28-2
目が覚めると、如月は居なかった。如月のことを考えられる余裕がなく、とんでもない迷惑をかけた。彼は大丈夫だろうか。
馬鹿みたいな頭痛は引いたが、余韻のようにまだ小さく頭は痛む。さらに驚くほどの疲労感が全身にあった。ああ、とにかくまた歯を磨いて、顔と手洗いと、それから食器を片付けなければ。と、見れば机も何もなかった。掛け布団の上にいたはずだが、私はちゃんと布団の中にいるし。
もしかして如月がいたのも夢だったのだろうか。とすると、夢にまで見るほど如月のことを考えていたということか? 殊勝なことだ。少女漫画であれば、ちゃんと主人公役を全うできるぞ。ああ晴れて、誰かを愛せる人間に変わった。めでたし、めでたし。
進みの遅い足取りで諸用を済ませ、水と栄養剤を飲もうとリビングへ向かった。あともう一回ほどちゃんと寝たら治りそうだ。そういえば今は何時だ。
リビングは時間設定により電気が点いていて、時計を見ると六時半だった。ガラス戸の向こうは暗い。時間の感覚がぐちゃぐちゃだ。体調が戻ればリセットできると良いのだが。
キッチンへ向かった角で何かにぶつかり、踏ん張る力が出ずにゆっくりと尻餅をついた。後ろについた手も踏ん張りがきかず、またもやゆっくりと後方へ倒れた。床は暖かい。床暖房様々だな。以前の家であれば、いや、そういえば設定を変えなければ……。
「あ、梓真さん! ごめん! 大丈夫⁉︎」
ああ、如月、いたのか。私は大丈夫だという意思を示すために、ひらひらと手を振った。如月がいるということは、あの醜態も幻ではなく、現実に――実際に私がしたことだったということか……?
起き上がる気力がなかったのでそのままくたばっていたのだが、背中と腰に何かが差し込まれて私はいつの間にか上体を起こしていた。前方に感じる塊は、如月だった。よく見なくても如月の顔は至近距離にあった。が、瞬時に如月は遠くに逃げた。なぜか両手を上げ、降参の意を示している。私は脅してなどいないぞ。
「ご、ごめん梓真さん! もうしない!」
「何が……」
「ブッセツマーカーハンニャーハーラー」
如月は唐突に両手を合わせて何かを唱え始めた。浄化する気か、さては私が邪鬼だとでも。私は無意味に片手を前へと突き出した。
「――ま、待て、私は妖怪ではない」
「いや妖怪がいるのは梓真さんにじゃなくて」
「すまなかった。怖い思いをさせたと思う。申し訳なかった」
起こしてもらったはずの上体を前へ倒して、再び土下座をした。懇々と謝った。
「迷惑をかけた。ごめんなさい。痛かったろうし、訳が分からなかったと思う。とんだ災難に合わせた、申し訳ない」
「いやいや、良いから、やめて。もう良いから」
私は顔を上げた。
「……気色悪かったろう?」
「いやむしろご褒――ごめん! すみません!」
如月の方が土下座をした。
「どうして君が謝るんだ」
「修行の至らぬ身です、御容赦ください」
私は少し呆気に取られていたが、いつの間にかくすくすと笑い出していた。笑うと鈍く痛む頭に響く。こんな場所で、二人揃って土下座をし合っているなんて、馬鹿げている。やっぱり私と如月は、馬鹿と馬鹿なんだ。
「じゃあお互い許している、ということで合ってるか?」
「うん。理由は何となく分かるから」
「え?」
「梓真さんじゃなかったんでしょ?」
如月の言った言葉は、単語としては理解できても、内容としては理解できなかった。なぜ私自身よく分かっていない理由を、如月は分かっているのだろう。
あの時の私は確かに私で、私じゃなかったが私だった。行動していたのは紛れもなく私で、その内側にいたのは七瀬梓真と、いつかの私だ。あれは、一つの椅子に二人の人間が腰を下ろしていたような、そんな不自由さがあった。
「でも、あれは私であって」
「とにかく座ろう。椅子にね?」
如月に諭されると、私はただ小さく「はい」と答えて、ゆっくりと机の前にある椅子に座った。
器を変えて、再度赤いスープ――そういえばミネストローネと言っていた――が目の前に置かれた。一見、赤いカレーのようにも見えた。
如月も目の前に座り、今度は同じく食事をするらしい。
私は手を合わせたあと、置かれていたスプーンでスープをすくった。ご飯のように見える白い何かがあった。
「これは?」
「カリフラワー。細く刻んで炒めたもの」
カリフラワーなんて買っていただろうか。
疑問は横に置き、一口食べてみた。なるほど、面白い食感だ。飲み込んで尋ねた。
「どうしてこれを?」
「炊きたてのご飯もにおいが強いから、こっちの方がにおいが少ないかなって」
……本当に、よく考えているな。どうしてそこまで配慮してくれるのだろう。
「はは。君はどこまでも『できるヤツ』なんだな。最高じゃないか」
如月は視線を彷徨わせた後、呟くように言った。
「……調子狂うな……。量産しておこうか……」
何かと最新(私の中では)設備が揃う羽山邸だが、料理器具に関しては最低限しかないため、便利家電はない。つまり遠い昔の言い伝えに聞いた、フードプロセッサーなる伝説の武器はないのだ。微塵切りなどは全て手作業になるはずだが……。
「大変じゃないのか?」
「心頭滅却するには単純作業が一番なんだよ、僕にとっては」
「悟りでも開くのか」
「今後待ち受けるだろう幾多の困難に立ち向かうには、必要なんだよ。……無の心がね」
「へえ。煩悩に溢れた私には無理そうな修羅の道だな」
なぜか如月がむせた。なぜ?
