K 3/4
生地ができたあとは、ひたすら平らに伸ばしていく。まずは手で大まかに伸ばしたりなどの下準備をしてから、このパスタマシーンにかける。電動のものもあるらしいが、如月邸は手動のものなので、私がハンドルをくるくると回していった。ほほ、面白い。
布のように滑らかに、白い生地は綺麗に伸ばされ落ちて、折り畳まれるように襞を作る。現在パスタマシーンは小麦絨毯生成機だ。
如月指導の下、作業に勤しむ傍ら考える。生地を伸ばしたり、機械を置いたりできる広い作業場がなければできないし、そもそもこの機械を買うお金がいる。つまりこういったものは、金持ちのみができる道楽の一つのように思えてならない。
事実はどうあれ確実に、以前の私ではできなかったことだ。なんというか、幸せだよな。あんまり幸せを噛み締めると、うっかり生地が塩辛くなりそうなので途中で放棄するけれども。
何度か絨毯を引き伸ばす作業を繰り返したあと、ようやく最後に絨毯を麺にする。刃をうどんに合う太さのものにして、機械に絨毯を入れてハンドルを回す。ニョロニョロと生まれでる麺に感動し、思わず笑って如月を見れば、目の合った如月はにっこりと笑いを返した。あ、違う夏樹さんだ。
「はあー……すごいな」
仕上げはきさ――夏樹さんが整えた、形の美しい麺を見て私は呟いた。次の準備などの作業をしたり、こちらに指示したりしながら夏樹さんは聞き返した。
「そんなに?」
「まず生地から作ったことなんてなかったから、達成感がすごい」
「そっか。これで麺は完成かな」
「おおー……。で、あとは茹でる、と」
私は麺を鍋の元へ運び呟いた。夏樹さんは笑顔で頷く。
「そう。今回はパスタみたいにうどんだけを茹でよう」
「ん? うどんはうどんだけで茹でないのか?」
夏樹さんは数秒固まった。
「……あ。余計なことを言ってしまった」
「何だ余計なことって」
私は眉を寄せて尋ねたが、如月は麺を湯に入れただけだった。菜箸でうどんをほぐしながら、ようやく如月は答えた。
「僕は梓真さんにうどんを教えたくなかった」
「何だそれは」
「だって梓真さんに冷凍うどんとかを教えたら、そればっかり食べそうだもん……」
「はーんつまり簡単お手軽料理というわけだな?」
得意げに聞いた私に、如月は答えずにじっとこちらを見た。
「毎日しない?」
「それを決める権利は君にないだろ」
「じゃあ教えない」
「毎日しません」
私が手のひらを返せば、如月は楽しそうに笑った。
「ははっ。嘘だよ、後で教える。応用を増やせば同じではないからね。毎日食べようが梓真さんの自由だ」
「ほー」
応用か~……私の嫌いな言葉だ。基本、最短、ズボラ、ダイスキ。聞くだけ聞いて、やるかやらないかは私の自由だからな。ちゃんとしますよ~と夏樹さんにアピールしておけば大丈夫だ。
「でもその反応を見るに、やっぱりそのままだけを食べそうだからあんまり教えたくなかったんだけどな……」
「私にだって飽きはあるさ」
見透かされた実情を誤魔化しながら、私はうどんを見守っていた。その間に如月がつゆを温め直したり、ネギを切ったりしていた。
そして背後から春香さんが顔を出した。
「お邪魔してごめんなさい、そちらは二人分?」
所用があると離席していた春香さんは戻ってきたようだ。如月は優しく答えた。
「ううん。ちょっと多いかな。ハルも食べる?」
「ええ! その言葉を待っていました!」
並んで見る二人は美男美女で、様になる。美しい兄妹だなと一人頷いていた。すると夏樹さんは笑って言った。
「そういうところは梓真さんとハルって似てるよ」
「そうなんですか?」
春香さんが愛らしくこちらを振り返った。可愛い~。
心がにやけるのを引き締めながら、私は如月に一言申し出た。
「誰だって美味しいものは好きだろう?」
「それが顕著なところが、だよ」
「別に良いことじゃないか?」
私はタイマーを見ながら杜撰に答えた。そろそろ茹で上がるか。
春香さんが私に同調を示した。
「そうですよ。良いものは良しと表現して然るべきです。私はお兄様の料理好きですよ」
「はいはい、均等に配分するからね」
如月は満更でもなさそうに言った。
「まあ! 兄さんには梓真さんをおもてなしする心はないのですか」
春香さんが言い終えたところで、タイマーが鳴り響いた。私はタイマーを止めて自らの腹持ちを主張した。
「いや私は等分でお願いしたい」
「梓真さん量は食べないもんね」
知ったように如月は微笑んで言った。……なんだろうな、この何とも言えぬ悪寒は。
如月は麺をザルにあげ、水洗いした。そしてその状態のまま、短く切れていた麺を摘んで私の口元へと運んだ。これを食べろ、という意味か? 如月をちょっと睨み見れば、彼はただ微笑んでいる。いきなりそんな……?
