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祖父に貰った土産を抱え電車に揺られながら、私は今日の話を振り返っていた。
竜崎さんは学生時代に、とても苦労していたそうだ。その当時に彼女を助けたのが、独身時代の母だったらしい。
簡単に言えば、母は金銭的な援助をしたようだ。交換条件として、試験に受かれば何かあったときには必ず母の弁護をすること、というものだったらしい。そこで竜崎さんは母に大恩を感じたそうだ。
竜崎さんもどこか私と似たような立場で、けれど私よりももっと苦労をしていそうなことは十分に察せた。つまり竜崎さんにとっての母は、私にとっての羽山さんのようなものだったのだと思う、たぶん。
そして弁護士となった竜崎さんを、母だけでなく祖父も重用したらしい。それからというものずっと、竜崎さんは私にまで親切にしてくれるようだ。
ありがたくもあり、どこか切なくもあった。もしも、まだ母が……――いや、そんな仮定はやめておこう。
思考を切り替えるように、別のことを考えた。
母は竜崎さんに「援助」できる程度にはお金を持っていた。そして私の通帳に遺された金額も、それなりにあった。それに祖父の家、つまり母の実家があの佇まいならば――今更ながらに実感するが――母は裕福な家庭で育っていた。祖父は遺産を狙われるほどなのだから、大金を持っているのに違いはない。
……ならば母は、あれほど働く必要はなかったんじゃないのか。身を粉にして、倒れるほど。
どうして、あのお金をもっと使わなかったのだろうか。
母が苦労すれば、父が元に戻るとでも思っていたのだろうか。それとも、あのお金は母にとって何か特別なもので、手を付けたくなかったのだろうか。
私はつくづく、何も分かっていない。自分のことだけで精一杯で、他の誰かを気遣うことなどできなかった。それは今も、あまり変わりないけれど。
またいつか、祖父や竜崎さんに尋ねてみよう。
それにしても伯父は、祖父に借金を相談することはなかったのだろうか。祖父の人柄であれば、何か力になってくれたようにも思うのだけれど。それとも祖父の、孫に見せる顔と息子に見せる顔はまた、全く違うのだろうか。
伯父にとって祖父は実の親だからこそ、相談しにくかったのだろうか。私にはただ、想像をすることしかできず、実のところは聞かないことには分からない。でも今の私に、知れるようなことではない。
そもそも伯父も、借金であの金額を作るほどなのだから、元々高額なやり取りをする事業だったのだろう。そして咲子さんも、知人に頼み込んで大金をかき集められるのだから、もともと大金を持つような人々との交流が多かった。
つまり花岡の系統には、それなりに裕福な人々が集まっていたのだ。そんな事実がより、遠い世界のことのように感じる。
私は貧乏でも、裕福でもなかった。普通だった。少しだけ苦労をした普通だった。
竜崎さんのように日々の生活に苦しんだことも、花岡家のように大金があるからこその苦労をしたこともない。
ならば私は、本当に恵まれているのだろう。
平々凡々で、むしろ今は羽山さんのおかげで「豊か」と言える暮らしをしている。事件はあったけれど、それももう『過ぎたこと』だ。
私は幸せなのだ。
けれどどうしてこう、涙があふれるのか分からない。幸せだからこそ、なのだろうか。ぼたぼたと落ちる涙を拭いて、電車に揺られていた。
羽山邸の最寄り駅から夕暮れの帰路に就いた。水を含んだ衣を纏ったような足取りで歩いていれば、何となく気分も沈み始めるようだった。
祖父の家で、私は話を聞かせてくれと豪語した。しかし竜崎さんの危惧したとおり、確かに今、私は傷付いているのかもしれない。
――私は、父が殺されたという事実に憤るべきなのだろうか。それとも恐怖や悲しみを覚えるべきなのか。けれど、怒りは湧いてこない。哀れみも、憎しみも、後悔した日々の記憶も、何も。
