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A 3/3


 祖父に貰った土産を抱え電車に揺られながら、私は今日の話を振り返っていた。

 竜崎さんは学生時代に、とても苦労していたそうだ。その当時に彼女を助けたのが、独身時代の母だったらしい。

 簡単に言えば、母は金銭的な援助をしたようだ。交換条件として、試験に受かれば何かあったときには必ず母の弁護をすること、というものだったらしい。そこで竜崎さんは母に大恩を感じたそうだ。

 竜崎さんもどこか私と似たような立場で、けれど私よりももっと苦労をしていそうなことは十分に察せた。つまり竜崎さんにとっての母は、私にとっての羽山さんのようなものだったのだと思う、たぶん。

 そして弁護士となった竜崎さんを、母だけでなく祖父も重用ちょうようしたらしい。それからというものずっと、竜崎さんは私にまで親切にしてくれるようだ。

 ありがたくもあり、どこか切なくもあった。もしも、まだ母が……――いや、そんな仮定はやめておこう。


 思考を切り替えるように、別のことを考えた。

 母は竜崎さんに「援助」できる程度にはお金を持っていた。そして私の通帳に遺された金額も、それなりにあった。それに祖父の家、つまり母の実家があの佇まいならば――今更ながらに実感するが――母は裕福な家庭で育っていた。祖父は遺産を狙われるほどなのだから、大金を持っているのに違いはない。

 ……ならば母は、あれほど働く必要はなかったんじゃないのか。身を粉にして、倒れるほど。

 どうして、あのお金をもっと使わなかったのだろうか。

 母が苦労すれば、父が元に戻るとでも思っていたのだろうか。それとも、あのお金は母にとって何か特別なもので、手を付けたくなかったのだろうか。

 私はつくづく、何も分かっていない。自分のことだけで精一杯で、他の誰かを気遣うことなどできなかった。それは今も、あまり変わりないけれど。

 またいつか、祖父や竜崎さんに尋ねてみよう。


 それにしても伯父は、祖父に借金を相談することはなかったのだろうか。祖父の人柄であれば、何か力になってくれたようにも思うのだけれど。それとも祖父の、孫に見せる顔と息子に見せる顔はまた、全く違うのだろうか。

 伯父にとって祖父は実の親だからこそ、相談しにくかったのだろうか。私にはただ、想像をすることしかできず、実のところは聞かないことには分からない。でも今の私に、知れるようなことではない。

 そもそも伯父も、借金であの金額を作るほどなのだから、元々高額なやり取りをする事業だったのだろう。そして咲子さんも、知人に頼み込んで大金をかき集められるのだから、もともと大金を持つような人々との交流が多かった。

 つまり花岡の系統には、それなりに裕福な人々が集まっていたのだ。そんな事実がより、遠い世界のことのように感じる。

 私は貧乏でも、裕福でもなかった。普通だった。少しだけ苦労をした普通だった。

 竜崎さんのように日々の生活に苦しんだことも、花岡家のように大金があるからこその苦労をしたこともない。

 ならば私は、本当に恵まれているのだろう。

 平々凡々で、むしろ今は羽山さんのおかげで「豊か」と言える暮らしをしている。事件はあったけれど、それももう『過ぎたこと』だ。

 私は幸せなのだ。

 けれどどうしてこう、涙があふれるのか分からない。幸せだからこそ、なのだろうか。ぼたぼたと落ちる涙を拭いて、電車に揺られていた。


 羽山邸の最寄り駅から夕暮れの帰路に就いた。水を含んだ衣を纏ったような足取りで歩いていれば、何となく気分も沈み始めるようだった。

 祖父の家で、私は話を聞かせてくれと豪語した。しかし竜崎さんの危惧したとおり、確かに今、私は傷付いているのかもしれない。

 ――私は、父が殺されたという事実に憤るべきなのだろうか。それとも恐怖や悲しみを覚えるべきなのか。けれど、怒りは湧いてこない。哀れみも、憎しみも、後悔した日々の記憶も、何も。

 それは人間として大切な何かが欠落しているのだと、再認識するだけだった。道だと思って歩いていた場所には、何もなかった。見下ろすと、ぽっかりと大きく暗い穴が空いていた。周りを振り返れば、知らず踏み込んだ人は皆落ちていく。重力があるのなら、自分も落ちるはず。だというのに、落ちることはできなかった。