如月の「食べてみて」と促す小さな声は、捏ねていたうどんの感触とよく似ていた。手で受け取ろうとしたが、より口に近付けられては粗末にもできず、そのまま食べるしかあるまい。恐々と口を開けば麺を入れられ、閉じたタイミングが合わず少々如月の指に唇が触れてしまった。すまない。
洗ったばかりであるので水の存在を強く感じるが、麺を噛めばツルツルでちゃんとコシもあり、そしてぷるぷるでもちもちだ。なんともよい弾力である。初めてでこれは素晴らしいのではないか。
しかし初めてとはいえ如月監督の下であるからして、半分以上如月が作ったようなものであり、ならば美味いのは当然である。ああ、ようやく昼ごはん。遠い道のりだった。
私は唸りながら美味いと呟くと、無意識で閉じていた目を開いた。如月は既にうどんを鍋に入れて温めていたが、なぜか春香さんは如月を少し睨んでいた。
「オニイサマ、時・場所・場合を考えてくださいます?」
「なにが」
「あー嫌ですね。狭量だからこそそうやって自慢したがるんです」
「ハルがやっぱりうどんはいらないって言いたいのは分かったよ」
如月はどこかぶっきらぼうに答えながら、器に盛り付けを始めた。ネギ、卵、天かす……ああ、美味しいに決まっている……。カツオ節とか、梅肉とかもどうだろう……?
作業をしながら春香さんと話す如月はどこか、「いつものこと」という慣れた雰囲気を感じる。春香さんも、料理をする兄二人との交流は、しばしキッチンで行われていたのかもしれない。
私は自然と春香さんに尋ねていた。
「いつもこんな感じなんですか?」
「得てしてそうです。ね、梓真さん。私は年下なんですから、敬語はおやめになってください」
「なら、春香さんも是非」
「はーい。梓真さん」
そういって美少女が微笑むので、世界は明るい。煌めく世界で微笑みを交わせば、横から重たい声が聞こえた。
「ハルは昔から何だって僕の分まで取ろうとしてたよね」
「この世は弱肉強食なので」
「強きは与えてこそだよ」
「弱きは残れぬさだめですので、与えられる強いお兄サマから頂かなくては。ね?」
私は完成したうどんを机まで運びながら、二人に向かって思わず言った。
「ふふ、きょうだいって良いですね」
リビングにうどんが揃うと、三人でテーブルを囲んだ。先程と同じ、正面が如月、横が春香さんだ。
「梓真さん、敬語」
すかさず春香さんに正され、反省した。そういえば夏樹さん呼びも忘れてしまう。いや、心の中では如月のままで良いか。面倒だ。
「ああ、えと、すまない。日が浅いとどうしても」
私が言い訳をすれば、如月は驚きを露わにした。
「え? 僕のときは?」
「だって君は強烈だったから……」
「それは梓真さんの方でしょ?」
君がしつこく言うから渋々打って出たんだ。私は口の悪さを露呈したかったわけではない。
心の反論を口には出さず、私は如月をじっと見た。私の抱えた不満とは裏腹に、如月の方は何だかちょっと嬉しそうだ。解せぬ。やっぱり変な奴だ。
すると春香さんが不思議そうに我々を見比べた。
「一体何が?」
私はにわかに凍り付いた。
え、あの一連の流れを説明しろと? 新時代の拷問か?
内容そのものはくだらないやり取りだし、聞かれてそう困るような話でもないのだが、なんとなく話したくない。
なんだろうこの気持ちは。熟す前の果物を口にしたような、そんな気分だ。
「私は話したくないなあ……」
「僕もあんまり……」
私が心情を吐露すれば、如月も同意した。そうか、如月もか。なんだったんだろうな、アレは。
今になって思えば、もっと他にこう……うまくできたんじゃないかと思うし、違う道もあったんじゃないかとも思う。しかし当時の私としてはあれで精一杯だし、正直今の私でも大差はないだろうし、怪しい如月も悪かったのだし……。
「ええ? どういうこと?」
春香さんは可愛らしさをふんだんにあしらった表情に疑問を浮かべたが、だからこそ余計に話せない。先程の春香さんと話す穏やかな如月を見た後で、あの如月を伝えるのは憚られる。
あなたの兄上は、色んな意味で怖かったんです……。本当に、色んな意味で……。
私は遠い目をしながらなんとか答えた。
「話せないことではないけれど、何というか、黒歴史に近い、日の浅い傷というか……」
「余計に気になります」
「いつかお兄様に聞いてください……」
春香さんは如月を見たが、彼も断るように首を振った。
「いやだから僕もちょっと……。むしろ僕の方が何というか、その……」
「もー! 何なんです? それでうどんは?」
春香さんが可愛く怒ると、私は気持ちを切り替えた。
「ああ。よし、うどん。食べよう、うどん」
三人で「いただきます」と告げると、ようやく遅い昼ごはんとなった。あ~~~~、うまい。いいなあ、これは。
もきゅもきゅと幸せを噛み締めれば、自然と頬が持ち上がる。目が合うと如月は、綺麗に目を細めて笑った。何というか私は幸せです、りっちゃん、羽山さん。
横から春香さんも「美味しい」と言い、私も同じ言葉を繰り返していた。如月も低く「美味しいね」と呟き、そこで私は――場違いな感覚を抱いた。
何というか、ドキドキする。
……あれ。如月ってこんなに格好良かったか? いや、如月は格好良いで間違いないのだろうけれど。
ふと視線を落とせば、箸の先端が震えていた。え? 手が震えている? あれ、ここは恋の自覚ではなく、不整脈とか、本当に何かの病気なのか?
