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高橋さんは一度こちらを見ると、視線を海に投げて話した。
「それから俺とシュウ、どちらかに何か聞かれたとしても答えないでほしい」
内容を知っているはずの者が、その内容について問い質すとなると、それはどういう状況か。
「え……っと、それは……相手が変装してくる、とかですか」
「似たようなものかな。どんな方法であるかは分からない。例えば電話だとかそういうものかもしれないし、直接会っていたとしても梓真ちゃんからは何も言わないでいてほしい」
考えられるとすれば、盗聴という線か。盗聴に関して言うならば、こんな海にある岩に設置することはまずない。私は手ぶらだし、高橋さんも今は何も持っていなさそうだ。だから高橋さんはここまで来たのか。
それにしても、変装や盗聴してまで調査してくるような内容を、羽山さんはなぜ私に話してしまったのだろう。
「なぜそんな重大な話を、私に羽山さんは――」
「言ったのはアイツだから、俺は分からない。でも、君がそれだけ大切な……シュウにとって何か意味のあることだったんだと思う」
「高橋さんは、私と羽山さんの関係をご存知なのですか」
「いや、多分君が指す意味では正確には分かってない。あの別荘の管理を依頼したとは聞いてる。予想はついてるし、確認も取ろうと思えば取れる。だから何となくは知ってる。でもシュウが言うまで待つことにしてるからさ」
そう言って静かに笑んだ高橋さんに切なくなった。
どれだけ親しくとも、踏み込んで良い領域の線引きは、判断に悩むものだ。長い間一緒に居ても、分からないことの方が多いのだろうか。でも、それはそれで良いのかもしれない。私には誰にも話したくないことが沢山ある気がする。
あとは今後の対策を聞いておくべきか。
「もしその、そういった『怪しい人』に出会った場合、どうするべきですか」
「ふーむ、そういう人に会っても、相手をせずに立ち去った方が良いかもね。喋らなければならないときは当たり障りのないことか、全て『知らない、分からない』で良いと思う。これはちょっと違うけど、とりあえず夜中は出歩かないこと」
「はい」
「そういう風に用心してくれるのは助かるよ。俺たちの為にも、梓真ちゃんの為にも」
静かに微笑んだ高橋さんに、私は笑ってはいと言った。
それから別荘まで送ってもらい、高橋さんは「ついでだから」と車を出して買い物にまで付き合ってくれた。
羽山さんも高橋さんも、親切の無料配布はほどほどにした方が良いと思う。ありがたい限りではあるが、返せるものがないし、勘違いする人も出かねない。
そういえば高橋さんに幽体離脱はできるのかと尋ねるのを忘れていた。だが覚えていたとして、高橋さんに聞けたかは定かではない。
高橋さんにはまだ少し緊張をしてしまう。逆に羽山さんに対して、なぜあんなに緊張せず、むしろ安心感を覚えてしまうのかを、疑問に思うべきなのではないのか。フィーリングか。兄と妹……か。
ごにゃごにゃと考えながら、固いアイスの表面をスプーンでこつこつと叩いていた。冬場はなかなか溶けそうにない。
一人の晩餐は、最後にデザートとしてちょっとお高いアイスを用意した。竜崎さんのおかげで得るものがあったのだ、祝いだ祝い。昨日もしたけど。目的と内容が違うから良いのだ。そうだそうだ。
勢いよく突き刺して、抉るようにアイスを掬った。だが少量しかとれない。それでも構わず口に運び、手の温度から少しずつ溶け始めた外周から攻めていった。
口に広がるバニラの香り、溶けて舌に満ちるアイスの糖度に、至福の時間を噛み締めた。くふふ、最高だ。我が名はハッピーアイスモンスター、幸せを噛み締める者よ。けへへ。
アイスを食べながら、珍しくテレビを点けて見ることにした。今はバラエティー番組が流れている。
普段は前の家から持ち込んだラジオを聞いて情報収集をする程度で、習慣としてテレビを見ることはない。そもそも前の家にテレビはなく、こちらに来てそこかしこにテレビがあることに驚いた。風呂場にも必要なのだろうか、テレビとは。