 肉体はある。痛みも感じる。飛び跳ねたあとは、同じ位置に戻る。穴に落ちることだけが、うまくできない。

 ただ口を開けて待ち受ける、吸い込まれそうな深淵を、どこよりも近い場所で眺めることしかできない。間近に迫る暗黒を、ただ見つめることしかできなかった。

 どこまでも広がっていき、誰も通ることができない空間のはずだった。落ちることのできない深い闇の上を、ただ一人歩いていく。この道には、誰もいない。

 私は何を間違えたのだろう。どこから間違っていたというのだろう。けれどきっと、答えは出ない。

 自分の全てを投げ出したくなった。面倒なのだ、心を煩わせるものの全てが。

 けれど思い浮かぶ顔がある。それは親友りっちゃんでも命の恩人(羽山さん)でもなかった。


 ……如月。


 始めは訝しんでいた人、あまつさえ嫌っていたこともあった相手を思い出しては、まだ己を手放すべきでないと思う。不思議なものだ。

 今では、彼を思い出しては安心してしまう自分がいる。胡散臭かったはずの笑顔を見て、心が温かくなる自分がいた。優しく嬉しそうに笑む顔が、ずっと求めていたものだと知ってから私はもう、握った手を開くことができない。

 見上げた場所から垂らされた糸に、誰よりも縋っているのは私だ。

 背を押されて、捨てられそうになった命は、いらないと判を押されたも同然だった。当人にさえ、処分項目に入れられた廃品だというのに。

 けれどそんな存在を、拾い上げる人がいた。そして、自分のことのように大切に扱う人がいた。

 どんなガラクタであれ、後生大事に抱えられては、他人が勝手に捨てるわけにはいかない。そんな風に扱われて、縋らずにいられるほど、私は強くなかった。

 誰かや何かに、依存してしまうのが怖かった。依存した末路が、あの人と同じであるのなら。

 自立していたかった。自分の足で立っているのだと、信じていたかった。

 立っているのが自分の足でなら、自分で歩いていけるはずだから。誰にも干渉されることなく、自分の歩幅で、好きな場所へ、好きな瞬間に、何かを始めて、何かを終えることができる。そんな夢を見ていた。

 けれど当の昔に、垂らされた糸に縋っていた。糸の先に括り付けられ、マリオネットのように立たされていただけだった。自覚できていなかっただけだ。

 穴へ落ちることがないのはただ、吊るされていたからだった。


「如月……」


 私が歩いたアスファルトにだけ、点々と雨が降ったようだった。目元を拭い、前を見た。何度も見た丸い夕陽がぼんやりと浮かんでいた。

 空気を詰めた玩具は、糸の上で浮かんでいるだけで、数多の手に求められる。けれどその「糸の上」にいられることを、私はどれほど切望しただろう。捨てられた私とは違う、貴方のようになりたかった。

 なれるはずもないのに。夏の太陽みたく、眩しいほどに放つきらめきが、本当は羨ましかった。

 貴方のように、誰かに必要とされる存在でありたかった。

 輝けるはずはないと知っていた。何かを成すことも、何かに貢献することも。

 けれど、そんな存在を、私を、好きだと肯定する人がいた。

 一度捨てられた命を、貴方こそが必要としてくれるのだから。私は、どれほどの果報者だろうか。

 泣いているはずなのに、彼を思い出せば私は頬が持ち上がった。笑いながら泣いていた。


 帰宅して晩ご飯を済ませた頃にふと思い出す。如月は合宿とやらが終わった頃だろうか。目標が確立している姿は少し羨ましい。彼とは明日会う約束をしてはいるが、終わった翌日なのに疲れないのだろうか。

 如月は夏休みの間だけ実家近くの予備校とやらにかよっているため、今は実家で過ごしながらわざわざ私に会うためにこちらまで来る。変なやつだ。

 彼の様子を見ていれば私も勉強せねば……と思うものの、今一つやる気が出ない。具体的な目標がないからだろうな。



 翌日私は陽光に照らされながら駅まで向かった。到着予定時刻の少し前に駅へと着いた。やがて現れた如月に手を上げると、気付いた彼は競歩のようにこちらへ近付いた。夏服も様になっている姿がなんとも憎らしい。