「……え? 梓真さんが?」
驚かれるようなことだろうか。人間が人間である以上、煩悩はあるだろう。詳しくはないが、たぶんそのはず。
「いや、大罪の方かもしれないな。私は怠惰の権化と言っても過言ではない」
「ああ……そっちね……」
如月は額に手を当て遠い目をした。
それから如月もカリフラワー入りミネストローネを食べていた。しばらく他愛ない話をして、如月はなぜか無駄にずっと嬉しそうだった。ご機嫌そうだったので腹の調子を尋ねれば、すぐに治ったらしい。良かった、慰謝料などは請求されなさそうだ。
痛みはほとんど引いたが、食事を終えると諸用を済ませ、私は再びベッドに戻った。如月はまた椅子を持ち出し、ベッドの隣に腰を下ろした。
そして先程の不可解な出来事について、お互いにゆっくりと話した。
「君は何か心当たりがあるのか?」
「うん。僕にも似たような経験がある」
「そ、そうだったのか。ならば話すが……正直変な話だ。あれは君の言うとおり、私ではなかったのかもしれない。あのあと夢も見たような気がする。墓の前で誰かが延々と泣いていた。それは私の墓だった。あれが墓なのかと問われれば断言しにくいのだが『自分の墓である』と認識している感覚だろうか」
「うん」
羽山さんは私をお兄ちゃんだったと言っていた。羽山さんの時代と、自分の感じたものが同じ時代だった確証はないが、自分が成人男性だという感覚はあった。
「泣いているのは君だった。今の君とは見た目が全く違うのだが、それも同じく『同一人物である』との認識だ。けれどその私はその君に泣かれるのが辛かった」
泣いているのは女性だった。何となく以前夢で見たような気がするような……気がする。
「そっか。梓真さんも、か」
「つまり君は知ってたのか? その、過去の……いや未来の……? とにかく、私以前の私を?」
「うん。僕は覚えているよ。思い出したという方が正しいのかもしれないけれど。あなたが凄く好きだったこと。そしてすっごく悲しかったこと。どちらも覚えている。でも梓真さんも記憶があるとは思ってなかった。自分の中だけで分かっていれば良いって、思ってた。だからとっても嬉しい」
「そ……そうか」
にわかには信じ難いことばかりだが、如月が前世という概念を受け入れているのが驚きだ。どちらかというと「何言ってるの」と言いそうなタイプだと思っていた。
前世、ねぇ……。羽山さんの話はそういう話として受け入れたつもりだが、いざ自分に降り掛かると疑念が浮かばないといえば嘘になる。
しかし事実とするなら少女漫画の読み過ぎか。前世も関わりが合ったなど……。
「言ったでしょ。気付いたら好きだったんだ。ずっと。ずっと好きだった。だから今度は、勝手に行かないで。あなたがいなければ、僕は幸せになれない」
如月の切実な願望に、私はただ笑った。
「なら一緒にいよう。君が幸せになれるなら」
「今度一人で決めて一人で行ったら、絶対に次も追い掛けて、勝手にどこかへ行かないように監禁するから」
「こわ……」
「本気だよ」
如月はにっこりと笑った。
「今の流れは冗談だと言うべきところでは」
「僕の冗談はつまらないって言われるから、あんまり言わないようにしてるんだ」
「であればこそ今のは冗談にしておくべきだったな! 君のセンスが一つ磨かれたろうさ」
「逃がさないからね。絶対」
「冗談だよな?」
如月の目はどこまでも真剣だった。やっぱり如月の相手って、疲れルヨウナ……。
「……だめだ、熱が上がりそうだ」
「寝てなきゃ」
優しい声が降り、私を布団の中へ押し込んだ。
私は肩から上を出して如月を見た。
「でも、君一人にでさえそこまで思わせてしまったのだから、やはり私のしたことは罪深かったのだろう」
「……」
「皆を置いて行ってしまったからこそ、今度は家族に置いて行かれた。悲しみを知れと、告げられているようだ」
「――分かってくれたなら、もう充分だよ」
罪を洗い流す声だ。芯のある彼の声が、言葉が、私に赦しを与えた。その事実で、感情の濁流が胸を裂く気がした。
残した人。申し訳なかった。蔑ろにしたかったわけはない。しかし結果として、そうなってしまった。君を悲しませた。笑っていてほしかったのに、泣かせてしまった。ずっと、ずっと泣いていた。
