K 2/4
日程の合った休日の午前中に、私は初めて如月邸を訪れた。
如月邸はいわゆる高級住宅街にある邸宅の一つだった。羽山邸が大きいので混乱しがちだが、如月邸も随分と大きかった。だって隣の家と比べて倍はあった。見間違いかもしれないがそのぐらいはあった気がする……。
外観も内装も白を基調としていた。外観はあまり把握できなかったが、内装はさらに黒とグレーがセンスよく使われた、とにかくオッシャレ〜でモノト〜ンなアレだ。よくわかってないけど。
壁や床で部分的に取り入れられている上品なパターン柄とか、大理石だとかが嫌味なく溶け込んで、違和感なく上質な空間に仕上がっているのだ。たぶんそう。玄関も広いし、廊下も部屋もみんな広い。如月を家にしたら、きっとこんな家になるんだろうと思うような家だった。いやこの家で育ったがゆえにこの如月あり、か。
やはり如月はお坊ちゃんなのだよなあ。お坊ちゃんお坊ちゃんと思ってはいたけれど、実感するとやっぱり本物のお坊ちゃんだ。貧乏暮らしであくせくバイトに明け暮れていた私とは根本的に住む世界が違うのだよ。
立場の差を実感すると、やはりなぜ私と……という疑問が湧いた。だがその説明を聞きたいかといえば、聞きたくない。しかしどうしてという疑問は否が応でも湧いてくるようだった。
このような家にお邪魔する手土産があんなショミンショミンした菓子で良かったのかも疑問だし、羽山邸以外の大きな家は落ち着かないな。……と言いながらも如月指導の下、うどんを捏ねている間は忘れた。そして寝かせている間は思い出したようにそわそわとする、というのを繰り返した。
本日はパスタマシーンによりうどんを生成する。機械に掛ける前に、まずは生地を作らねば始まらない。「パスタ」マシーンなのに作るのは「うどん」なのか? という疑問はとうの昔に捨てた。
何度目かのうどんをキッチンで寝かせている間、如月とともにリビングで雑談していれば、誰かの入室音が聞こえた。如月は今日両親はいないと言っていたから、それ以外の誰かになるが……。
音の先を確認するとそこにはなんと、紛うことなき可憐なる美少女がいた。な、な、な、なんだあの絶世の美少女は……! 可愛い……! 可愛い‼︎
美少女に目を奪われつつも、美少女の後ろから男性が入ってくるのが見えた。スーツ姿だが両親でないことを考えるとお付きの人……? それとも例のあの『執事』というアレか……⁉︎ 世界が、世界が違うよりっちゃん……!
私が二人を見過ぎていたのか、可憐な美少女はくすくすと可愛らしく笑いながらこちらまで来た。そして男性の方も少し離れてこちらまで来たが、私と目が合うと一瞬はっとした顔をしたものの即座に満面の笑みになり、それから如月を見た。
何だろう、私は誰かに似ていたのだろうか。それにしても「執事スマイル」というのは「営業スマイル」よりもニッコニコで笑わないといけないのか、大変な職業だ……。
そんな呆けたことばかりを考えていれば、如月の声が飛び込んだ。
「梓真さん。妹の春香、と向こうは小林さん。こちら梓真さん」
近くで見る美少女は本当に美少女で――美少女だった。サラッサラ、かつ、ふわっふわの黒髪が胸まで流れている。ああ、目がそっくりだ。如月とそっくりな目は優しく垂れていながら、よりハッキリと、そしてキラキラとしている。
柔らかそうな白いもちもちの肌、小ぶりで赤く色付く唇、なめらかに筋の通った鼻筋、ああもう全てが、彼女の全てが美少女でできている……!
如月をより一層完璧に近付けたような美少女だ。非の打ち所のない完璧パーフェクトプリティー美少女ガールなんだ……! 可愛い、可愛い……!
