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C


 頃合いに訪れた私はいつもどおり、廊下の窓を開けた。朝休みだとはいえ、外の空気は既に暑い。今はまだ直接陽の差さない廊下はマシだという程度で、どこにいても感じる「暑い」という感想に大差はない。湿度の高い熱気がゆっくりと、露出した腕や顔や髪にかかって纏わりつくようだった。

 これからまだまだ暑さが続くことを思えば、いつもは気分が沈むものだが、今に限りそれは忘れた。むしろ高揚し、姿の見えた影が近付いてくるのを今か今かと待ち侘びている。

 中庭から来た影に、私は手を上げた。気付いた向こうも手を上げると、小走りになって目の前に来た。到着した彼が鞄を探ってこちらに差し出したのは、保冷袋に入れられたタッパーだった。


「先輩これ、ようできたんで、また食べてください」


 彼特有の関西訛りとともに微笑まれてしまえば、なんとなくこちらも笑顔になってしまう。菓子を貰ったのが嬉しいのはもちろん、彼を見て微笑ましく思う気持ちもきっと私にはあるはずだ。


「うわぁ、ありがとう! 嬉しい」


 私は迷わず笑顔で、タッパーを窓越しに受け取った。見た目に反しこの重量、またも沢山入れてくれたようだ。中を覗けばコーヒーゼリーのように見えたが、彼はコーラゼリーだと説明した。へえ、そんなものもあるのか。

 彼の凛々しく太い眉は一見、厳格な印象を受ける。そして全てを洗い流すかのような涼やかな目元と、引き結んだ小さな口はより、どこか近寄りがたさを持っていた。しかしつまみ上げたような目尻に笑みが灯れば、桜唇が綻びを見せ、見た者の心を射抜いてしまう――。

 ……つまりは、彼は大変私好みなアジアンテイスト美人の青年だということだ。彼が微笑めば、私も微笑んでしまうというものよ。

 彼はどこか照れたように笑った。


「こんなんでええんでしたら、また作ってきますから」

「では早速次のご予定は?」


 私が嬉々として尋ねれば、彼は少し戸惑ったように思案してから答えた。


「え、えーと、そやな……こっからコーヒーゼリーっていうんは流石にレパートリー被ってるしな。……あ。メレンゲクッキーって知ってはります?……いけますか?」

「好きです! 作ってください!」

「へへ。この前見ておもろそうやな、て思て……やってみたかったんです。そしたらまた例のアレ、お願いしときます」

「承知した」


 私が頷けば、彼ははにかんで笑った。そして彼は「失礼します」と軽く頭を下げると、小さく手を上げて帰って行った。私は見送りながらも、菓子を抱えてゲヘヘ……と笑う顔を収められなかった。

 彼とはこうして菓子を受け取る代わりに、如月のレシピをコピーして横流ししている。つまり私は転売だけで利益を得ているのだ。二重に美味しい話である。笑いが止まらぬわ! ハハハ!

 ――と調子に乗っていたからか、背後からの気配に気付けなかった。


「梓真さん、浮気?」


 耳元で響いた声に私は驚きのあまり、思わず声と反対方向へそのまま一歩分飛び退いた。振り返れば悪――……如月が、いた。彼は隣に立つと一度こちらを見て、窓の外を視線で追っていた。整った横顔は、何を考えているのか分かりにくい。

 しかしなぜこの場所がバレたのだろう。いや、努めて隠していたわけではないが、人通りは少ない廊下だ。一年の中村君は教室が遠いから、彼には中庭を横切ってもらうのがそれぞれの最短なのではと考慮して、今の形に至るわけだが。如月がわざわざここを通る用事はないだろう。忙しいはずの生徒会長は職務放棄でもしているのか。

 やがて如月は、冷えた瞳でこちらを見た。私はドキリと心臓が跳ねていた。それは驚いたからか、横流しの一端である現場を目撃された後ろめたさからか。

 小さく深呼吸し、冷静さを取り戻す。彼の質問は検討違いなのだから。私は眉をしかめて言った。


「何を言ってるんだ? 君は」

「さっき『好きです、付き合ってください』って聞こえたけど」


 そのこじつけは、無理がなかろうか。似た響きには思えないが。何とかは盲目とやらか?

 私は一音ずつはっきりと発音した。


「つくってください、だ」

「何を?」

「お菓子を」


 すると如月は明らかに眉間を寄せた。


「僕じゃ不満なの?」


 私は思わず笑った。如月に対し不満があるとすれば、こうして気配を消して現れることだろう。あとは今のようにたまに発想が飛躍しすぎるところだが、自分にも似たようなふしはあるので強くは言えない。

