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1-2

 カフェまで着く頃には何とか足の力を取り戻し、弱々しくはあるが、一見普通に歩けていたと思っている。コーヒーの香りが充足した店内を横切り、空いた中で一番近い席に座り込むと、どっとした疲れの蓄積を実感した。


 木製品を基調とした内装で、落ち着いた雰囲気の店だった。道路側の面はガラス張りとなっており、薄く反射した顔が、自分の顔だと気付くのに少し時間がかかった。

 命を救って貰ったこと、その後の対応、ここまでの誘導、全てにおいて男性に感謝の意を伝えたが、いいよいいよ、とまるで缶ジュース一つ奢った程度の気楽な返事だった。いつの間に注文を済ませていたのか、気付くとメニューが机の上に出揃っていた。

 一つ頬張り終えたサンドイッチと、少し飲み込んだホットカフェラテが臓腑に染みた。ガラス越しに流れていく人々を、遠く眺めていた。枯れ葉色のチェスターコート、灰色のパーカー、赤いトレンチコート。鮮やかな人、忙しい人、埋もれてゆく人、誰にでもなれる気がした。


「もしかしてあんまり食べてなかったんじゃない?」


 ほんの少し、問い詰めるような雰囲気で、目の前に座る男性が尋ねた。

 その時初めてしっかりと男性の顔を見た。爽やかで端正な顔立ちをしていた。二十代後半から三十代前半ぐらいだろうか。白いシャツに濃紺のカーディガンというシンプルな出で立ちだが、垢抜けた印象だ。じっ、と見据えられていると、どきりとした。

 思い返せば、ここ数日、食べた物に関する記憶は曖昧だった。……食べたような、食べていないような。


「あ……言われてみれば、そう……ですね」

「やっぱり。引っ張った時も頼りなかったし、立った時も青い顔してるし、折角の可愛い顔が台無しになるんだから、しっかり食べないと」


 溜め息混じりに呆れられた男性に、ぐいぐいと残りのサンドイッチも勧められた。

 お世辞とはいえ、真っ向から言われると、慣れない言葉に戸惑いを覚えた。上手く目線を合わせることができず、黙々と差し出されたサンドイッチを食べ続けた。


「あっでもこういうことって、男の私が言えばセクハラになるのか。えっと、そんな気全然無いから、安心して」


 そんな気とは、どんな気だろう。それは時としてかえって失礼に当たるのでは、とも思うが。少し慌てたように訂正する男性に、サンドイッチを置いて返事をする。


「……いえ。それより、良いんですか? わざわざ私に付き合っていただいていたら、お時間が。その……お仕事、とか」

「ああ、良いよ。気にしないで、融通利くから。私より君の体調の方がよっぽど心配だよ」


 なぜ、という疑問が湧いて出る。赤の他人に、ここまで配慮してもらうと逆に不審に思えた。何か算段があるのでは、と。むしろ算段は有って当然と言えるべき環境にあり、未だ感知できぬこの状況は、危惧するべきものであった。

 内心で警戒を飼っていると、男性が尋ねてきた。


「君は、学生?」

「はい」

「大学生?」

「いえ、高校生です」

「へえ、大人びてるんだね。何処の高校?」


 遠回しに言ってはくれたが、要は老けてると言いたいのだろう。分かっているとも。今の、この顔では当然の感想だろう。先程見た、ガラスに映った生気のない顔を思い返せば分かることだ。

 活力があるはずの普段からでも似たような事を言われるので、尚更だ。


「市内の公立です」

「そうなの。上品だからてっきり、私立のお嬢様学校みたいなとこって言うのかと思った。今日って平日、だよね。高校生が私服で、こんな時間にこんなとこに居るってことは、今日は創立記念日? とか?」