 会話の届く距離になると、私は笑って言った。


「夏樹さん、ようこそ。君に会いたかった」


 さらに両手を広げた私に、如月は目を白黒させた。


「えっあず、いや、えとその、久し振り梓真さん。えっ梓真さん⁉︎ 幻聴――幻覚⁉︎」


 如月は見るからに慌てふためいた。頭を抱えるようであり、顔を覆うようでもあった。一週間も経っていないから、久し振りというほどでもないのだが。いや、りっちゃんの論理で言えば『一日会わなきゃ久し振り』なんだったか。

 指の隙間から少し見える瞳に、私は思わずハハ、と笑った。


「落ち着け」

「今『会いたかった』って言った?」

「ああ」

「僕に⁉︎」

「そのとおりだ」

「ホンモノ⁉︎ 本物の梓真さん⁉︎」

「失礼な。ほら、幽霊でないことは確かだ」


 そう言って私は握手するように、顔から引き剥がした如月の手を握った。

 しばらく彼は握られた手を呆然と見つめていたが、やがて私を引き寄せて抱き締めた。……何となく身に覚えのある展開だ。以前より肩の位置が違う気がする。心労で縮んだかな、私は。……なんて。

 如月は溜め息混じりに耳元で呟いた。


「今日が僕の命日なのかな、それとも明日かな」

「君が幽霊になるのか。ちゃんと成仏してくれよ」

「一生取り憑く」

「なら私は、君が死んだら真っ先に除霊に行こう」


 私が笑って言えば、如月は私を引き離した。掴まれた私の両腕に、如月の指が沈む。彼は不満気に言った。


「梓真さんには寂しさってものはないの」


 付き纏う悪霊に対して寂しさを感じろと? いや悪霊と決め付けるのは早計か。そもそも未練を残して彷徨うのは苦しかろう、という親切心からの申し出なのに。

 という言い訳も含めて全て冗談であるが。


「君が死んだら寂しいだろうな。だから生きていてくれ」


 私はゆっくりと笑った。

 如月のしかめっ面は一転、数回瞬いてから目を見開いて、悲しそうに歪んだ。眉根を寄せた彼は、フラフラと頼りない動作で、再び私を抱き締めた。……引き寄せたり離したり、忙しい奴だな。

 如月はこの世の終わりとでもいうように、項垂れて盛大に溜め息をついた。


「はぁ〜……。僕はやっぱり今日死ぬのかもしれない」


 抱き締められた体にどくどくと、誰かの心音が響いているような気がした。

 そろそろあっついんだが……。

 私は宥めるように彼の背を叩いて、思い出したように喋った。


「そうだ、君に聞きたいことがある。蕎麦と素麺をもらったんだ。おすすめの調理法があれば、ぜひ聞きたい」


 ようやく離れた如月は、私の手を取って言った。


「じゃあ、今日の昼は素麺にしよう。明日が蕎麦。早速買い出しに行こう」


 提案には頷いたが、私は疑問を返した。


「エッ、明日も来るのか? 学校は?」

「……僕が来るのに何か不満でも? 今日と明日は休みだよ」


 不平を言いたげにこちらをじっと見る如月を見返していれば、私は思わずカラカラと笑いが漏れた。


「ほーん、おつかれ様。そうだ、あの束……食べきれない気がするから、三分の二ほど貰ってくれ」

「蕎麦も素麺も、一年くらいはつけどなぁ」

「まあまあ、ご遠慮めさるな如月殿。他にも渡したいものがあるゆえな」

「クク、承知いたした」


 冗談を真似て笑う如月は、勝手知ったる故郷を案内するかのように、私の手を引いて嬉しそうに歩き出した。今こちらに住んでいるのは私の方だというのに。

 糸を引くのが如月なら、そう悪くはないのかもしれない。けれどいつかは自分の足で、ゆっくりでも良いから、歩き出せたのなら。

 私は今度こそ、君の隣を歩いていきたい。

 だから今はまだ、君にこの糸を引いていてほしい。



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