A 1/3
今話から時系列が前後しますが、全て本編終了後の番外編になります
目が覚めると、あまりに無音だったので、世界が停滞したのかと思った。窓の外に意識を向ければ雨なのだと分かる。この静けさが何とも心地良かった。
停滞した朝の支度を終え、お茶を飲みながら机の上で微睡みそうになっていたときに、電子音が軽やかに鳴った。
久し振りに聞いた音がインターホンだったと理解して、緊張が走る。
――誰だ。
如月のはずはない。奴は来ることはない。夏期合宿だと言っていた。誰だ。
モニターに表示されたのは全く見覚えのない人物だが、服装と体勢で荷物を持った配送業者に見えた。不審に思いながらも「はい」と呼び出しに応じれば、「お荷物です」とよくある台詞が返った。そして続く、
「羽山宅の七瀬梓真さん宛に」
という言葉にドキリとして、しばらく鼓動を感じた。考えられるのは如月か、羽山さんか……だが。しかしどちらも絶対に、何かを送ったのなら事前に何か言うはずだ。
不審を胸に宿しながらも「今行きます」と玄関を出て、傘を差し小走りで門まで寄った。外で待つ配達員の人と、門越しに受領手続きを済ませて荷物を受け取った。
「ありがとうございましたー」
軽快に去って行く配達員の姿を確認し、離れていくエンジン音を聞きながら、懐疑の視線を箱に落とした。配達員の彼は普通に持ち運びしていたので、例え爆弾の類いであれ、振動で起爆するものではないだろう。しかし爆弾でなかろうが、不審であることに変わりはない。
伝票を眺めながら玄関まで戻れば、確かにそこには「七瀬梓真」と間違えることなく書いてあった。そして送り主は……花岡、寿俊――。
思わず息を飲んだ。祖父だ。なぜ住所を知っているのかという疑問以前に、祖父の存在を思い出して焦りが生まれる。祖父の存在などすっかり頭から抜け落ちて、引っ越したことを何も告げていなかった。叔父にだけ告げ、後はまるっきり忘れていた。
リビングに戻ると、汚れを払って荷を机の上に置いた。
もしも祖父に会うことがあれば、黙ったまま怒られるような気がしてならなかった。祖父に関する情報が、一つずつ思い出されていった。
気性は激しい方で、怒るときは大音声で怒鳴るらしく、事実母などはよく怒られていたらしい。孫の私にはそこまでの荒さは見せないものの、会うたびにギラギラと大きく見開いた目でこちらへ眼力を注ぎ、長い間無言であることが何よりも恐ろしかった。
そうして幼い私が息をつまらせたころに、ようやく祖父はニクワッ! っと歯を見せるのだった。その顔もまた絵に見る鬼のようで、窒息しかかった。記憶にはないが、私はよく泣いていたらしい。
ぼんやりと覚えている顔でああなのだから、そりゃ当時幼子であった私には怖かっただろう。しかしりっちゃんに鬼と認識されている程度には、私も確実にその血を引いているのかもしれない。
荷物を見ていればやがて、疑問が溢れてきた。なぜ羽山邸の住所を、なぜ荷物を、なぜ私に、なぜ祖父から。
封を解きながら思い起こせば、毎年夏に誰かから母に大きめの段ボールが送られてきていた気がする。……思い出してきた。
その差出人は伯父の名前だったが、本当の送り主は祖父なのだと母は小さく笑っていた。ならばなぜ今回は祖父の名なのだろうか。例年に比べれば大きさは違うが、なんとなく同じ理由のものだと感じた。
しかし……母はいないのだから。祖父が贈る必要はない。それも、連絡を取りもしていない私に、丁寧な包装をしてまで。
箱を開けると中身は蕎麦と素麺だった。
「SOBA&SOMEN……」
思わず呟いた直後には、とりあえず如月に聞こう、と蓋をして箱をキッチンの隅に置いた。以前聞いたうどんのように茹でるだけとは思うが、下手に調理して台無しにしたくないしな~、という言い訳も一緒に重ねておいた。
