四十二
――聞き間違いじゃなかっただろうか。
しっかり聞いた。はっきり聞いた。脳内で再生できるということは、ちゃんとこの耳で聞いたからだ。
僕は確かに幻聴ではなく「君と出会えて良かった」と言われた。
もしかして今日が人生最終日だったのか。小林に連絡しておこう、「心臓の機能不全により人生が終わるので探さないでください」と。
……あれ。僕はこんなことを考えるような人間だっただろうか。まるで自分にない感覚が湧いてくるような、不思議な気分だった。
「気付いたよ。私は自分で呪いを掛けていた。君が今言ったものと、逆の過信だ。私が作ったのだから、『うまくなるはずはない』、そう思っていた。私が作るものが、どうしたって美味しくなる道理はないと、そう思っていた。今は、徐々に理解をし始めて、この材料を入れておけばそれなりに良い味が出るだろうと、そう思うこともあった。そうやって、不味い思い込みが少しずつ剥がれていたんだな」
彼女はどこまでも優しく笑った。
「ありがとう、また君に救われた」
柔らかな眦で、彼女は僕を見つめた。
「君が好きだよ、如月。恋愛感情だとか、友情だとか親愛だとかの違いは分からないけれど、私は君が好きだ」
たぶん、僕は口を開けていたのは覚えている。
初めて、本気で――頭が真っ白になった。
「例え今後どうなったとしても、今の時点で、君は私の人生において大切な存在の一人だ」
言葉も、感想も、何もでない。
自分でさえ何を思っているのか、分からなかった。
「だから、ありがとう」
彼女は何でもないことのように、どこまでも穏やかに言った。
彼女の言葉は、
僕は――。
体の内側から見えない熱湯が、奔流となって溢れていくようだった。
自分でも真っ赤になっているんだろうと、無意識で顔を覆っていた。
もう何から言えば良いのか、何も分からなかった。けれど口を開いて、彼女を睨むように見ながら非難していた。
「梓真さんはずるい。僕が梓真さんを好きだと知って、平気でそんなことを言うなんて」
そうだ、僕の言うとおりだ。彼女はずるいのだ。
僕は以前に好きだと言った。だから彼女は「僕が彼女を好き」だと知っているのだ。それなのに恋か愛だか分からないなんて、そんなこと言われても「好きだ」と言われてしまえば、僕は余計に好きになってしまう。
けれど好きだからといって、もうどうなることもないというのに。
それなのに彼女はこれまでになく優しく笑う。まるで愛しいものでも見つめるような目をして、クククと笑った。
「これでも結構、緊張しているんだがな」
「梓真さんは酷い。僕の感情を否定したのに、自分だけそんなことを言うなんて」
「ごめんな、如月。少なからずあの時は動揺していたんだ。好きだよ。君が好き」
何度も言われる単語に、言葉をなくす。
体から力が抜けていくような気がした。
彼女は的確に、相手の弱点を見抜いて刺し貫くようだ。
「もうそれ以上言わないで」
身も心も耐えられそうになかった。これはいっそ地獄の拷問だ。
好きだと言われたって、僕にはもうどうすることもできない。この上なく幸せで、この上なく不幸だ。
僕だってずっと貴女のことが好きで、もうきっと愛してしまっている。恋なんて地獄だ。できないことばかり増えて、やりたいことばかり増えていく。
どんどんと、際限なく欲深くなる。けれど好きであればあるほど、これ以上嫌われたくなくて、何もできない。
貴女が好きだ、梓真さんが好き。
なのに僕は嫌われようとして、彼女を睨んだ。
「僕は梓真さんを利用しようとしたんだ」
「わかってるよ」
「貴女を傷付けた」
「かもしれないな」
「好きになる資格も、好かれる理由もない」
「君に資格があるのか、私が決める。だから話してくれ」
彼女は真っ直ぐに、真剣で僕を差し貫いた。
もう何一つ敵わない。彼女の顔をまともに見られない。
机に突っ伏して、上から頭を抱え込んだ。もうほとんど降参を示しているような姿だ。だというのに彼女は、
「好きな理由は、助けられたというのは大きい」
畳み掛けるようにこちらにトドメを刺そうとする。
「料理ができるのも、憎らしくて羨ましい。きっと根は真面目なところは好感があって、だけど約束を破ったところは嫌い。気配りができるのに、何度も嫌だと言ったことを繰り返したところも嫌いだ」
しかしよく聞けば、嫌いだと言われていた。……あれ?
