K 4/4
何度目になるのだろう。
もう見慣れた光景だというのに。いつも胸は少しざわめいてしまう。
しゃがんだコートの背に流れる長い髪を少し掬うと、いたずらをするように口付けを落とした。
いつもの彼女は気付くこともなかった。けれど今日の彼女はちらりとこちらを見てふ、と笑った。
そんな様子を見れば仮定がよぎる。本当はいつも気付いていたのかもしれない。ただ知らないふりをしていたのかもしれない。黙認されていただけだとしたら。
それをあえて表現してくれたのなら、また一つ僕は許された気がした。そんな些細な態度の変化でさえ、僕を喜びで満たしていった。
だというのにいつもその背を見ると、引き留めたくなる。もう二度と、置いていったりしないでほしい。知らないところで知らない遠くへ行かないでほしい。胸の内側を掻きむしられるような感覚は、僕の愛惜なのか、過去の哀惜なのかは分からない。
ただ、どちらだとしても貴女が大切であることは変わらない。手放したくない思いも変わりはしない。
靴を履き、立ち上がった彼女の背を後ろから抱き締めた。
「ねえ梓真さん帰るの」
「そう宣言したが」
淡々とした声が玄関に落ちた。彼女はもうすっかりと腕に収まってしまう。以前そんな事実を告げたとき、彼女は「君が大きくなったんだろう」と呆れたように笑っていた。
そんな彼女にどこか、僕はねだるように尋ねた。
「……泊まっていかない?」
「いかない」
「絶対に?」
「…………。今日は」
予想していなかった返答に、反応が少し遅れた。
――今日は⁉︎
僕は思わず腕の力が強くなった。
「じゃあいつ?」
自分でも浮かれ切った声になったと思う。僕は彼女を覗き込むが、彼女の顔色は何一つ変わらなかった。彼女はいつものように呆れ返っているのかもしれない。
普段の予定を並べるときと変わらない温度で彼女は言った。
「いつか体裁と心理が整ったときが来たら」
て。
――体裁。
体裁といえばつまり。
……ということはけっ、その、え? 心理って、それはどういうことですか。
「えっ体裁ってエッ、し、心理って、そ、えっ?」
「落ち着け。何事も順序があるだろう? 段階を百で分けたとしたら今は二だ」
「に、にぱーせんと……? 進行度が……?」
「左様。さようなら。本日は大変お世話になりました。離してください」
「もうちょっとだけ」
「十秒か?」
「一時間」
梓真さんは盛大な溜め息をついた。
「君は賢い設定じゃなかったのか」
「知らないよそんなの。大体、梓真さんはいっつも極端に少なかったりするからこっちは多めに言っておかないと」
「だからって君はいつも多過ぎる。君が拡大解釈するから私は最小限で言わなければ――」
「梓真さんがもっと多めに言ってくれれば僕はもうちょっと、その……」
堂々巡りを示す尻すぼみな言葉に、彼女は断ち切るような横目でじっとこちらを見た。
「本当か?」
僕は答えられずにいた。すると彼女は苦笑して言った。
「ほらやっぱり」
「だって、寂しい」
自分の発言に僕は内心驚いた。言うつもりのなかった言葉が、自然と口を突いて出ていた。彼女は僕の自覚していなかった言葉を、引き出す魔力でも持っているのかもしれない。
心から不思議そうに、彼女は振り返ってこちらを覗き込んだ。
「……どうして?」
真っ直ぐな彼女に見つめられて、幼い思考が隠れることなく引き出される。
「僕だけが好きなんじゃないかって」
そんなことはないと、本当は分かっているけれど。
僕だけが、彼女を必死に追い掛けてるんじゃないか。求めているのは僕だけで、足掻いているのは僕だけなんじゃないか。そんな不幸へ陶酔した思考が、時折湧き出してしまうときがある。
本当はちゃんと愛されていると知っている。貴女が僕を愛してくれていることに、深く溺れるときがある。
けれど時々無性に不安を感じてしまう。彼女は、僕が掴むべき人ではなかったんじゃないかと。僕が飛べないように縛り付けて良い人ではなかったんじゃないかと。彼女にはもっと相応しい人がいて、僕はただの阻害者なんじゃないかと。
彼女には幸せになってほしいけれど、幸せにするのは僕ではないんじゃないか――僕では幸せにできないんじゃないか。何度も結論を出した問いを、反芻してしまう自分がいた。