リビングで再び空になった段ボールの伝票を眺めて決心をする。電話を……するか。
緊張を抱えながら記されていた番号を押して、プルルル、とよくある電子音を二回聞いた。女性の声が聞こえたかと思うと、より緊張して半分ほど自分が何を言っているのか分からなくなったが、途中で切られることはなく、無事祖父に繋がった。
久しぶりに聞いた祖父の芯ある声と独特な音程に、緊張と安堵を抱えながらお礼や世間話や、疑問などについてしばらく話した。
どうやら今までも今回も、祖父に贈られてくるお歳暮のたらい回し先の一つが我が家だったということで、今まではその作業を伯父に頼んでいたようだ。今回は伯父に頼まず、私一人である可能性を考慮して蕎麦と素麺だけにしたらしい。
そして羽山邸の住所に関しては『調べた結果』だそうだ。その情報収集能力は恐ろしい気がしたが、気にしないことにした。
しばらくして祖父は突然、「来い」と言った。それは文字どおり祖父の下へと私が向かう、ということである。
私の脳裏には朧げな鬼の面が浮かび上がった。断れるはずがない。私は二つ返事で承知すると、住所や何やらと必要事項を聞き返していた。
祖父の家は遠い。昼になると、予定外の出費に備え、お金を引き出しに行った。そして通帳を見ると、一瞬混乱した。ゆっくりと確認したが、確かに叔父からの振込金額が今までの半分以下だった。
帰宅すると即座に叔父へ電話をした。今日は珍しく電話をよく掛ける日だ、とぼんやりと思いながら、電話を取ってもらえたことに安堵した。取り立てて叔父に大事はなかったようだ。
少し言い辛そうにしていたが、話を聞くに、叔父の兄――つまり伯父が昨年の年末ごろ、突然「今すぐに二千万で良いから貸してくれ」と言ってきたようだ。叔父にそんな余裕はなく、一時的に私の分から借りた、ということのようだが。一週間で返すと言っていたのに未だに返してこないらしい。
……二千万。叔父の話は色々尋ねたい部分があるが、そもそもそんなことってあるのか?
今まで私に振り込んでいたお金は、叔父の自費だったらしい。しかしそれも苦しくなってきたようで、私に送れる金額が減ったということのようだ。ならばそれが確定した時点で連絡がほしいものだが、その点は羽山邸の連絡先を伝えていなかった私に非があるので言及はできない。ホウレンソウ、ダイジ。
曖昧に返事をしながら通話を切ると、頭の中で散乱した情報を並べ始めた。
叔父は人を騙すような人には見えなかったが、違ったのだろうか。「詐欺師は人を信頼させるのが仕事なんだからな」と言っていたりっちゃんの言葉を思い出した。
しかし母はどちらかといえば正義感は強い方で、その母に信頼され、また母を信頼していた叔父が着服するようにはあまり思えない。口調からも嘘のようには感じられなかったが……。
ならば根本的な問題は伯父の方か。もちろん他人の財産を勝手に横流ししたという点では叔父も大問題なのだが。肉親である伯父を無下にはできなかったのだろう。どうにか助けたい思いからお金を貸してしまった、……ということにしておき。
それにしても何かがきな臭い。
私は迷わず竜崎さんへ人生相談した。
事件にするつもりは毛頭なかったのだが、竜崎さんは明るい声で「徹底的に調査します」とどこか嬉しそうに言った。やり甲斐のある仕事……なんだろうか。
私は事件にしたくないと伝えたが、竜崎さんは「何事も調査は必要です」と言った。調べずに結論を出すのは早計だという旨は理解できるけれども……。
調査費用や諸々を請求するつもりはないが、下心のある慈善事業だ、ということらしい。言い換えれば先行投資、だと。
分かったような、分からないような話だったが、とにかく竜崎さんに丸投げすることにした。彼女の能力が素晴らしいことは事実であるから、私はただ情報の撒き餌をして、あとは引っ掛かるのを待つだけだ。