 私は笑ったまま答えた。


「何でそうなるんだ。彼が善意でくれるんだよ」

「じゃあ僕がお菓子も作れば、彼からは受け取らなくなる?」

「君のも受け取るし彼のも受け取る」

「だめ」


 すると如月が私の手にあるものを横奪おうだつしようとしたのが見えたので、私は咄嗟にゼリーを背後へ庇えば、如月は不満そうに顔を歪めた。

 片手でゼリーを背中側に回したまま、私も如月に不満を表した。


「何で君がそんなことに口出しする」


 如月には今、私の強欲をそしる権利はある。しかし理由の不鮮明な禁止事項なら、手続きを踏まぬ限り私は従わない。

 宙に浮いていた如月の手は、私の片手を取った。白い手はどこまでも熱い。私を真剣に突き刺す瞳は、痛点を刺激するようだった。


「僕だけにして」


 強く脈打つ心臓に目を伏せる。

 君がそこまで言うのなら、構わないか。……と一瞬思ってしまったものの、この私が、美味しい話を自ら手放すはずがあるか。己の強欲を取り戻し、私は如月を真っ直ぐに見た。


「嫌だ。この意見に関してゆずる気はない」


 如月はぎゅっと握る手の力を強めると、少し俯いた。握られた手の熱さに鼓動が早まる。そう、夏は熱いものだ。いや、何の話だ。

 とにかく譲る気がないのは彼も同じなようだ。どこに着地点を見出すべきか。

 如月の視線はどこか自信がなさそうで、不安定なようにも見えた。やはり彼にとって夏は相性が悪いんじゃないのか、などと思ってしまう。それとも夏風邪でもひいたか。

 私は如月を覗き込んだ。


「どうした? 君にとって何が不都合なんだ? 私が彼と話すことか? 彼の作ったものを受け取ること、食べること……それとも別の何かか? そしてそれに何を感じて、何が君にとって駄目なんだ?」


 如月の反応は嫉妬だとは思うが、何に対してどう受け取っているのかは、もう少し詳細に把握するべきだ。私の振る舞いにも今後影響するのだし。

 技術への嫉妬か、一人で利を得る私への不満か。横流しの発覚を恐れて一人で中村スウィ〜ツを満喫していたが、如月の口を封じる分を確保するべきか。

 如月は笑みのない顔でこちらを見つめた。


「話すのも、食べるのも、全部気に入らない」

「どうして?」

「梓真さんにその気はなくても、向こうは違うと思うよ。そんなの、わざわざ作って渡してくるなんて」


 私は数回瞬いた。

 彼とはただの利害関係なのだが……。つまり如月は、中村君の行動に、私に対する恋情か何かが含まれていると判断しているということか。いや、利害関係を知らなければそう見えてもおかしくはない、か。

 するとふと思い付いたように思考が進んだ。そう判断するということは、如月自身は「何かを作って渡す」という行為には、僅かであれ好意が含まれているものだと認識しているということだ。

 そんな如月は『わざわざ作って渡してくる』に該当する行動を、飽きもせず毎日(おこな)っている。わざわざ朝からあの弁当を作って、私に与えている。休日だって羽山邸に来たときは、昼ご飯を作ってくれる。私が体調を崩したときは要望に忠実に、それでなくとも普段からバランスを考えつつ私の好みそうなものを大抵……。

 ということはあの弁当は――そもそも「料理を作り、与える」という行為は如月にとっての『愛情表現』ということ、か。まあ如月に限らず、料理を作り与えるなんてことは愛情の代名詞にも近い。もともと労力のかかることだ、それも……そうか。だから如月はそれほどに、その相手のことを思っていて、そしてその相手はといえば――。

 分かってはいるつもりだったけれど。どこか、分かりたくなかったことでもあった。目を逸らしてきた事実を目の当たりにすると、羞恥が内側から競り上がってくる感覚に襲われた。

 すると如月は、覗き込むようにこちらへ顔を近付けた。訝しむ視線が肌に触れる。


「何で顔が赤くなってるの? やっぱり梓真さん本当にあの一年生のこと――」

「ち、違う。待て。落ち着け、深呼吸、深呼吸」


 私の発言は、如月にではなく自分に言い聞かせるようだった。私は手を前に出そうとすると、如月に握られていた手が手首に持ち変えられた。

 どくどくと血流が早くなる。一歩後退するが、あまり距離を取れなかった。如月の握る手は僅かに力が増し、降り注ぐ視線は変わらない。今度は私が包帯を巻く番だろうか。

 私は、如月に見つめられると弱くなってしまった。どれほどの防壁も、きっと熔け落ちてしまうんだろう。彼の奥底でたぎる熱の温度に、私は気付こうとしなかった。その報いが、今になって怒涛に押し寄せてくる。

 如月は私を見つめる。


「じゃあ何」

「ふ、二人きりのときに話そう。さすがに……ちょっと、口に出し辛い。君にとっても、今ここで聞くのは賢明とは言えない」


 私は思わず顔を伏せた。自分でも顔が熱くなっているのは分かる。しかし顔色をコントロールするすべを私は持ち合わせていない。赤面を見られていると思うと余計に熱が出る。何とか髪が私の顔を隠してはくれまいか。

 伏せたまま顔を逸らせば、如月の空いた片手が私の頬に添えられた。変わらない温度は優しくありながら、強制力があった。顔を戻されて、無言の如月と見つめ合わざるを得ない状況に、私はひたすら視線を泳がせていた。じりじりと焦がすような圧力だけは、名前の季節とよく似合う。