それは人間として大切な何かが欠落しているのだと、再認識するだけだった。道だと思って歩いていた場所には、何もなかった。見下ろすと、ぽっかりと大きく暗い穴が空いていた。周りを振り返れば、知らず踏み込んだ人は皆落ちていく。重力があるのなら、自分も落ちるはず。だというのに、落ちることはできなかった。
肉体はある。痛みも感じる。飛び跳ねたあとは、同じ位置に戻る。穴に落ちることだけが、うまくできない。
ただ口を開けて待ち受ける、吸い込まれそうな深淵を、どこよりも近い場所で眺めることしかできない。間近に迫る暗黒を、ただ見つめることしかできなかった。
どこまでも広がっていき、誰も通ることができない空間のはずだった。落ちることのできない深い闇の上を、ただ一人歩いていく。この道には、誰もいない。
私は何を間違えたのだろう。どこから間違っていたというのだろう。けれどきっと、答えは出ない。
自分の全てを投げ出したくなった。面倒なのだ、心を煩わせるものの全てが。
けれど思い浮かぶ顔がある。それは親友でも命の恩人でもなかった。
……如月。
始めは訝しんでいた人、あまつさえ嫌っていたこともあった相手を思い出しては、まだ己を手放すべきでないと思う。不思議なものだ。
今では、彼を思い出しては安心してしまう自分がいる。胡散臭かったはずの笑顔を見て、心が温かくなる自分がいた。優しく嬉しそうに笑む顔が、ずっと求めていたものだと知ってから私はもう、握った手を開くことができない。
見上げた場所から垂らされた糸に、誰よりも縋っているのは私だ。
背を押されて、捨てられそうになった命は、いらないと判を押されたも同然だった。当人にさえ、処分項目に入れられた廃品だというのに。
けれどそんな存在を、拾い上げる人がいた。そして、自分のことのように大切に扱う人がいた。
どんなガラクタであれ、後生大事に抱えられては、他人が勝手に捨てるわけにはいかない。そんな風に扱われて、縋らずにいられるほど、私は強くなかった。
誰かや何かに、依存してしまうのが怖かった。依存した末路が、あの人と同じであるのなら。
自立していたかった。自分の足で立っているのだと、信じていたかった。
立っているのが自分の足でなら、自分で歩いていけるはずだから。誰にも干渉されることなく、自分の歩幅で、好きな場所へ、好きな瞬間に、何かを始めて、何かを終えることができる。そんな夢を見ていた。
けれど当の昔に、垂らされた糸に縋っていた。糸の先に括り付けられ、マリオネットのように立たされていただけだった。自覚できていなかっただけだ。
穴へ落ちることがないのはただ、吊るされていたからだった。
「如月……」
私が歩いたアスファルトにだけ、点々と雨が降ったようだった。目元を拭い、前を見た。何度も見た丸い夕陽がぼんやりと浮かんでいた。
空気を詰めた玩具は、糸の上で浮かんでいるだけで、数多の手に求められる。けれどその「糸の上」にいられることを、私はどれほど切望しただろう。捨てられた私とは違う、貴方のようになりたかった。
なれるはずもないのに。夏の太陽みたく、眩しいほどに放つきらめきが、本当は羨ましかった。
貴方のように、誰かに必要とされる存在でありたかった。
輝けるはずはないと知っていた。何かを成すことも、何かに貢献することも。
けれど、そんな存在を、私を、好きだと肯定する人がいた。
一度捨てられた命を、貴方こそが必要としてくれるのだから。私は、どれほどの果報者だろうか。
泣いているはずなのに、彼を思い出せば私は頬が持ち上がった。笑いながら泣いていた。
帰宅して晩ご飯を済ませた頃にふと思い出す。如月は合宿とやらが終わった頃だろうか。目標が確立している姿は少し羨ましい。彼とは明日会う約束をしてはいるが、終わった翌日なのに疲れないのだろうか。
如月は夏休みの間だけ実家近くの予備校とやらに通っているため、今は実家で過ごしながらわざわざ私に会うためにこちらまで来る。変なやつだ。