プリティーガールは小さく礼を取って言った。
「まあ。初めまして、如月春香です。兄がいつもお世話になってます」
挨拶されたことで、ようやく私は正気の存在を思い出した。呆けた脳味噌を殴って、慌てて頭を下げて挨拶をした。
「初めまして。お邪魔してます。七瀬梓真です。こちらこそ大変お世話になっております」
「まあ……」
美少女春香さんは意味ありげに驚きを示したものの続きは言わず、代わりに後ろの男性が引き継いだ。
「七瀬様、ご紹介に与りました小林でございます。お困りごとがあれば何なりとお申し付けください」
挨拶の文面は私にとって、普段の会話で聞く機会などないようなものだったのに、小林さんはものすっっっごく笑顔なので全く堅苦しさを感じなかった。
執事スマイルに求められる笑顔の質量に圧倒されながら、私は半ば反射的に挨拶した。
「は、はい」
「どうぞ本日はごゆっくりとお過ごしください。それでは失礼いたします」
そう言ってすんごい笑顔の小林さんはリビングから出て行った。なんだろう、勝手に執事って微笑までのイメージしかなかったのだけれど。あんなに笑うものだったのか……。
美少女と微笑除の執事……、ククク……。
「ねえお兄サマ、ご一緒しても?」
鈴のような声が告げたのは、可愛らしい要求だった。
これが噂に聞く『お兄様』! 実在していたとは……! 今度りっちゃんに話そう。
如月は明らかに顔をしかめた。珍しい。
「ええっ、やだよ」
「普段たっくさん二人きりで過ごされてるんでしょ。余裕のない殿方は嫌われますよ」
春香さんが笑顔で斬りつけると、如月は思い切り溜め息をついた。
「あのねぇ春香……。あとで話がある。それで、僕は良いけど、梓真さんは?」
珍しくも「断ってくれ」と顔に書いていた如月だったが、私は完全に無視した。だってこんな美少女とお話しできるまたとない機会だぞ……⁉︎ 手放す方がどうかしてる。
私は笑顔で答えた。
「どうぞ! 是非!」
「まあ嬉しい! お隣、失礼いたしますね」
春香さんはそう言って私の隣に座った。如月はじっ……とこちらを見たが、無視して私は春香さんと会話をした。
春香さんにはなぜだか、私を既に気に入ってもらえているようだった。彼女は次々とこちらに質問を繰り出しては、得た答えに笑いや知識を交えて軽妙な会話をした。
――意外だった。春香さんは一見、大和撫子のようだったから、もっとしっとりとした人かと思ったけれど。どちらかといえば快活というべきか、元気な人だ。
話をするとどうやら私の名前はよく聞いていたらしい。彼女の様子を見るに、如月なのか高橋さんなのかは分からないが、それなりに良いように伝えてもらえているのだろう。
へえ、春香さんは二つ下なのか。ということは違う高校なんだな。話を弾ませるのが素晴らしい点をみても、より如月を完璧に近付けた存在だ。きっと高嶺の花というのは、彼女のような存在を指すのだろう。嗚呼、ぱーふぇくつぷりちーがーる……。
そういえば如月とは話が弾む……という感覚がないんだよな。むしろ沈む。いっそ沈殿する。そういう会話なんだ。そう、会話が「楽しい」にはあまりならない。
――はっ。私は如月との関係において致命的で改善不可能な欠陥に気付いてしまったのでは……⁇
私は如月のじっとりした視線を感じながら春香さんと会話をしていれば、春香さんは如月を見て呆れたように笑った。
「おにーさま、男の嫉妬は見苦しいと聞いたことありません?」
「……別に」
如月は仏頂面を逸らして答えた。
……あれ。珍しい返答だ。いつもなら笑顔で「聞いたことあるけどそれが何?」とか「聞いたことはないけどどうなんだろうね」とか「程度にもよるんじゃない」とか何かこう、一言二言あるような気がするのだが。お腹痛いのか?
それにしてもあの顔って嫉妬だったのか? あえて表現するなら、自分が話に加われず拗ねているのかと思った。
如月にも話題を振ろうとは思うのだけれど、春香さんとの話が面白くて、如月にまで気が回せない。すまない如月。と思いながら私は春香さんに次の質問をしてしまうので、体は正直である。
「春香さんは料理をしますか?」
「実は、あんまりなんです。やろうと思えばできますけど、いたしません。必要ないですから。私まで作ってしまえば家中料理で溢れて、一日三食では到底追いつきませんもの!」
「ははは! なるほど、料理好きに囲まれる苦労ですか。私には羨ましい話です」
「そうですかぁ? 何事も需要と供給のバランスが大切ですからね」
「それは言えてます」
ふふふと笑い合う中に、如月の声が割り込んだ。
「梓真さん、そろそろ良い時間だよ」
「ああ分かった行こう」私は如月に頷いて、春香さんにどうするかを尋ねようとした。「春香さんは――」
「私も付いて行きます。梓真さんがお作りになられるんでしょ? 見たいです」
「そうですけど、決して特別でも、面白いものにもなりませんよ」
「構いませんから。ささ、行きましょう」
全員立ち上がると、春香さんはこちらの腕を組んで一緒にキッチンへと向かった。はあ……美少女に腕を組んでもらっている……。ああ、だめだ心のおっさんが……。
キッチンに着くと私から手を離した春香さんはハッキリと言った。
「ツキ兄さんはいつまで拗ねてるんです?」
おや、やっぱり拗ねてるのか。なんだ、それならそうと言ってくれれば、もう少しだけ思い出す回数を増やすのに。
私は作業再開の準備をしながら、横で支度をする如月にそう言い訳しようとした。
「すまない如月、君を忘れているわけではないんだが――」
「まあ! 彼女に謝らせるだなんて! 梓真さん、こんなお子さまには謝らなくて良いんですよ」
春香さんに遮られ、言い訳は終了した。
如月はちらりとこちらを見たあと、生地だけを見て小さな声で言った。
「別に拗ねてるわけじゃないけど、梓真さんいつも兄さんとかハルとか、僕以外の人との方がすごく楽しそうだから。……邪魔したら悪いかなって」
私が返事を用意するより早く、春香さんが袈裟斬りにした。
「ほらご覧なさい。動機が子供なんですから。それに梓真さんに失礼です。ツキ兄さんは梓真さんを『邪魔な相手とお付き合いなさるような偏屈な方』と思っているということになるんですよ」
すると如月はしゅん……と黙った。出た、可愛げを引いたあとの捨てられた子犬……!