『笑って』。それだけを伝えることができれば、できない自分が、犯した過ちが、君の涙になる。どうしてもそれが心残りで、辛かった。
でも今は、君が目の前にいて、笑う君を見ていられて。そんな世界で生きていけるのならば、これ以上の幸せは私にはない。
「ああ、君がいる」
私は笑って言えば、彼が私の額に口付けた。
私は驚いて如月を凝視した。
「性急にすぎる」
「おでこでも?」
「許可制にしよう」
「恋人なのに?」
「何事も段階というものが必要だ」
「飛び級もあるよ」
「導入してない」
「荒療治だよ」
「治るとでも?」
「慣れたら何とも思わないよ」
「そっちか……ではなくて体調不良につけ込むとは姑息な――」
「ふふ、じゃあおやすみ」
強制終了するように、彼は挨拶をして出て行った。数秒もしない内に、ガンゴガガと鈍く大きな音が届いた。思わず様子を見に行けば、彼が階段の中程で座り込んでいた。
「だ、大丈夫か如月!」
「だい、じょぶ」
「じゃないだろう馬鹿じゃないのか! どこを打った? 足、背中、いや顔か? こんなに真っ赤にして」
私は駆け寄りぺたぺたと彼の体に触れるが、そんな動作で分かるはずはないと、若干残っている冷静な自分が呆れていた。それでも顔を包み込んで、表情を確認する。
僅かに眉が寄せられているので、どこかを打ったのは間違いないだろう。顔がこれほど赤いのだから、顔か、その近く――頭でも打ったかもしれない。
白状するように、如月が呟いた。
「打ったのは足とお尻だよ」
「顔は?」
如月は視線を逸らして、俯きがちに黙りこくった。赤い顔で、閉ざした口は不満げに小さく歪んでいる。返事を待って私も黙って見つめていたが、頬に当てた手が熱を帯びるばかりで、ようやく気付いた。
赤いのは照れていただけか。思わずくすくすと笑って、彼を抱き締めていた。
自分以上に力強く脈打つ鼓動が、体に響く。夏の太陽みたく熱苦しいものが心の奥深く、内側で静かに大樹のように存在している。夏樹さん、君の存在はかけがえのないものだ。
それに気付けたことが、私にとっての救いで、大きな喜びだ。
「……あのね、良くない」
「何が」
「非常によろしくない」
「やっぱり頭を打ったのか?」
美しい顔を覗き込んだ。余計に顔を逸らそうとする。
「その頭が最大限に働いているので現状を保っているんですよ」
「つまり?」
「押し倒しかねない」
「危険だ。落ちるぞ。階段からも真っ当な人生からも」
「だから良くないって言ってるんです、離れてください」
「了解」
如月から即座に離れ、また階段を登って行った。登り切って振り返ると、立ち上がっていた如月に敬礼をして告げた。
「えー、如月君の多大なる貢献に感謝を。では、私は大人しく引き籠りますので、気を付けてお帰りください」
「いや、今日は泊まらせてもらうよ」
「え」
「だって一人で放っておけないし」
「その口で言うのは不純じゃないのか? だいたい、大丈夫だ、ほぼ治まった。寝て起きれば完治だ」
「不確実だよ」
「じゃあ明日はとりあえず私から連絡を入れる。午前中になければ重体と判断してくれて構わない」
「明日と言わずいつでも待ってるよ」
「その無駄な労力は他に使うべきだな」
「梓真さんの為に使うのは全部無駄じゃない」
……敵わないな。
「はは、ありがとうな」
如月はフ、と笑うと階段を降りて行った。
降り切ったところで私はもう一度駆け寄り、その背を強く抱き締めた。
「ありがとう。大好きだから」
如月は背後から見える耳の端まで真っ赤だった。
「……あのねぇ、忠告したそばから」
如月は腹に回した手を引き剥がそうとする。抵抗して、私はより強く抱き締めた。
「これは真っ当なる謝意で、他意はない」
「どう受け取られるかも重要だよ」
「ああ。分かった。これ以上引き留めると、君の方こそ熱が上がりそうだものな」
「梓真さんのそういうところは嫌いだよ」
「ふふん、ありがとう」
歩き出す如月をしばし見送った。姿が消えてまた数秒後、ガゴドンッと鈍い音が遠くで聞こえた。今日だけで、いくつ青痣を作る気だろう。
彼、ちゃんと帰れるんだろうか。