貴女の幸せを願っているのに。
例え貴女にとって最高の相手が僕じゃなくても、僕が貴女を幸せにしたい。そう、傲慢を抱いてしまう。
彼女は柔らかく笑って、手袋をはめた両手で僕の頬を包んだ。優しい感触が皮膚から沁み渡る。
「やはり、私の表現力不足が問題なようだ」
「いや、だからそれは、その」
「私と君の価値観が同じはずもなし、またゆっくり言い合――話し合いをしよう。君と私の関係は今までもこれからも、話し合って築いていこう」
こちらを見つめるあまりに優しい瞳に、存在の全てが揺さぶられるような心地だった。この感覚を永遠が包み込んでくれるなら。
僕は頬に添えられていた両手を回収した。
「ねえそれプロポーズ?」
堪らず僕が尋ねれば、珍しく彼女はみるみる内に赤面した。彼女が振り払おうとする両腕を止めるように、僕は彼女の手首を掴み直した。
すると彼女は余計に赤くなりそうなほど、形相を歪めた。
「違う! ポンスコタン!」
「ぽ、ぽんすこ……」
「そういうのはもうちょっとちゃんとハッキリ言う!」
「言ってくれるんだ……」
「大体まだ早い!」
「『まだ』なんだ……」
彼女は目尻に涙を溜める。どうやら本気で怒ってるようだ。でも以前に「涙が出るのは合計値」と言っていたので、今の涙は怒りだけではないのかもしれない。ならば、僕への感情は一体どれだけ入っているのだろう。どれだけの期待なら許されるのだろう。
「だから貴様のそういう拡大解釈するところが大ッ嫌いなんだ!」
「なんか、キサマって懐かしい響きだね」
僕は思わずくつくつと笑った。そして指先に口付けを落とすような素振りを見せた。
「真剣に言ってるんだからな!」
僕が笑うほど、彼女はこちらを睨んだ。相関性は変わらないけれど、心だけは大きく違う。
貴女が好きだと言える、この心の軽やかさは。
僕は彼女の目尻を指でそっと拭った。
「ごめん梓真さん。好き。本当に好きだから、僕は梓真さんのことがさ……本当に。だからちょっとだけ、僕を許して。梓真さんの心に、ちょっとだけ僕の存在を置いても良い隙間がほしい」
すると彼女はゴ、と頭突くように僕の胸に額を当てた。
「――あるよ。もう当の昔に君がこじ開けたから。落とし穴みたいな穴がそこら中に、蜂の巣よりもあいてる。その上居座っておきながら、放っておくと君はどんどん新天地を開拓していこうとするから、追い付くのに必死なんだ。私は、君の早さに付いていける器用さがない。ずっと、君を追い掛けるだけで精一杯なんだ」
時々、不思議に思う。僕と梓真さんは同じものを見ても違うことを考えているのに、全く違う観点から、同じことを考えている。
不思議な人、変な人だ。でも彼女からすれば、僕も同じらしい。
そんなことが嬉しくて愛しい。僕は貴女を愛している。
僕は貴女がいれば幸せだ。
今度は僕が彼女の両頬を包んだ。持ち上げた顔は、逸らされることなくこちらを見ていた。
「ねえ知ってた? 梓真さん。僕と梓真さんは変なところでよく似てる」
彼女は静かに、柔らかく笑う。
「……かもな」
僕は彼女を見つめる。冷たい頬に触れて、ただ自分の心音だけが聞こえた。
「キスして良い?」
小さく「ハ」と彼女は笑った。
「君からじゃなければ」
突然彼女に襟元を掴まれ、「え?」と言おうと開いた口が塞がれた。
一瞬何が起きたのか分からず、すぐに離れた彼女をまじまじと見た。彼女は何の感情もない表情でこちらを見返している。
な、何が何だか、言葉の意味も行動も、わけが分からない。僕は彼女の腰を抱き寄せた。
「ね、え、ねえどういう意味なんでどうしてもう一回」
彼女は僕を押し退けながら淡々と言う。
「君に権利を与えると拡大解釈するから。権利は私がしばらく預かっておく。あとしれっと要求するな」
「え、い意味分かんないほんとにそんな権利も権限も制限もないしそんなことで罰せないでしょ」
「この件はまた後日ゆっくり話し合おう。一つ言っておくが、契約内容の破綻はすなわち破局だ」
「またそういうこと言う! 僕だって梓真さんのそういうところは嫌い!」
「うるさい」
辛辣に言いながら、要求を叶えてくれる。彼女の食べたブラウニーの甘い香りが鼻腔を通り抜け、渇望を溶かした。事実を正確に認識するよりも先に、衝撃を受けた脳は壊れたようにドーパミンを出し、幸福に溺れていくようだった。そしてまたすぐに彼女は離れていった。
