9-1
入部届けを出した翌朝、担任に呼び付けられ、何事かと向かえば、改めて謝礼を言われただけだった。職権濫用だ。担任を心のマリアナ海溝に沈めた。
そして教室に戻れば、連日如月から接触があったこと、更にわざわざ放課後に呼び出されてまで何を聞かれたのかなど、如月センサーズによる事情聴取が行われた。私は家庭事情と事務連絡という単語を拡大活用し、なんとか乗り切ったと思っている。……たぶん。
しかしこれでセンサーの異常感知が、私に対し二度発生してしまった。由々しき事態だ。私は本能で三度目はない、と察した。探知される可能性が、ではない。私の平穏が、である。
きっと彼女らは三度目からは徹底的警備体制に入るだろう。そうなれば目の敵にされるのは想像に難くない。如月とは羽山邸の紹介さえ済めば、接触理由はなくなるのだ。つまりは今日さえ乗り切ればいい。そして万一に備え今後は、センサーが反応する度に教室から出て行くことにしよう。
決意新たに無事放課後を迎えると、そんな朝の出来事も忘れ、表情には出さぬまま、心の内は意気揚々と部室へ向かった。
部室のドアを叩けば、間延びした返事が届いたので、中へ入った。
「お、七瀬さんじゃん。早いね~。あ、別に部員はノックとかいらないからね。てか逆にノックされると先生か⁉︎ とか構えちゃうからやめて」
部室には井門さんだけがいた。昨日は事務机の上に散らばっていた菓子類も、今は一切見当たらず、代わりに何冊かの本が置かれていた。よく見ればどれも図鑑のようで、その内の一つを彼が眺めていたところだったようだ。
彼はいかにも活発そうで、当然走っている姿が似合うのだろうが、静かに本を見ている姿も案外、様になっていた。
「おはようございます。以後気をつけます」
「だから固いって」
「すみま……頑張るぴょん」
「お、おう、振り幅が大きいな」
井門さんは戸惑う様子を見せながらも、テキパキと指示をくれた。席は固定で他人の席に座るとケンカの種になるらしい。特に佐倉さんの席に座ると死人が出るかもしれないとのこと。おそろしい。
したがって新たにパイプ椅子を設置し、そこに座ることになった。
席が決まった後は、特にやることもないので、椅子に鞄を置いて部室の中を見回ることにした。
部室は教室から比べれば三分の一程度の広さだが、十分に広かった。ドアのある壁から見て真正面に窓、左に棚やロッカーなど、右にホワイトボードがあった。実質帰宅部にこのような部室があるとは、恵まれたものだ。
窓からは四階に相応しい、見晴らしの良い景色が見渡せた。学校の敷地を囲むように木々が並び、その向こう側に住宅街などが広がっていた。さらにその奥で、薄花色の山々が小さく凹凸を描き、曖昧な稜線がやがて水平線となった。遠くに見える海と山、これまたいとあはれなり、なんて。乾いた空に淡く雲が漂っていた。
井門さんとの話によれば、この学校で部室にできる部屋はまだいくつか残っているらしい。昔は今より更に様々な部が乱立していたそうだ。共同で使用していたこともあったとか。人数さえ揃っていれば割と簡単に部ができてしまうため乱立し、そしてまた簡単に廃部になっていくのを繰り返し、生徒数の減少とともに部活も減少していった、という次第のようだ。クラスも今は八組までだが、昔は十一組あったらしい。
話を聞きながら見ていれば、棚には様々な本があった。どうやら写真集や図鑑などの、文字よりも画像の方が多い本が大半だった。それ以外には文法を扱うもの、外国語の辞書などがあった。これらの本は部費で集めたのか、図書室のお下がりなのか、小さな疑問はさておき、棚漁りを続けた。
戸のある棚には、ホッチキスで綴じられた書類がいくつか入っていた。表紙には「作品集」との文字があった。どう見てもこの部で作られた物のように思う。実質帰宅部と聞いていた割に、真面目に取り組んでいるように感じるが、これも体裁なのか。……見ても良いのだろうか。
井門さんに尋ねたところ、予想外の方向から返答がきた。
