28-1
怠惰を約束された休日の午前中、本来なら私は諸手を挙げて庭を駆け回るほど素晴らしい日々を送るはずだった。
キッチンにて水を一杯飲むと、不快を抱く。コップから僅かに漂う、乾いた水の臭いが不快になる。
これは不調の信号だ。
私は基本的には、コップ一つだけでは食洗機を回さない。水を飲んだだけの場合は、自分で洗って水切りに伏せておく。すると自然に乾燥する。
普段は全く気にならないうえに臭いもしない。けれど体調不良の前兆時は、この「水の乾いたあと」が不快臭として現れる。たぶん、通常より嗅覚が鋭敏になるのだろう。
他にも普段には何も臭わない場所で不快な臭いを感じたりもする。羽山邸内は設備が良いので以前の家よりもマシだが、それでも感じるということは体調が変化している。
つまり私は体調不良になり掛けているのだ。
花の春休み早々に体調不良とは。人に「養生しろ」と言ったそばから自分がコレでは面目が立たない。……養生しよう。
となると、まだ稼働できる間に買い溜めしておかなくては。リュックを持参し、薬局へ向かった。
……何がいるんだろう。体温計と冷却枕、熱冷ましのシート、あとは……何だ。ああ、軽食、手軽に食べられる物と栄養剤か。
とにかく思い当たる物を放り込み、買って帰って来ただけだったが、明らかに普段より疲労感が強い。体全体が重苦しく、気分が悪い。
冷却枕を冷凍庫へ投入するなどの諸用を済ませ、軽く体温を測ったが、やはり平熱だ。昔からそうだ、熱は出ない。分かってはいるが、割り切れない気持ちが浮かぶのもまた事実である。
早く横になろうと思った矢先、電話が鳴った。誰だ――と、思い当たる相手に頭が痛くなるような気がした。
如月の話を聞いた翌日から、毎日如月より電話が掛かってくるようになった。お坊ちゃんなのに暇なのだろうか、とも思うが原因は単純だ。付き合うことになったから……だろうとは思う。しかし「ゆっくり」とは口だけか、性急にすぎる。
毎日はやめろと言わなければ。自分の軽率さに辟易する。やはり体調が万全のときにでも、しっかりと今後の方針に関して話し合わねばなるまい。
電話に出ればやはり相手は如月だった。
「ああ、梓真さん良かった、さっきも掛けたんだけど――」
「用件は」
「その……今日こそはどこか」
「悪いが、体調不良だ。急用でないかぎり数日は掛けてこないでくれ。では」
私は一方的に通話を切った。如月には悪いが、もう話を聞いていられる気分でもなかった。如月の要求への理解を進めたい良心は一握りほどあるものの、酷く頭が痛む。布団、布団……。ああ着替えて、布団……。
溶けゆく意識の中で、お坊ちゃんを殴ったのはやはり不味かっただろうか……と寒気を覚えていた。
微睡みから徐々に覚めると、違和感を感じた。枕の感覚が違うし、冷たい。額にも何かが貼り付いている。時間を確認しようと上体を起こして目を開ければ――
如月がこちらを睨んでいた。
「うわああああ‼︎」
ベッドの隣で、椅子に腰掛けこちらを見ている。妖怪がいる。
「なっ、きさ……なん、なんで」
私が言葉にならない音を発していれば、如月はにっこりと笑って言った。
「思ったより元気そうだね」
「第一声がそれか?」
「そのままそっくり返すよ」
これは、悪い夢だ。頭が痛い。
「……ああ、明晰夢か。嫌だなあ、こんなに生々しい不愉快をもたらすとは」
「失礼だね。これでも心配して駆け付けて看病した相手に言う言葉が不愉快だなんて、さすがに怒るし傷付くよ」
「……ん? ちょっと君、そこで待っていたまえ」
曖昧な頭のまま座っていた人物を部屋に残して、私は手洗いに行ったり歯磨きをしたり顔を洗ったりした。そしてようやく意識が覚醒し始めた。
――あれは本物の如月か?
今はゴミ箱に捨てたが、確かに自分で使った覚えのないシートが額に貼り付いていた。私でないなら、私以外の誰かが使ったのだ。でも誰もいないのに。ホラーだ。
つまりアレは実在する如月で、如月がここにやって来た。不法侵入か? いや、鍵は持っているんだっけか。
……何で来たんだ?
――『心配して駆け付けて、看病した相手』。
ハッ、そうか。……えっ、そうか?
いや、とにかく如月と話さなければ。
私は歩いていたが、心の中では全速力で部屋に戻った。
部屋に戻れば、如月が振り返った。眉を寄せた顔だ。
「もう……梓真さん?」
私はその場で土下座をした。
「すまん、如月! ありがとう」
「もう良いからやめて。そんなことしたら身体冷やすでしょ」
駆け寄った如月は私を起こし、ベッドへと誘導した。されるがままに、私はもう一度布団へ潜り直した。痛む頭の思考は鈍い。買って、放り込んだままであったはずの冷却枕が頭の下にある。これも、如月が?
