる気がするが、実行する気はなかった。今は客人だ。
外観を眺める如月に声を掛ける。
「先に外から見るか? 庭もあるんだが」
「梓真さんに付いていくよ」
「そうか。では一先ずその荷物を置いた方が良いだろう。中に入ろう」
如月は鞄と小さめの紙袋を持っていた。置く場所があるのに荷物を持って歩き回るのも変な話だ。私は玄関へ向かった。
すると如月はようやく、自分の手に持っていた物の存在を思い出したようだった。
「ああ、これ。手土産です。どうぞ」
玄関のドアノブに手を掛けたところで、後ろから紙袋が出現した。振り返れば如月が紙袋を胸まで持ち上げていた。
「え?……あ、ああ。わざわざ、悪いな。ありがとう」
土産などというものがあるとは思わず、多少面食らった。それこそ「友達」として遊びに来たのなら、土産なんて大層なものはいらないのに。それとも私のような前時代な貧乏性だけがそうで、今の時代やお坊ちゃん界では大層なものでもなんでもないのか。
――ちょっと待て、遊びに来た? 違う違う! 羽山邸ツアーだ。これはツアーガイドとしての正当な報酬だ。そうだ、受け取ることに何ら支障はない。普通に受け取れば良いだけの話だ。
もしくは羽山さんに献上した方が良いのか? だが会える機会は当分ないだろうしな……。
何にせよとりあえず受け取るべきだ。私が紐を持てば、如月が手を離した。紙袋の重みが手に移る。想像通りの重さだ。これで報酬の前払いが完了した。
「梓真さんの好みが分からなかったから、洋菓子のアソート。あと梓真さんだけって聞いたから一番小さいタイプのにした」
ということは羽山さんにではなく、私にということか。
……しかしなんだ、それは気が利きますアピールか? だが、私は羽山さんに君の優位性を報告したりなどしないぞ。君と羽山さんの仲を取り持ったりはしないのだからな! 仲介禁止!
だが、お菓子に罪はない。
「お菓子……」
「あ、洋菓子苦手だった?」
「いいや、大好きだ。ありがとう」
一瞬静寂が訪れた。反応がないので、見上げれば、如月は目を見開いていた。私は驚かれるようなことを言ったつもりはないのだが。
「……なんだその顔は」
「い、いや。険しい顔してたし、ダメだったのかな、と思ってたら、その、予想外の言葉だったから」
「私だって謝礼ぐらい言うさ」
「いや……うん。そうか。うん」
もごもごと口籠る如月はさておき、私は玄関のドアを開けた。
「とりあえず、中へ。どうぞ」
「ああ、うん。お邪魔します」
如月が玄関へと足を踏み入れた。では尋常に勝負……! ではなく、見学会の始まりだ。ウハハ、羽山さんの傑作をとくと見よ! ヌハハハハ……!
「まずはリビングを紹介しよう。こちらだ」
リビングに入ると、如月は歩きながら周囲を見渡した。
「へえ、広いなぁ」
如月は色々な場所に立って、様々な角度から部屋を見ていた。一見すると不審者だ。貴様もどうせ広い家に住んでいるだろうに、なんだその感想は。
「そこにコートハンガーがあるので使ってくれ」
「了解」
如月が荷物を掛ける間、私は貰った土産を収納した。小さいものだと言っていたが、一人で食べ切れるかどうか分からないのでケーキと一緒に出してしまおう。
リビングに戻ると如月がガラス戸の外を見ていた。
「向こうが庭なんだね?」
「そうだ」
「この庭の手入れも梓真さんが?」
「いやいや、さすがにそれは。雑草を抜いたりはするが、芸術に素人が手を出してはいかんだろう」
「ふうん、なるほど」
私は如月の足より更に奥、ガラス戸の外に置いたスリッパを指差した。
「デッキに出るならそこの外履きを利用してくれ。なお、その外履きはデッキ限定だ。厳守してくれ」
すると如月は私が指し示す先を確認したのち、こちらに顔を向けて尋ねてきた。
「破ったらどうなるの?」
「私がこの家を追い出される」
「えっ」
「――というのは言い過ぎかもしれんが、似たようなものだ。羽山さんの指示は絶対だ。管理人として規則違反は見過ごせない」
「厳格だね」
私は首を振った。
「遵守しているだけだ。理不尽な条文があるわけでもなし、気を付けるべきところだけ気を付ければ良いだけのこと」
「はは、なるほどね。梓真さんの考え方がよく分かったよ」
如月は笑うとガラス戸に背を向けた。
「外は後で見させてもらっても良いかな?」
「分かった。では次はキッチンだ。この奥にある」