もう一つ前の家にいたときはテレビがあり、見ていたりもしたが、私のテレビに対する印象はそこで止まっているので、現代のテレビのこの薄さ、大きさ、鮮やかさには圧倒される。なんと言うべきか、映像の情報量に私の視神経が付いていけない。
そういえばりっちゃんに見せてもらっていた携帯ゲーム機でさえ鮮明な映像だったなぁ。「技術水準の変遷」、今はそういう時代なのか……。なんだろうな、このくたびれた感想は。しおしおだ。
机の上を片付け、残りの課題を今日で終わらせることにした。
転校生だが冬季課題は免除されないらしい。三学期の評価に反映されるからだそうだ。といっても前の学校に比べれば少ない。一部教科から出ているだけで、ほとんどの教科で提出物はない。
できるだけ課題をなくしていく方針で、現在移行の最中だとか。
テレビからの雑多な音を聞き流しながら課題を進めた。
集中できるのは無音か雑音かというのは、しばしば話題のタネになるが、私はどちらなのだろう。気分屋なので気分による、が答えだろうか。無性に何か音が聞こえていてほしいとき、あらゆる音がうるさく感じるとき、気付けば没頭していて、音がどうだったのか気にもしていないとき、気分や体調によるのだと思う。
誰かとするか、一人でするかでなら、集中できるのは圧倒的に一人なのだが。逆に誰かと勉強した方が効率が上がるという人は、どういう仕組みで、どういう感覚によって上がるのか気になる。士気? 切磋琢磨? 何にせよ私には縁遠いものだ。
ただ、他人の勉強方法は気になる。自分の勉強方法が効率的とも思っていないので、頭の良い人がする効率的な勉強とはどんなものか聞くのは面白い。実行できるかは別として。
リビングで進めていくと、ようやく全ての課題が終わった。
そうして日々は少しずつ過ぎて行った。年末まで羽山邸を一通り掃除して、和室でインスタントの蕎麦を食べて年を越した。年明けにはインスタントの餅入り雑煮があったのでそれを食べたりした。久し振りに食べると餅も美味い。
年が明けて数日、冬休みの終わりまでもあと数日だ。このままずっと休みでも良いんだがなぁ。
山のふもと……よりも多分まだ手前の、木々に囲まれた道を歩きながら、休日に想いを馳せていた。
前回高橋さんからオススメポイント山バージョンを聞いていた。本当にオススメしたい所は少し分かり辛いそうなので、また今度案内してくれるそうだ。今回は初心者用というべきか、分かりやすい場所を教えてもらった。
道路から少し距離を取った所に、川が同じような形で流れている。中流から下流の間辺りに橋が架かっているらしい。その橋からの景色がオススメなのだそうだ。
橋は道なりに進めば必ず辿り着くらしく、道路からそう遠くはないそうなので迷うこともないだろう。
羽山邸までの坂道もそうだが、木に囲まれた場所の空気は清涼で、「落ち着く」というのを実感できる。しかし落ち着くと表現するには、今の季節は寒過ぎるきらいはあるが。それでも木漏れ日の中を歩いて、澄んだ冷たい空気を感じていた。
しばらく道なりに歩いていると、前方に橋を発見した。これがそうか。古さは感じるが、しっかりとした橋だ。近付くほどに、より空気に冷たさを感じる。そういえば耳が痛い。
川幅は二メートルほどだろうか。大きくもなく、小さくもない。
欄干に寄り、川を覗いた。
透明度が高く、浅い底は明瞭に見えた。川から橋までの距離は、思っていたよりも離れていないようだ。よく目を凝らせば小さな魚もいた。さらさらと水の流れる音が心地良い。
橋から川の流れゆく先を見つめた。
平らな欄干に凭れて眺める景色は、周りを木に囲まれているし、川自体も大きくはないので、海の岩から見た景色とは対照的に、閉鎖的な印象を受ける。だが、こちらはこちらで心地がいい。
高橋さんは色々な穴場を知っているのだな。この地域にはよく来ると言っていたし、詳しいのだろう。ここに別荘を建てている羽山さんよりも、外部から来ている高橋さんの方が詳しそうというのも面白い話だ。いや、羽山さんも話していないだけで詳しいのかもしれないが。