いやいやそんなはずはない、落ち着け私。つゆを飲んでホッと一息ついた。箸でうどんを掴みながら、力が入りにくいことに気付く。
……ハッ! そうか、腕が疲れているのか……!
いやそりゃ捏ねたり何だり、慣れない力作業をすれば腕も疲れようて。あー、びっくりした。
ということは、私は……如月が、好き。
いや、好きだとは言ったし、向こうも私が好きで……そして付き合っているのだから。今更、恋? 順序が違うんじゃないか七瀬?
もう一度如月と目が合えば、如月はまた柔らかく笑った。ま、眩しい……。春香さんとそっくりだ、如月も美少女だったのか? いや、そんなはずはない。如月はさすがに美少女ではない。
美少女ではないが……美青年である。
嗚呼……。なんというか、敵わない強敵と対峙したような、死角からの強襲に為すすべなく倒れていくような、そんな心地である。仲間と思っていた相手は、実は敵のスパイだった。そんなアレだ。
七瀬一号、死滅! 七瀬二号、瀕死! 七瀬三号から六号まで重傷! 残るは七号一人! 七瀬七号、頼む、先ゆく皆の代わりに、あの邪神如月を討ち滅ぼしてくれ……!
託された七瀬七号の重責が胸にドッドッドッと響いている。七瀬七号も先程の一撃で重傷だ、もうダメだ、隊員全滅だ……。
「梓真さん、どうかした?」
目の前の如月は、不思議そうにこちらへ尋ねた。
ハ……死刑宣告だ。「最後に言い残すことはあるか」、そう問われている。七瀬七号、言ってやれ。
「美味しいものを食べられて、幸せだな……と思って。貴重な経験をありがとう、き――夏樹さんも、春香さんも」
「そ……そう。こちらこそ。来てくれてありがとう梓真さん」
如月は再びうどんを食べ、私はそろそろ完食しそうだった。春香さんも食べながら、小さく可憐な溜め息をついた。
「煮え切らないツキ兄さんを見ていると、消化不良になる気がして……。梓真さん、こんな不肖の兄で大丈夫?」
煮え切らない如月……。
如月が煮え切らないのは大抵、何か別の理由があって、迷いが生じているときだ。確かにその理由を説明しないという意味では、煮え切らないのかもしれない。
でもそれは私だって似たようなもので、感じていることの一から百まで全てを誰かに曝け出すことはない。如月との関係はまだ始まったばかりで、分かっていることの方が少ないのだから。
煮え切らないときの如月が何を考えているのか、知る必要があるのかどうかさえ、これから分かることであって、まだ結論を出すことではない。
「大丈夫、私は。私にはむしろ……勿体ない人だと」
私は笑って春香さんに告げた。すると如月が慌てたように反応した。
「梓真さん違う、それは僕こそだよ、大体ハルはいきなりそんな」
「――梓真さんが、そう言ってくださるのは大変ありがたいんですけどね。ツキ兄さんはちゃんと、はっきりと気持ちを伝えているのか心配だなぁ。家族にだって六年も黙っているような人だったから」
春香さんは冗談のようでいて真剣に言った。
……そうか。如月は高橋さんのことを誰にも言わずに一人で抱えてきたのか。――馬鹿な人だ。根は愚かなほどに真っ直ぐで、そしてとても……優しい人だと知っている。
そして言葉ではどうあれ、そんな兄を心配している春香さんも、とても優しい人だ。
私は笑って春香さんに告げた。
「春香さんは優しい方ですね。お兄さん方とそっくり」
「梓真さん……」如月が呟いた。
「でも私の好みはハッキリしている人です。その点春香さんはとても素敵です」
「あれ。……梓真さん?」
「これから。彼が気兼ねなく私に話せるような信頼関係が築ければ、と私は思ってます。先日、ちょうどそんな話をしたところでした」
如月を見れば、口を曲げていた。
「だって梓真さん……あんまり好きって言ったらすごく嫌そうな顔するし」
「いや、だから私がもう少し能動的になると言ったんだよ」
言われ慣れない言葉を耳にすれば、顔を歪めたくもなるだろう? え、ならない?
とにかくその点に関しては私の問題であるからして……。
「やはり消化不良するオニイサマでしたか……」
春香さんは悩ましげな様子も可憐に隣で呟いた。