如月の手が私の額に触れた。いつも温かいと思っていたのは、勘違いだっただろうか。今日の如月は、普通の手だ。
「やっぱりまだ熱いね。どうして剥がしたの?」
如月は優しい温度で問うた。そうか、私の額が熱かったのか。
「顔を洗うのに邪魔だった」
「そっか。体調はどう?」
「そうだな……、頭が痛い。大方、偏頭痛だ。これさえ無ければ多分、体のだるさも消えるはずだ。他は特にない」
「分かった。もう一度新しいのを貼るから、しばらく剥がさないでね」
私は抵抗する気力もなかったので大人しく従っていたが、痛みとともに額が冷え始めると、疑問が湧き出てきた。
まるで熱が出ているように扱われている気がするが、私は大した症状じゃなかったはずだ。
「いや、熱はないんだ。なかったんだよ」
なぜか側にあった体温計を使い、熱を測った。三十六度九分、ほらみろ、熱はない。自慢気に如月へ体温計を手渡せば、如月はふうんと言って、体温計を片付けるばかりだった。
……効果はないようだ。私は疑問を投げた。
「君はどうしてここに居るんだ?」
如月はこちらを睨んで、鼻から小さく溜め息を出した。何となく懐かしいものを感じれば、それは私が常習的に使用していた表情であって、つまりは私のアイデンティティだ。アイデンティティの盗用である。著作権の侵害か、いやそんなものは著作物ではない……。
「電話口で『体調不良だ』とだけ言われて切られたら、何事かと思うでしょ。梓真さんとは電話以外で連絡の取りようがないんだし、他にどういう状況なのか、測りようもないし。大体梓真さんは一人なんだから何かあったら――」
「すまない、すまなかった。私が悪かった」
畳み掛けられる如月の台詞に、私は早々に根を上げた。
ということは、如月は私のたった一言で駆け付けて来た、という……ことか。良いのか、そんなんで。身が保たないんじゃないのか。
「……ごめん。僕もただ心配しただけ。怒りたかったわけじゃなくて、気が気じゃなくて」
それであんなホラー演出に。
「梓真さんが大丈夫そうで、本当に良かった」
如月の、僅かに震える声が身に染みる。どうしてこの人は、ここまで私のことを考えているのだろう。何が、彼をそうさせるのだろう。
「本当に心配だったんだ。また、一人でいってしまうんじゃないかって。だから目を開けてくれたから、もうそれで良い」
また?
基本的に一人だから、何を指しているのか判然としない。例の事件でも、どうして頼らないのかと怒られたっけ。近頃は怒られてばかりのような気がするが、それがどこか懐かしくもあり、心地良い。
いや、本当に、被虐趣味とかではないのだが。
「何か食べられそうなものはある?」
如月がどこまでも優しい声で尋ねてくる。私は鈍い記憶を辿り、上体を起こした。
「ん? 確か軽食と栄養剤を買っていたはずだが」
「じっとしてて。良いから、何が食べられるの?」
如月がそっと私を押し戻した。最早問われたことを考えることしかできない。
「ふむ……においの少ないもの、かな」
「におい?」
「ああ、えーと何だろう、豆腐とかサラダとか」
「うーん冷たいものばかりだね。参考にして調べるけれど、どうしてにおいが?」
「あー……そちらか。酔うんだ、おそらく。あまりににおいが強いと吐き気が誘発される。飛び込んでくる情報量が多いとそうなるんだろう。情報の渋滞と言うべきか」
「へえ」如月は立ち上がった。「じゃあしばらく待ってて。大人しく寝てること。良いね?」
強く言い残し、出て行こうとする如月の、服を掴んだ。
「ありがとう。感謝に堪えない」
私が手を離すと、如月はこくりと頷いて出て行った。その後、遠くでドンと鈍い音が聞こえたような気がしたが、気のせいだろうか。
理解できていない部分もいくらかあるが、それよりも響く頭の痛さと漠然と感じる安心感で、しばらく思考は停止していた。
何分なのか何時間なのか、理解する気もない時間がいくらか経過すると、ノックの音とともに如月が部屋前に訪れた。
「梓真さん?」
「ん」
私は返事をしたが、聞こえていないだろうことは何となく分かった。しかし再び返事をするのも億劫だった。
「入るよ?」
どうぞご自由にお入りくださいと、心の中では滔々とした返事も現実では無音だった。目覚めていると痛覚が響くが、眠れそうにない。
背後で感じる音をただ聞くばかりだった。ドアの開閉音、足音、何か大きなものが床に置かれた音が聞こえ、緩慢に寝返りを打った。少し目を開けると如月が、どこかから引っ張り出した机を置いていた。
「大丈夫?」