川を挟むように並ぶ木々が、枝を揺らしていた。冷たい風が頬を冷やし、鼻も肺も冷やしていく。体は冷えていくのに、満たされていくようなこの感覚は何なのだろう。ああ、そうか、陶酔か。
こんな風に時間を目一杯無駄に使えるのもあと少しだ。いや、学校が始まってからも時折こんな時間を持てたら。ただ川を見ているだけの時間、海を見ているだけの時間、ただそこに居るだけで満たされる時間を、見つけることができたら。
体が冷え切るまでボーッとして過ごし、満喫すると羽山邸へと帰って行った。
明日からは新たな高校生活が始まる。
川を見に行ってから数日が経ち、買い物以外は全て屋内で過ごしたが、羽山邸は引きこもりに優しい別荘だった。今日は冬休み最終日ということだが、名残惜しくてたまらない。やりたいことや、やるべきことはまだまだある。
羽山邸はどこもかしこも広い。このだだっ広い空間にただ一人、大の字になって寝っ転がるだけで楽しいのだ。
時間を潰すのに、以前駅周辺の町で見かけた本屋か、図書館にて本を調達してこようかとも思ったが、特にその必要はなかった。
羽山邸には映写機があるとのことだったが、映画のディクスがいくつかあった。ほとんど見たことのないものだったので、興味が引かれるものから少しずつ見ていった。
それに外出せずとも羽山邸から外を眺めるだけで、勝手に時間が過ぎていくことを失念していた。何と言っても、景色が良い。それだけで夕日は沈み、いつの間にか星空を眺めていた。
そうして怠惰に残りわずかの日々を過ごし、バランスボールに背を預けながら、高い多目的室の天井をボーッと見ていた。
映画を見るときはわざと暗くしていた室内も、今は電気を消すだけで自然と暗くなる時間になった。
ばいんばいんと時折思い出したように弾ませては、ゴロゴロと転がって床に落ち、また乗っては転がり落ちるのを繰り返していた。
――明日から学校か。
学校へ行くことなど何ともないと思っていたが、羽山邸を満喫してしまうと行きたくなくなってしまったな。何てものを作ってしまったんだ羽山さん。もうここ以外の家には住めなくなってしまいそうだ。
永久に私をここに住まわせてくれないかなぁ。無理かなぁ。無理だよなあ。
ぐだぐだと身にならないことを考えていたが、やがてバランスボールを片付けると、全ての準備を済ませてようやく眠りについた。緊張していたのか、少し寝付きは悪かった。
翌朝、私は意を決するため、両頬を叩いた。
玄関の鏡に映る指定のセーラー服姿は、真新しくてぎこちない。靴はそのままだし、新入生でもないのに制服だけが綺麗で、変な気分だ。スカートを穿いたのもいつ振りだ。二学期の終わりか。いや他にも穿いた気もするが……どうでもいいか。
制服やらはどうしてあんなに高いのだろうな。強度が高いのも分かるし、良い素材なのも分かる。だが色々とまとめて買うために、一度に払う金額がすごく高く感じるのだ。
三年で割れば、一年当たりの金額は妥当といえるかもしれない、が、私は一年と一学期だ。つまり他生徒よりは割高だ。少し悲しい。
しかしすべて自分で選んだ道だ。前へ進むと決めたはず。嘆きは動力にはならない。
防寒着を一式身に付け、鞄を手に取った。
玄関のドアを開け、後ろを振り返った。誰もいないと知っているが、私は「行ってきます」と声に出した。
――伝えたかったのは羽山邸に、なんてのはキザか。
施錠した羽山邸を、数歩下がって見上げた。
本当に、越して来た先がここでなければ、今の私は大きく違っていたはずだ。着ている制服だって違った。
私は羽山さんの提案に頷いて良かったと思う。羽山さんに出会えて良かった。ここに来ることができて本当に良かった。
少しずつだが、前へ進めるようになって良かった。
あの時選んだ選択肢が、これからの生活でまた意味が変わっていくのかもしれない。それでも現時点で良かったと思えるのだから、あの選択はあれで良かったのだ。
自分を激励して、私はようやく門の外へ出て行った。