彼女もその事実に気付いたようで「……あれ」と呟いていた。
腕で隠しながら、少し顔を上げて彼女を見る。彼女は不思議そうに首を傾げていた。
さっきはあんな風に好きだと言っておきながら、次は嫌いだなんて、人の心を弄ぶのも大概にしてほしい。
彼女は正真正銘の悪魔だ。噂どおりの悪魔、いやそれ以上の魔王である。人の心なんて何とも思っていないのかもしれない。怒られて当然だ。暴力はいけないけれど。
彼女は僕の心情などすでに見通しているように、口に出していない疑問への説明をした。
「君には、嫌いなところも沢山ある。だけど好きなところもできてしまった。その総量は拮抗しているけれど、君は大切な人になったんだ。だから」
僕はその言葉で胸が詰まる。
「ごめんなさい、梓真さん」
気付けば僕は口を開いていた。
貴女を傷付けたかったわけじゃない。けれど僕は「そうせざるを得ない」と思って実行したことで傷付けてしまった。
本当は、ずっと。
「君の話を聞かせてくれないか」
彼女は問い掛ける。なぜか僕の目からは涙が落ちていた。
貴女に聞いてもらいたかったのかもしれない。
僕がどんな人間で、何をしたのか。貴女を知りたいと思う以上に、自分を知ってもらいたかったのかもしれない。
僕の罪と過ちを、許してもらいたかった。
「僕も梓真さんが好き」
それは、貴女が好きだから。
彼女は優しく笑った。本当はそんな風に笑う人なのだと、ずっと、ずっと僕は分からなかった。
彼女は四季のように豊かな人なのだ。本当は思ったことが素直に顔に出てしまうほど、豊かな人なのだ。
けれど一人で生きていこうと――、一人にならざるを得なくて、強くあろうとした。その孤高の強さが彼女を支えていた。
これからは例え僅かでも、僕も支えになれたのなら。
僕は笑っていた。笑いながら泣いていたのは、満たされた感情が溢れたからだ。
それから僕は長い話をした。静かに耳を傾ける彼女に、どこまでも長い話をした。
彼女に知ってほしいことの全てを話し終えた頃には、日はとうに沈んでいた。そろそろ帰るべきだと分かってはいるけれど、タイミングを計れない。
彼女は「そうか……」と呟いてからしばらく何も言わず、考えているようだった。やがてこちらを真っ直ぐ見て言った。
「如月。立て」
「え?」
彼女は机の隣を指差した。
「そこに」
「な、なに」
「良いから」
彼女に気圧され、僕は指定の位置に立った。
すると彼女も立ち上がり、こちらへと近付いて来る。彼女はなぜか気迫を纏っていた。僕は質問せずにいられなかった。
「ほんとに何」
「動くな」
真剣に睨まれ――死期を悟った。せめて、死ぬ前に一言両親に――。
彼女は目の前に立つと、顔を逸らした。そして、僕は抱き締められた。
……なんで。
「すまない。私には君に掛けるべき言葉が思い浮かばない。嫌だったら言ってくれ。これは私なりの……その、慰めだと」
彼女はそう言って、僕の背に回した腕をゆっくりと締めていく。力強く抱き締められ、僕は鼓動が強くなった。
柔らかな感触と甘やかな香りに全身を包まれる。僕は梓真さんに抱き締められている……⁉︎
これは、その。非常に不味いのではないか。いろんな意味で。
良くない。非常に良くない。
こんなことをされて、まともで居られると……?
「ア……あの。梓真さん」
「ん? ああ、すまない。苦しかったか」
彼女はそう言ってすぐにあっさりと離れていった。
「……ウン」
いや別にそんなにすぐに離さなくても大丈夫なんだけれども。むしろもうちょっとその――いやいや。いやいや。
すると突然、彼女は僕の両肩に手を置いた。
「ところで如月。私には一つ行使しても許されるはずの権利がある」
「え、なに?」
「覚悟はできたか?」
「え、いや、だから何。覚悟って?」
「私は君を殴る」
「エッ」
「避けるなよ」
「えっ、え?」
そう言って彼女は一歩下がると重心を落とした。構えを取っている。――本気だ。
「待って、待って。暴力は、暴力では、解決しないんじゃないかな」
僕が咄嗟に制止すると、彼女は爽快に笑った。
「はっはっは! 君は馬鹿だな。これは『解決すべき問題』ではなく『行使する権利』だと言ったばかりだが?」
確かに言った、言ったけれども!