これはもうすでに過剰分泌により幻覚を見ているのかもしれない。これが、現実、だと……。
混迷する脳は、にわかに認めがたい事実に根を上げた。
「き、嫌いだ……。それで僕が黙ると思ってる」
「違うのか?」
彼女はさも当然と言う顔で見るから、
「僕は怒った」
僕は再び彼女の両頬を包んで唇を重ねた。
唇の得る柔らかな感触に、融解した脳が顔の隙間から溢れ落ちてこないのが不思議だった。満ち満ちる幸せの色は、太陽に似た白色なのだろうか。
彼女が嫌がることを嫌がると知っておこなう暴虐は、許されなくて良い。憎んでくれたって、吐き棄ててくれたって。
何をされても、されなくても、そこに彼女がいて、僕がいられるのなら。これまで得た全ての幸福を投げ打ってでも、貴女と過ごすという幸せを得られるのなら、僕はどんな狂人になっても構わない。
これほどの幸せを、僕の感じる幸せを、貴女によって得られることに、貴女は理解を示してくれるだろうか。
不安に駆られたとしても、焦りで前が見えなくなっても、貴女が生きているのなら。本当は、僕はそれだけで充分だと知っている。知っているけれど、幸せだからこそ忘れてしまう。だからこうして、思い出させてほしい。
彼女に背中を叩かれてもなお、構わず欲望に耽った。自ら手放せるはずがなく、快楽の波に溺れていく。
すると突然、ゴッ! と骨のぶつかる鈍い音が、強烈な痛みを伴って頭に響いた。
「ア痛ァ――ッ!」
梓真さんに頭突かれた。僕は額を押さえながら彼女を見た。梓真さんは毛を逆立てた狼のように、こちらを鋭く睨み付けていた。怒った姿もすごく……、好き。
「拡大どころか無視するとは許されざる蛮行だ!」
「暴力の方が蛮行ですけど⁉︎」
僕が反論すれば、彼女は今にも喉笛を噛みちぎらんとする勢いでこちらを睨んでいた。そしてそのまましばらく睨んだあとで、呼吸を整えるようにゆっくりと表情を収めていった。それでも眉間の皺は取れなかった。
「だめだこれ以上君といると今日はコテンパンに殴り付けてやりたくなる。じゃあな! 達者でな!」
彼女は踵を返して、玄関を出て行く。僕は「送っていく」と慌てて追い掛け、玄関先でなんとか彼女の手首を掴んだ。
彼女は前を向いたままだった。
「殴ってくれても構わないから」
僕が頼めば、しばらく彼女は硬直していた。やがて振り返りながら静かにくるりと手を回して、僕からの拘束を外した。
梓真さんはこちらを真っ直ぐに見た。そして困ったように笑った。
「君には本当に敵わない」
そしてこちらへ手を差し出した。冷たいはずの手は、いつも僕の胸に熱を灯す。僕がその手を掴めば、しっかりと握り返された。互いに何も言わなかったけれど、結局は笑い合っていた。
するりと指から離れ、風に乗って飛んで行きそうなほど、不確かな存在に思えた。けれどこうして繋がる形は、確かに手の中で存在している。ならばもう二度と、どこかへ行ってしまわないように。
別れる地点までくると、僕はいつものように彼女に告げた。
「またね。風邪ひかないようにあったかくしてね。それから三食ちゃんと食べて――」
「アディオス!」
彼女は僕の小言を遮るように軽く手を上げて宣言すると、すぐに前を向いて小走りで去って行った。途中で思い出したように少しだけこちらを見ると、最後に茶色の手袋をひらひらと振って見えなくなった。そろそろ痛んでいるだろうし、今度はもっと暖かいものを贈ろう。
「アディオスて……」
長い別れの挨拶だと知っているんだろうか。知っていても知らなくても、彼女なら結局言いそうだから困る。あえて言われた方が、打ち消し甲斐があるんだろうか。
ちょっとおかしい僕の彼女は、ちょっとずつ何かがずれている。そんなところも愛しくて、僕の方がおかしくなる。もう既に、おかしくなって久しい気もするけれど。
だから早く、僕が三食作れるようになれたら良い。そうすれば僕がおかしかろうと、彼女がおかしかろうと、何の問題もない。彼女の様子を見るにまだまだ、先は長そうだ。
いつかきっと、必ず。貴女を繋ぎとめる錨になるから。
今はまだ、風に乗って、自由に漂う船でいて。
最後までお付き合いいただき
本当にありがとうございました!