彼の様子を見ていれば私も勉強せねば……と思うものの、今一つやる気が出ない。具体的な目標がないからだろうな。
翌日私は陽光に照らされながら駅まで向かった。到着予定時刻の少し前に駅へと着いた。やがて現れた如月に手を上げると、気付いた彼は競歩のようにこちらへ近付いた。夏服も様になっている姿がなんとも憎らしい。
会話の届く距離になると、私は笑って言った。
「夏樹さん、ようこそ。君に会いたかった」
さらに両手を広げた私に、如月は目を白黒させた。
「えっあず、いや、えとその、久し振り梓真さん。えっ梓真さん⁉︎ 幻聴――幻覚⁉︎」
如月は見るからに慌てふためいた。頭を抱えるようであり、顔を覆うようでもあった。一週間も経っていないから、久し振りというほどでもないのだが。いや、りっちゃんの論理で言えば『一日会わなきゃ久し振り』なんだったか。
指の隙間から少し見える瞳に、私は思わずハハ、と笑った。
「落ち着け」
「今『会いたかった』って言った?」
「ああ」
「僕に⁉︎」
「そのとおりだ」
「ホンモノ⁉︎ 本物の梓真さん⁉︎」
「失礼な。ほら、幽霊でないことは確かだ」
そう言って私は握手するように、顔から引き剥がした如月の手を握った。
しばらく彼は握られた手を呆然と見つめていたが、やがて私を引き寄せて抱き締めた。……何となく身に覚えのある展開だ。以前より肩の位置が違う気がする。心労で縮んだかな、私は。……なんて。
如月は溜め息混じりに耳元で呟いた。
「今日が僕の命日なのかな、それとも明日かな」
「君が幽霊になるのか。ちゃんと成仏してくれよ」
「一生取り憑く」
「なら私は、君が死んだら真っ先に除霊に行こう」
私が笑って言えば、如月は私を引き離した。掴まれた私の両腕に、如月の指が沈む。彼は不満気に言った。
「梓真さんには寂しさってものはないの」
付き纏う悪霊に対して寂しさを感じろと? いや悪霊と決め付けるのは早計か。そもそも未練を残して彷徨うのは苦しかろう、という親切心からの申し出なのに。
という言い訳も含めて全て冗談であるが。
「君が死んだら寂しいだろうな。だから生きていてくれ」
私はゆっくりと笑った。
如月のしかめっ面は一転、数回瞬いてから目を見開いて、悲しそうに歪んだ。眉根を寄せた彼は、フラフラと頼りない動作で、再び私を抱き締めた。……引き寄せたり離したり、忙しい奴だな。
如月はこの世の終わりとでもいうように、項垂れて盛大に溜め息をついた。
「はぁ〜……。僕はやっぱり今日死ぬのかもしれない」
抱き締められた体にどくどくと、誰かの心音が響いているような気がした。
そろそろあっついんだが……。
私は宥めるように彼の背を叩いて、思い出したように喋った。
「そうだ、君に聞きたいことがある。蕎麦と素麺をもらったんだ。おすすめの調理法があれば、ぜひ聞きたい」
ようやく離れた如月は、私の手を取って言った。
「じゃあ、今日の昼は素麺にしよう。明日が蕎麦。早速買い出しに行こう」
提案には頷いたが、私は疑問を返した。
「エッ、明日も来るのか? 学校は?」
「……僕が来るのに何か不満でも? 今日と明日は休みだよ」
不平を言いたげにこちらをじっと見る如月を見返していれば、私は思わずカラカラと笑いが漏れた。
「ほーん、おつかれ様。そうだ、あの束……食べきれない気がするから、三分の二ほど貰ってくれ」
「蕎麦も素麺も、一年くらいは保つけどなぁ」
「まあまあ、ご遠慮めさるな如月殿。他にも渡したいものがあるゆえな」
「クク、承知いたした」
冗談を真似て笑う如月は、勝手知ったる故郷を案内するかのように、私の手を引いて嬉しそうに歩き出した。今こちらに住んでいるのは私の方だというのに。
糸を引くのが如月なら、そう悪くはないのかもしれない。けれどいつかは自分の足で、ゆっくりでも良いから、歩き出せたのなら。
私は今度こそ、君の隣を歩いていきたい。
だから今はまだ、君にこの糸を引いていてほしい。