殴ると宣言した相手に頬を差し出せるなら、僕は教祖になれる。
「ま、待って。理解。そう、相互に理解する必要はあるでしょう? ど、どういう権利なのか」
彼女は構えをより引き締める。
「君は言った。私は『君が原因で殴られた』のだと。ならば私には殴り返す権利がある。『おあいこ』という概念だ、分かるな?」
「わ、わか、わかるけれど」
「ならばこれ以上の問答は必要ないな。大丈夫だ、私は頬を打たれたりもしたが、腹の一発で済ませてやる。寛大だろう?」
抵抗もできる、が、ここは彼女のために潔く無抵抗に受け止めるべき……だとは思う。けれど。
やはり今日が僕の終焉だった。
父さん、母さん、先立つ不幸をお許しください――。
「う……ウン。もう……ワカッタ……」
僕は瞼を閉じた。
「目は開けておいた方が良い」
それが殴られる前に聞いた最後の言葉だった。目は開いたはずだったが、視界で判断するよりも早く腹部に衝撃を受け、その次には背後に衝撃を受けた。
僕は高い天井を見ている。広い部屋で良かった。こんなことがあっても家具に当たる心配すらないのだから。
――ああ。温かい床だ……。
衝撃の割に腹部はそれほど痛くない。痛いけれども、想像よりは痛くない。しかし待てよ……これは、後々強烈に痛くなる種類のものでは……⁉︎
彼女は僕の隣にしゃがむと、僕の頬に先程猛威を振るった手を添えた。そして柔らかに笑んだ。
「君は、とても頑張ったんだな。これからは、ゆっくり養生してくれ」
今度は頭を殴られたような気分だ。
殴った後に優しくするなんて、家庭内暴力の常套手段だ……。だからこんな手口で、好きだと再認識してはいけない。けれど梓真さんからこんなに優しく見つめられて、労るような言葉を言われるなんて――。
僕はこちらを覗き込む彼女を見つめる。添えられた手の上に自らの手を重ねた。
彼女は不思議そうにこちらを見ていた。
美しい瞳、綺麗な鼻筋、小さく華やかな唇が目の前にある。
「あの」
「なんだ?」
彼女は純粋に聞き返した。
「キスして良いですか」
「え? ダメだろう」
「ですよね」
言った僕自身どうかと思う。殴られた直後にこんなことを言うなんて、まるでそういう嗜好があるみたいだ。
彼女は手を引くと僕の隣に体育座りをして、こちらを見た。
「付き合うのか?」
「え?」
「実は契約書、捨てていないんだ。……忘れていた、というのが事実だけれど」
彼女は前を見た。
「契約を再開という形でも良いし、一から新たな関係性でも良い」
再開だって? あの内容のままで僕が耐えられるわけがない。絶対に無理だ。
僕は痛む上体を起こした。彼女の手を両手で包み、真っ直ぐに彼女を見た。不思議そうにこちらを向いた彼女へ、僕は真剣に告げた。
「改めて、僕と付き合ってください」
彼女は少し驚いた顔のまま、しばらく黙った。そして小さく頷く。
「分かった。つまりその、こ……恋人というものだな」
「うん。キスして良い?」
「え、ダメだ」
「え。どうして」
「逆になぜできると?」
「恋人なのに?」
「性急にすぎる」
彼女は突然立ち上がると、僕の手を握り返して引き上げた。僕はつられて立ち上がった。そして彼女が離そうとする手を、僕は離すまいとしっかり握る。
彼女は手元をじ、と見た後こちらの目をじっと不服そうに見た。
「さあ、坊ちゃんはもう帰る時間だぞ」
「でも……恋人なんだよね?」
僕は微笑みかけた。
彼女はなぜか表情で「しまった」と言っていた。
「……。そうだ」
渋々、といった雰囲気で彼女は頷いた。恋人だと先に確認したのは彼女の方なのに。変な人だ。
けれど『恋人とは恋愛関係にある者を指し、恋愛とは相手に対し愛情を感じていなければならない』と言った彼女が今、自ら名乗り出たのだから。これほど幸せなことがあるんだろうか。録音しておけば良かった。
僕は手を口元に寄せ、彼女を見つめた。
「嬉しい。これからゆっくり深めていこう」
「何を」
「愛を」
「ア…………。アイ……」
彼女は視線だけをぐるぐると回し始めた。僕はより笑みを深める。
「僕がどれだけ梓真さんを好きか、ゆっくり知ってもらうね」
「ス、スキ……」
「好きだよ梓真さん、ずっと」
ずっと前から。これからもずっと。
ようやく捕まえたのだから。絶対に離さない。
彼女の視線はまだ彷徨っていた。
「そ、そうか。君は、私が好きだったのか……」
「え? 何回も言ってるよ?」
「そ……そうだったな。ウン。じゃあ帰りなさい」
「…………。分かった」
僕は渋々頷いた。