そして嗚呼なんと、ぷりぷりと怒る春香さんが可愛い。目の前で美少女が私のために怒っている。どうしよう、幸せだ……。
ちなみに私は偏屈で特に間違いはない。それから如月の指摘どおり、高橋さんや春香さんと話すのは楽しい。如月は邪魔じゃないけれど、普段話しているから十分かなと思うだけだ。
――ではなく、そう、如月君のメンタルをケアしなければ。私はアドバイスを思い出しつつ捏ねを再開し、時折如月に目を向けながら告げた。
「君とは、確かに……『楽しい』だけではないのかもしれないけれど。隣が自然だと感じるのは如月とだよ。君がいるからこそ、他の人とも気兼ねなく喋れるのだろうし」
「あ、あず……」
如月はそれだけ言うと、あとはまた口をぱくぱくと開閉していた。
すると春香さんが声を上げた。
「まあまあ梓真さん! いけません、私も如月ですから。区別なさるのであれば兄のことも名前でお呼びください」
「ああそうか、すまない春香さん。夏樹さんも、すまない」
私は春香さんに軽く頭を下げて、次に如月にも下げた。そして如月を見るといつの間に茹でていたのか、顔が真っ赤だった。
「なっ……あず……、ハル……!」
如月が上擦りかけた声で言えば、春香さんは可憐なまま眉を寄せ、可愛らしく溜め息をついた。
「いやですわ。これでは私が当て馬兼お節介キューピッドじゃありませんか。手の掛かるおにいサマですこと。ねえ梓真さん、今度私と二人きりで遊びましょう? 兄なくしても私とは気兼ねなさらないでしょう? いかがです?」
「はい、是非! どこに行きましょう?」
私は二つ返事をした。作業を止め、思わず小さなガッツポーズを春香さんに見せた。やったぜ〜、美少女とデートだ!
すると如月が私の服を引っ張って悲痛な声を出した。
「ええ⁉︎ 梓真さん僕が誘ってもそんな返事してくれないのに⁉︎」
「累計は君が一番だから良いだろう?」
「でも……!」
すると春香さんが両手で、あまりに可愛いガッツポーズをこちらに見せながら言った。
「ありがとうございます梓真さん! 一緒に兄の愚痴でもお話ししましょう。あ、私オススメの和菓子屋に参りましょう。苺大福がイチオシなんです」
「それは素晴らしい。是非」
私は笑うと、とても静かになっていた如月を見た。如月は少し俯いていた。そして今度は如月に私の腕を組まれた。当たり前だが春香さんと比べると腕が堅牢で、逃げ難いと察する。
私の両腕は本日、貸し出し利用者の増加により多忙を極めているようだ。いつか灰色の宇宙人のような姿になってしまわぬことを祈る。
「梓真さんは僕の彼女なのに……」
「悪かった、悪かった。今度はどこかへ行こう? な?」
私は如月を覗き込んで謝った。
如月子犬、そろそろ段ボールから抜け出してくれ。ほうら、おもちゃだ。ジャーキーもあるぞ。他にも必要か?
すると春香さんが私と如月の間に割り入って引き離した。そして如月の胸を軽く小突いた。
「オニーサマは本っ当にダメダメですね。梓真さんはツキ兄さんの恋人だからこそ、私も気兼ねなくお話しできるんですよ?」
如月は俯いたまま黙っていた。私は納得して声を上げる。
「ああ、なるほど。そうでしたか」
……春香さんってしっかりしてるなあ。素晴らしい人だ。
そうだよなあ、どこぞの馬の骨ともわからん奴と素敵な美少女がお近付きになるには何かアドバンテージでもなければな。それが如月切符である、と。
だがそもそも如月自身、私には身に余る素晴らしい人だとも思う。だからこそ私は果報者だ。
そうだ、私こそなぜ如月に好かれているのか分からないんだった。はは、馬鹿だな。お互いなんで好きなのかよく分からないのに付き合っているだなんて。私と如月は、変なところで似ている。今度、聞いてみるか。
春香さんはこちらを振り返ってにっこりと笑った。
「いえもちろん、梓真さんが良い温度感をお持ちなのも理由ですけれど」
「はは、何ですか温度感って。ぬるいとか?」
「ほどよい温かさですよ?」
「そう言われると照れますが、ありがとうございます。春香さんは温かい方ですね」
私が春香さんと話していれば、如月が遮った。
「もー、うどん僕一人で作って食べちゃうよ」
如月が普段から描いている弧は、いつもとは反対に曲がっていた。珍しく曲げた眉と口が、どこか幼く見えた。
ふむ、如月君は少し元気を取り戻しただろうか。
おや……よく見れば怒った顔が春香さんと似ている。初めて如月に可愛さを見出せたかもしれない。ありがとう春香さん。おっと、如月は夏樹さんと呼ばなければ。忘れそうだ。