「それは我々の作品だよ。見てみるか?」
「お。イチジョー、はよー」
イチジョウ? 振り返ると、ドア前に男子生徒が立っていた。井門さんが挨拶した、返答の主は――どう見ても部長だ。名前はショウジだったのでは。混乱の目を隠さず二人を見つめた。
「ああ、カイ、早いな」部長はPコートをパイプ椅子にかけると、座ってこちらを見た。「おはよう、七瀬。それらは毎月の作品を学期ごとに纏めたものだ。丁度君に見せようと思っていたところだった」
「おはようございます」
座るように促されたので、作品集を机の上に置き、新設の席に腰を下ろした。しかし作品集より先に気になることがある。
「すみません『イチジョウ』というのはあだ名ですか?」
二人は何のことか、と互いに顔を見合わせた後、先に合点のいった部長が答えた。
「あ? ああ、似たようなものだな。部内では呼び方を決めているんだ」
遅れて理解した井門さんが口を挟んだ。
「あ、ああ、それね。俺はカイブン、略してカイ。名前もカイ。だからカイ、でよろしく。あ、カインとかでもいいぜ。うんうん、カイン。我ながら良いの思い付いたな。で、コイツは――」
「イチジョウだ。桜がニジョウ。八木がタンゴ。轟がブン太」
井門さんは、部長に続きの台詞を奪われていた。
イチジョウ、ニジョウ、タンゴ、ブン太?
「なんですか、それ」
私は堪らず疑問を口にした。何の意味があって、どういう意図で呼び名を決めているのか。する必要はあるのか……?
井門さんが答えた。
「う~ん。コードネームてきな?」
「コードネーム……」
――コードネーム、か。
カイブンはそのまま回文だろうが、ニジョウは二乗か? ならば部長もニジョウになるはず……だが、被るからイチジョウか。八木さんはメイシとかリョウリとか、轟さんはフクゴウドウシとかではないのか? 単語と文で良いのか?
井門さんの発言に部長が訂正を入れる。
「いや、そんな大したものじゃない。いわば……ノリだな。ノリ。普段と違う呼び名って、楽しくならないか?」
「ノリ……」
好きだよな、そういうの、少年は。や、私も心の片隅に体育座りしている少年が、目を輝かせ始めたが、違う、だめだ、今は君が立ち上がるときではない。これからも立ち上がる機会はおよそない。
だが私は、心の少年を完全に無視することはできなかった。
「では、私の場合は」
「たしか昨日言ってたよな。えーと……なんだっけ?」
疑問には再び井門さんが答えようとしてくれたが、失敗に終わった。部長が答えを出した。
「帰国子女だ」
そういえばそんな単語が聞こえた気はする。その名に相応しくなく、海外など一度も行ったことはないのだが。パスポートすらない。
「あーじゃ、シジョだな。あ、てかイチジョー、ニジョーといるんだからシジョーでよくね? サンジョーいないけど。一体感あるじゃん」
「なるほどな、良いじゃないかシジョウ。七瀬、構わないか?」
井門さんに賛同した部長はこちらを気遣った。
「はい、私は特に。要望もありませんので」
「よし決定だな。皆にそう伝えるよ」
――シジョウか。部内でしか使うことのない、部員同士だけでの名前。
知らずの内に口元が緩み、ちょっとだけワクワクしてしまった自分がいる。子供の頃に作った、友達同士しか知らない秘密基地のような、楽しさで溢れた優越感が胸に灯った。
なんの捻りもないただの部室を、まるで特殊部隊の作戦本部のように見立てた。きっと、部員しか入ってくることはない。誰だって足を踏み入れることはできるが、用もなく入ろうと思う者は、部の関係者以外ではいないだろう。
だからなのだろうか。井門さんは自然と皆集まってしまうと言った。きっとこの別名を受け入れてしまった人には、心の端っこにでも少年がいるのではないのだろうか。
実質帰宅部なので、部に来るのは自由にしていいとの話ではあったが、それでも一応自分の都合は部長に伝えることにした。
「あの、部長。私は火曜と木曜は来られないので、報告しておきます」