問われて、小さく頷いた。如月は笑んで、再び出て行った。如月が笑うと、なぜか安心する。そうだ、この頃は怒らせてばかりだったから、いや、泣かせたんだっけ。違う、睨んでいた。もっと、そう……呆れられたんだ。だから。
再び如月の来た気配を感じて、目を開けた。如月が机の上に盆を乗せた。食器が乗っているのも分かる。
「起きられそう?」
私は返事の代わりに上体を起こした。体温は普通で、頭だけ熱いのなら、きっと頭にだけ血が上っている。ならば上体を起こしていた方が良いはずだ、とは思うのだが頭が重いので、横になっている方が楽だ。
「無臭ってわけにはいかなかったんだけど、たぶん少ないはずだから。食べられそう?」
如月が差し出したのは赤い汁……スープだ。トマトスープだろうか。そういえば少し鼻が詰まってきたような感じもあるので、出されたものから不快になるようなにおいは感じなかった。
私は頷きながら布団から出た。ベッドを椅子にするような形で机と向き合い、合掌しながら如月に頭を下げた。如月は困ったように笑って、何も言わなかった。
「君は……食べないのか」
「え、僕? は良いよ。お腹すいてないし。三時だよ?」
「…………そうか」
三時、か。何とも言えない時間だ。結局私は何時間寝ていたのか。スープを食しながら、「鶏肉も火を通せば云々」と耳に入ってくる話を右から左へ流しては、ぼんやりと考えた。
買い物に行ったのが午前中なのは覚えている。それから眠って、起きてからの時間経過が曖昧だが、多分一時間ほどは過ぎているだろう。少なくとも二時間ほど、大方三時間は寝ていたのかもしれないな。
それにしても如月の料理は染みる。味覚に携わる機能が万全でなくとも幸せだと感じる。うまいなあと思っていれば、全く同じ言葉が聞こえたので、誰かもうまいと言っているのだろう。ああ、毎日こんな食事を得られるのなら、一年中体調不良でいたい。もちろん報酬は払う。どうだろう、君。料理人として雇われるというのは。
完食して手を合わせた後、口走っていたのは私だった。
「君を雇うのに必要なお金はいくらなんだろう。今の状況では無理か……。卒業したら就職して……そしたら何とかなるんだろうか……。でも高収入じゃないと……手取りは……」
「な、何梓真さん大丈夫? もう一回体温はかる?」
私はこくりと頷いて、握らされた体温計を脇に挟んだ。電子音が鳴ると、表示を見た。
「七度二分……平熱の範囲だ」
「いや違うでしょ、いつもの体温は?」
「知らない」
「ええ……」
「今日買ってきた。体温計」
「え、えぇ……」
「綺麗だろ?」
「いやそうじゃなくて」
如月は深い溜め息をついた。表情は曇っている。その表情を見ると、胸がもやもやとする。どこか心の底が掻き毟られるような。
――笑って。
その、一言が。たった一言だけだったのに。伝えられない自分がもどかしくて、狂おしい後悔が――。
「――うッ!」
「梓真さん⁉︎」
猛烈な頭痛がする。何も、何も考えられない、この痛みは何だ。頭を抱えて、後方に倒れた。痛みに、何度も体を捩った。いつの間にか布団の上で横に蹲っていた。
「梓真さん!」
落ちる影を見れば、余計に頭を痛くさせた。こちらを覗き込む顔は不安気に揺れる。思わずその首に腕を回した。もう、そんな顔は見せないでほしい。腕を、強く引き寄せていた。
バランスを崩した如月が、布団に両手をついた。如月のことなど考えられず、ただ自分の頭に響く主張だけを繰り返していた。
「笑って。笑ってくれ。頼む、もう泣かないでくれ。私が悪かった。許してくれ。君が笑っていないことが、何よりの罰だ。もう、許してくれ。お願いだから」
「あ、あず、まさ――」
重さに耐えかね、如月の腕は崩れた。私はともに布団へ背を落とし、如月を抱き止めた。私の片手は彼の頭を抱え、もう片方はその背に回していた。自分の力かと疑うほど、強く如月を抱き締めていた。苦しかろう、と遠くで私が思う。もう既に、自分の意思で体を動かすことはままならなかった。
「笑って。許してくれ。笑って。笑っていてほしい。もう私のために泣くな」
「わ、分かった。泣かない。ほら、笑ってる」
耳に届いた言葉で、ようやく手を離した私に、如月が布団についていた両手を伸ばした。腕の長さだけ離れた如月の顔を、私は両手で包んだ。如月はぎこちなさの残る顔で笑っていた。
その顔に、私は笑った。君が笑ったのなら。もう私に向かって泣かないのなら。それで良い。充分なんだ。君が愛しくてたまらなかった、最後のわがままを、心残りを、ゆるしてくれて。
「ありがとう。愛している」
そこで意識が――私諸共――途切れた。