「ああ、いえ、そうでもなくて。えっと……」


 そういえば、丁度一時限目が終わる頃だろうか。

 ……しかし、どこまで答えれば良いのだろう。これは何の取り調べなのだろう。普通、赤の他人にはどこまで話をして良いのだろう。では――命の恩人には。

 どこまでが答えるべきで、そうでないのか。今置かれている、自分の現状全てを話し切る勇気も、理由も、義務もない。

 かといって嘘を吐けるほど、世間を上手く渡ってきたわけではなかった。


「私だけ、休んでます」

「それはやっぱり体調が優れなかったから?」

「いえ。体調は、良いとは言えませんけれど……。休んだ理由は、えと……」


 わざと尻すぼみにして、言いにくさを演出した。黙るための理由付けに残りのサンドイッチとカフェラテを流し込んだ。

 この場合、不登校児と推測されるのが妥当だろう。そしてそう思われていた方が楽だった。


「ってことはじゃあ、サボり?」

「他の子からしたら、……そう言われても仕方ないですね」

「そっか。そう言えば名前聞いても良い? 私は羽山秀繕って言うんだけど」


 唐突な話題転換は、気を使ってくれてのことだろう。話したくないという雰囲気を前面に押し出し過ぎたかもしれない。別に「繊細で傷心な少女」というわけではないので、少し申し訳なく思った。


「しゅう……ぜん? さん、ですか。綺麗な響きですね。あ、えっと私は」


 ほんの少しだけ、迷った。この男性に名乗っても良いのだろうかと。

 前を向くと、柔和でありながら、真っ直ぐな眼差しがあった。その視線に当てられた私は、いつの間にか続きを紡いでいた。


「七瀬梓真です」

「へえ、名前があずまちゃんなの? 可愛いね。ひがしであずま?」


 ……可愛い? 今まで私の名を聞いて、そんな反応をする人は居なかった。変わった名前だね、とか、男の子みたいだね、とか、もう一度聞き返してくるだとか、そういう反応だろう、普通は。感想に困って、適当に「可愛い」とでも言っておけば良いだろう、と思っているのではないのか。

 私はガラス窓に書くかのようにして、空中に指で漢字を書きながら答えた。


「いえ、当て字であずさにまことで、ですけど」


 何でもないつもりで答えていたガラスに映る顔は、怪訝な顔付きになっていた。その顔のまま、相手に尋ねた。


「可愛い、ですか……?」

「はは、そんな顔しなくても。そうだなあ、一筋縄ではいかないけれど、そこがより魅力的になるような、強面のテディベアみたいな可愛さ、かな。あ、梓真ちゃんって呼んでも良い?」

「……構いませんけれど」


 それは、褒められているのだろうか。複雑な心境である。

 羽山と名乗った男性は、名刺を差し出してきた。先程はやはり、こちらが答え辛いと察し話題を変えたのではないのか。目端が利くこの男性は、一体何者なのだろうか。興味と懐疑の目で差し出された名刺を覗き込んだ。

 字面だけではヒデヨシと読み違えそうだった。あちらは羽柴であったか。肩書きには建築デザイン会社・代表取締役社長と記されていた。得心が行った。デザイン会社、社長。どおりで小洒落た雰囲気を纏い、融通も利く訳である。


「しゃ、社長……」

「名の知れた会社じゃないけどね」

「あっすみません、つい……。お若いのに凄いんですね」


 彼はよく通る声で笑った。


「ははは! 君に若いって言われても!」

「す! すみません……」


 しまった。諸々口から滑り出てしまった。しかし、肩書きはただの肩書きであって、彼自身が信用できるかどうかは、別の話だ。


「一応、怪しい者ではないつもりなんだけど」


 心情を汲み取ったような言葉に、少しどきりとした。しかし私の内心に気付いた様子はない。


「そう言えば今日、梓真ちゃんは時間大丈夫? 何か用事とかあったんじゃないの? 体まだ調子悪い?」


 切り替えるように尋ねた羽山さんは、やはり本心から心配してくれているようには感じた。 

 私の不審から来る緊張は、始めから伝わっていたのだろう。しかし彼はあえて名乗らず、話題転換のために手段を残しておいた。それは社長という肩書きの、有効的活用だった。

 彼の雰囲気から察して、どうやらようやく、向こうの用件が提示されそうだ。それが私の信用を獲る一番の方法だ。しかし、私の信用を得たところで、相手が得るものは何もない。つまりは、私が差し出せるものなど何もない。故に不安が募る。何を考えているのだろうか。