 ここでゼリータッパーカウンターをこめかみにヒットさせるべきか。しかし人として良心の呵責があるし、これは借り物だから損傷させるべきでないし、ゼリーを散らしたくなどない。付き合っている身としても、痴話喧嘩で暴力を振るうなど、やはり蛮族である証明に他ならない。

 振り払おうと思えば、いくらでも方法はあるのだ……が。実行できなくなってしまったのは、私の弱みだ。

 泳がせた視界の中に、やがて一条ひとすじの光明を見つけた。


「古賀さん、助けてはくれませんか」


 私は如月の後方に見掛けた人物へ向かって声を掛けた。古賀さんはこちらと目が合うなり顔を歪めたが、私を嫌っているというわけではなく、状況を見て奇妙に感じたようだ。……と、思いたい。

 古賀さんはこちらまで駆け寄ると、如月から私を解放してくれた。私は乾いた声で礼を告げた。すると古賀さんは呆れたように言った。


「何やってるんだよ如月」


 古賀さんは如月を探していたのだろうか。確か同じ生徒会役員だし、色々あるのだろう。夏休みを挟んでしまうから、文化祭の準備も増えてきているようだし。朝からとは、ご苦労なことだ。

 如月は珍しく冷めた目を古賀さんにも向けて、小さく溜め息をついた。如月は極力笑っていない顔は他人に見せないようにしていると思っていたが……素を見せられる相手がいることは良いことだ。

 私は一応如月を擁護した。


「すみません古賀さん。非は私にあるのですが、少々込み入っておりまして」

「だとしても良くない。非力な女子をあんな風に掴むなんて」


 ヒ、ヒリキ……。

 古賀さんの発言は、私を助けると同時に少し衝撃をもたらした。古賀さんは通説を言ったのであって、私そのものへの評価を断じたのではない。と分かってはいても、私は少し落ち込んだ。私が、非力……。

 実際に手を合わせたことがないから正確には分からないが、如月との戦闘力はほぼ互角な気がするんだよな。校内や出会った当初はそれなりに隙が少なかったし。今でも気配は消してくるし。普段の振る舞いから見て何かしらの基礎があるのは確実だろう。

 ちなみに近頃は羽山邸などでの如月には隙を感じるが、ふとしたとき変に力が入っているようにも感じる。つまり油断しているのに何かに警戒している、という矛盾を持つ。もはや矛盾と親友である如月君に、面倒だからわざわざ指摘したりもしないのだけれど。

 とにかく私はもっと鍛えるとするか。鍛えて損はない。それに如月の料理に加えて中村君の菓子も加われば、カロリーは容赦なく私に襲いかかる。生活習慣病になる前に、健康維持のために、筋肉は必要だ。筋肉は私を救う。筋肉イズ正義。

 私が『筋肉』という満点の結論を出している間に、古賀さんと如月は話を終えたようだった。そして古賀さんが如月を引っ張り始めた。

 勘による予想どおり、如月は古賀さんを手早く振り払った。しかし古賀さんの方も慣れているのか、如月を羽交い締めにして継続した。……仲良いな。

 如月の抗議は聞き届けられ、彼は渋々解放された。すると如月は制服を整えてこちらを見た。慣れたように綺麗な笑みを追加して、わざとらしくゆっくりと喋った。


「あとで、ゆっくり話そう。梓真さん」


 そんな彼を見ていれば、私は自然と笑った。

 何となく、如月も変わったなと思う。正確には如月自身が変わったというよりも、彼の表出した一部を見られることに、私との関係が変わったと感じる。

 そんな後付けも全て含めて、何となく如月を可愛く思えてしまった私は、彼と似たような笑みを返していた。


「そうだな。その選択が最善だ」


 すると古賀さんは驚き、私を小さく指差した。


「え、笑……⁉︎」


 古賀さんが何かを言い終わらないうちに、彼の指先が消えた。如月が古賀さんの人差し指を折り畳んでいた。


「古賀くんが一応仲間である内は、手に掛けるつもりはなかったんだけどね」

「何の話だ?」

「次に梓真さんを指差したら、その付け根を辿った先にある心臓の無事は保証できないよ」

「お前は何を言っているんだ……?」


 古賀さんは困惑を示したまま、如月は笑ってこちらに手を振ってその場を去っていった。私も笑顔で手を振った。

 姿が見えなくなれば、私はニタリと笑う。ようやく厄介払いが済んだ。

 さて、ゼリーということであれば冷たい方が美味しい。ぬるくなる前に食べてしまおう。フフ、どんな味がするのやら。早くしなければ朝休みも終わってしまう。

 一人で食べるのに良い空間はあるだろうか。風があればありがたいが、最上階ならどうだろう。

 ああ、町を見下ろしながらの甘味というのも粋ではないかの? のう、五郎左衛門や。

 ケケケ、と甘味妖怪は笑みを漏らしながらぺたぺたと足音を立てて校舎を一人、菓子を抱えて登っていった。



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