「ああ、心得た。気負うことなく自由に来てくれ。もちろん、幽霊部員でも構わない。だが、来てくれれば皆喜ぶ。それに俺も嬉しい」
部長が放った笑顔は、とても爽やかだった。
……あー、これは。私がぴゅあなはーとを持っていれば確実に惚れただろう。
井門さんも爽やかだが、部長も負けず劣らず爽やかだった。ただ、井門さんの持つ爽やかさと、部長の持つ爽やかさは少し種類が違う。井門さんの爽やかさがレモンならば部長の爽やかさはスイカだ。渇いた喉にみずみずしい潤いと、ほのかな甘みが通り抜ける、適材適所の爽やかさだ。
しかしなぜこうも爽やかボーイズが揃うのか。不思議であった。
どうでもいい疑問を捏ねていると、扉が開いた。
スラッとした立ち姿に華のある、流行に聡そうな彼女は、佐倉さんだ。互いにこの部に入らなければ、一切接点がなさそうな人ナンバーワンである。人生の歩み方が、ねじれの位置にありそうな人だった。
「にゃほー」
佐倉さんが気の抜けた挨拶をすると、それぞれ挨拶を返した。
「おはよう」
「やほー」
「おはようございます」
佐倉さんは席に着くと、頬杖をついて私をじっと見つめた。な、何だろうか。まさか歯に青のりでも……いや、今日はパンだ。訂正、今日もパンだ。
「七瀬ちゃんだっけ? 綺麗だね」
「おっと」
……その発言は予想外でした。私が女の子だったらうっかり惚れ――女の子だった。な、なんだこの部の人たちは。怖いぞ。なんでみんなそんなウブピュアキラーなんだ。わたしがウブならイケメンマインド池で溺れて、ぷかりと背中を浮かばせていた。
「……えーと、ありがとうございます」
「彼女はシジョウに決定した」
部長が私の名を紹介した。
「ふーんそうなの。あたしニジョーだから」
こちらを向いて、ちょっと誇らし気に名乗る佐倉さんが微笑ましかった。彼女の中にも少年がいたりするのだろうか。
「はい、よろしくお願いします」
すると佐倉さんは私の方を指差して言った。
「てか何かそこ席バランス悪くない? 机出したら?」
佐倉さんの提案に対し部長が反論する。
「いやこれ以上机はない。学校から借りるには申請しなければならなかったはずだ。もしくはよその部と交渉して拝借するかだな。シジョウ、俺の隣なら空いてるから、こっちに来るか?」
「ダメ!」
間髪入れず否定した佐倉さんに、皆小さく驚きを示した。そういえば、席にこだわりがあるような旨を聞いたような。佐倉さんは、彼女なりの妥協案を強行した。
「じゃ、あたしがイチの隣に変わったげるからカイ、あんたあたしの隣。そこから対角線のとこね」
「え、なんで。俺関係なくない? とばっちり?」
「いーから!」
「シジョはそこ。入り口のとこね」
我々は訳も分からぬまま、彼女の言葉に従った。従わなければ、都市伝説通り死人の出る予感がしたのだ。結果、窓側に部長と佐倉さん、棚側に井門さんと私、といった位置になった。私は井門さんに代わり、この席順の謎を聞かねばならぬ気がした。
「何か決まりごとでもあるのですか?」
「あたしが二番目だからニジョウなの。順番決まってんの。不文律・不可侵・不変の掟なの」
部長と井門さんは「不文律……?」「オキテ……?」と疑問を口にしていた。
順番とは、入部順とかそういうのだろうか。そしてその順番を上座と下座に振り分け直した……とか?
部長と井門さんの反応を見るに、佐倉さん以外は気にしていないようだった。何の意味があるのかはまったくもって分からないが、佐倉さんにとってのこだわりなのだろう。
ところで二番目だからニジョウということは……。
「やはりイチジョウさんとニジョウさんは、同じ別名になるのを防ぐためにイチとニで分けたんですね」
「へーあんたやるじゃん。そうだよ」
佐倉さんは感心した様子だった。
「お褒めにあずかり光栄です」
「アハハどっくとく~!」
けらけらと笑う佐倉さんに、あなたも十分独特ですよ、と口には出さず心でそっと打ち返した。
佐倉さんがケラケラと笑う中に、八木さんと見知らぬ男子生徒が入ってきた。