――誰にも何もないことを祈る。
祖父の元へ向かう当日、指定の駅を降りたところでスーツの女性に迎えられ、さらに流れるように車へ乗せられて驚いた。炎天下を歩くことを思えば非常にありがたいが、恐縮でもあった。
そしてなんとなく見覚えのあるような屋敷に辿り着くと、女性に案内されるまま瓦屋根の付いた門をくぐった。一目見た印象は、緑と茶色で埋められた庭だった。
美しく手入れされた、和風情緒溢れるこの大きな庭を、私は少しだけ知っている。母と二人で手を繋いで、歩いたことがあったのだろう。
並んだ松にとまった蝉の声を聞きながら、大きな敷石の道を進んだ。門の内側は、外より少し涼しい。母の手がいつもひやりとしていたのは、ここで生まれ育ったからなのだと、幼い頃はおかしな納得をした。しかし全く別の場所で育った私も、取られた手に同じく『冷たいね』と微笑まれる。つまり手が冷たいのは遺伝であり、ただの体質だ。末端が冷えやすいだけなのだ。
だというのに、私の手が冷たい理由には、ここで育った母の血が流れているからなのだとも思う、幼い理論を正当化した思考も残っていた。
案内された大きな書斎はガラス張りだったが、室内にはそれほど陽の入らない静かな空間だった。私が部屋に入ると祖父は、しばらくただこちらをじっと見つめた。似たように私も見返しながら、記憶よりも祖父は皺や白髪が増えて輪郭のはっきりとした顔になった、と思ったところで我にかえり、頭を下げて挨拶をした。
すると祖父は歯を剥き出しにして豪快に笑い、私に座るように勧めた。私は籐の椅子に座り、安堵して呼吸を再開したことで、無意識に息を止めていたと気付いた。
それからずっと、祖父の話を聞いていた。
祖父は母の話をした。結婚に反対して、勘当同然の扱いをしてはいたが、本当はいつも気掛かりであったらしい。母からは一切連絡がなかったが、それでも毎年夏に送り続けたのは、祖父なりの不器用な親心だったそうだ。
しかし母が死んでからは、体が弱ったり色々とうまく手がつかなかったようだった。一人娘に先立たれた後悔に、私に対して何も気に掛けてやれなかったと、祖父に頭を下げられた。
祖父の話を聞きながら漠然と感じ取ったのは、父への憎しみがあったからなのでは、という考えだ。父のような相手に嫁ぐことがなければ、母もそう早く死ぬこともなかっただろうと、祖父も思ったに違いない。そして私がいたことも、死期を早めた要因だったことだろう。
しかし私は、祖父にとって孫でもあるので可愛さもあった。だから私だけになった今、ようやく関わりを持とうと思ったのではないか。
祖父がそう語ったわけではないが、言外に滲む感情から見て、それほど予想が外れてもいないと感じた。
すると話の途中で突然思い出したように、祖父は顔をくしゃくしゃにしながら言い放った。
「しっかし、佳清によう似てきたなぁ」
「そう……ですか?」
私は疑問を浮かべた。私の顔は父似だと自認している。性格は母と似ている点も多い気がするが、容姿は似ていると思ったことがない。体型や髪形が似ているのだろうか。
「ああ、ああ。話し方も顔付きも。目は違うが、あとはみんな一緒だわ。ちいさい頃はこんなだった。そっくりよ」
祖父の大仰な笑い声はよく響いた。私は『ちいさい』と形容される背丈でも、年齢でもないと思うのだが、祖父から見れば同じなのだろうなというのは分かった。……出会ったときは「ようこんな大きなって」と言っていたので、やはり精神的な意味だろう。
笑い声が収まった頃に、ノックの音と女性の声が聞こえた。
「失礼します」
なんとなく覚えのある声だ。祖父が入室を許可するとともに、私は扉の方を振り返り見て、思い切り目を見開いた。
「ご無沙汰しております。花岡様。梓真さんも」
その場に立っていたのは、穏やかな笑みを灯した竜崎さんだった。