 残りのサンドイッチも、カフェラテも、全て飲み込み終えて、答えた。


「いえ、私は……時間は、別に。やりたいことがあったんですけれど、今日に限るものではないので。早いに越したことはないですが。体も大丈夫です」


 私は、羽山さんとの会話を続ける方を選んだ。

 選べたのだ、切り上げることも。だが、命の恩人に、懐疑を抱いたまま、何の返済もなくこの場を離れることは出来なかった。私のつまらない、プライドとポリシーだった。

 選べたのは、私だけではなく羽山さんもだ。『もう君は大丈夫そうだし仕事に行くよ』と、一言置いて行けば良いだけだ。だがそんな様子は見せなかった。まだ何かを探っている、気がした。


「それって、何なのか聞いても良いのかな?」


 私は決意した。差し出せる物は何もないが、つまらない自分の話を、この男性に話そうと決めた。


「……はい。家を、探そうと思って」

「えっ……家?」


 羽山さんの目を見て言った。


「はい」




 私は新しくアイスティーを頼んだ。羽山さんは引き続きコーヒーを頼んでいた。

 暫く休憩できたおかげか、随分と体が軽くなった気がした。ほぼ本調子に戻った気分だった。

 一息付いた所で、自分の話を始めることにした。


「一人暮らしをしようと思っていまして」

「え。えっと、高校生だったよね? 今いくつ?」

「十七です」

「そのこと、ご両親は何て?」


 少し逡巡した。私の持ち得る事実は、初対面の人にとって、いや、気心知れた仲であっても、あまり良い話題とは言えない。だが、この人との関係は、マニュアルどおりにはならない気がした。


「両親は、いません」

「海外出張とか?」

「いいえ、死にました」


 きっぱりと、努めて何でもないことのように言った。


「それは……申し訳ないことを聞いたね。ごめん」


 羽山さんはやはり、何となく分かっていて、それでもこの結果を避けていた、という印象だった。


「いえ、気になさらないで下さい」


 何度か羽山さんの対応を見ていて思ったが、この人はもしや、ただ飛び抜けて優しいだけなのかもしれない。しかしそれと同時に、何か隠している節があると、妙な確信はあった。

 人は自分の百パーセント、持ち得るもの全てを誰かに話せる訳ではない。無論私も、そして羽山さんも例外でないのは前提である。初対面であるなら、尚更だ。だがそれとは別に、あえて伏せている何かがあるように思えたのだ。

 しかしそれでも、人は相手の百パーセントに近付けることを望む。そうして知りたいと思う。つまりは興味だ。

 現段階で私が羽山さんに対して抱く心情は、好奇心に似たものであった。

 相手の情報を得る為に、押し付けがましくこちらの情報を渡した。


「母は数年前に、父はついこの間、死にました。だから、一人で暮らせる家を探しているんです」


 羽山さんは僅かに困惑の色を示した。


「親戚の人は? 言い方は悪いかもだけど、その、引き取ってくれるとかは言われなかったの?」

「母方の叔父は、形式的に申し出てくれました。しかしそれは、彼らにとって本意ではないと分かっていますし、私も望んでいません。一人で生きていけない年齢ではありませんし、今更、荷物になってまでわざわざ誰かと一緒に暮らす必要はありませんから」私は一度深呼吸をすると、続けて言った。「一人でいたいと、思ったんです」


 自分の中腹にある本心を誰かに話したのはいつぶりだろう。母は死んで久しいし、父とはろくに口を聞かなかった。教師に心を開くことはないし、友人達には見せられる本心だけを出していた。私はもう誰とも深い関係を結ぶことはなかった。


 ――いずれ消えて無くなるものを、本気で掴む気にはなれなかった。


 羽山さんには、きっと赤の他人だからこそ話すことが出来たのだ。何も知らない、赤の他人だからこそ、都合のいいように自分を脚色できる。一度切りの出会いならば、後の人生に埋もれて忘れて行ってくれるだろうと思った。


「だから、家を探しているんです」

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