表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
100/114

四十二


 ――聞き間違いじゃなかっただろうか。

 しっかり聞いた。はっきり聞いた。脳内で再生できるということは、ちゃんとこの耳で聞いたからだ。

 僕は確かに幻聴ではなく「君と出会えて良かった」と言われた。

 もしかして今日が人生最終日だったのか。小林に連絡しておこう、「心臓の機能不全により人生が終わるので探さないでください」と。

 ……あれ。僕はこんなことを考えるような人間だっただろうか。まるで自分にない感覚が湧いてくるような、不思議な気分だった。


「気付いたよ。私は自分で呪いを掛けていた。君が今言ったものと、逆の過信だ。私が作ったのだから、『うまくなるはずはない』、そう思っていた。私が作るものが、どうしたって美味しくなる道理はないと、そう思っていた。今は、徐々に理解をし始めて、この材料を入れておけばそれなりに良い味が出るだろうと、そう思うこともあった。そうやって、不味い思い込みが少しずつ剥がれていたんだな」


 彼女はどこまでも優しく笑った。


「ありがとう、また君に救われた」


 柔らかなまなじりで、彼女は僕を見つめた。


「君が好きだよ、如月。恋愛感情だとか、友情だとか親愛だとかの違いは分からないけれど、私は君が好きだ」


 たぶん、僕は口を開けていたのは覚えている。

 初めて、本気で――頭が真っ白になった。


「例え今後どうなったとしても、今の時点で、君は私の人生において大切な存在の一人だ」


 言葉も、感想も、何もでない。

 自分でさえ何を思っているのか、分からなかった。


「だから、ありがとう」


 彼女は何でもないことのように、どこまでも穏やかに言った。

 彼女の言葉は、

 僕は――。

 体の内側から見えない熱湯が、奔流となって溢れていくようだった。

 自分でも真っ赤になっているんだろうと、無意識で顔を覆っていた。

 もう何から言えば良いのか、何も分からなかった。けれど口を開いて、彼女を睨むように見ながら非難していた。


「梓真さんはずるい。僕が梓真さんを好きだと知って、平気でそんなことを言うなんて」


 そうだ、僕の言うとおりだ。彼女はずるいのだ。

 僕は以前に好きだと言った。だから彼女は「僕が彼女を好き」だと知っているのだ。それなのに恋か愛だか分からないなんて、そんなこと言われても「好きだ」と言われてしまえば、僕は余計に好きになってしまう。

 けれど好きだからといって、もうどうなることもないというのに。

 それなのに彼女はこれまでになく優しく笑う。まるで愛しいものでも見つめるような目をして、クククと笑った。


「これでも結構、緊張しているんだがな」

「梓真さんは酷い。僕の感情を否定したのに、自分だけそんなことを言うなんて」

「ごめんな、如月。少なからずあの時は動揺していたんだ。好きだよ。君が好き」


 何度も言われる単語に、言葉をなくす。

 体から力が抜けていくような気がした。

 彼女は的確に、相手の弱点を見抜いて刺し貫くようだ。


「もうそれ以上言わないで」


 身も心も耐えられそうになかった。これはいっそ地獄の拷問だ。

 好きだと言われたって、僕にはもうどうすることもできない。この上なく幸せで、この上なく不幸だ。

 僕だってずっと貴女のことが好きで、もうきっと愛してしまっている。恋なんて地獄だ。できないことばかり増えて、やりたいことばかり増えていく。

 どんどんと、際限なく欲深くなる。けれど好きであればあるほど、これ以上嫌われたくなくて、何もできない。

 貴女が好きだ、梓真さんが好き。

 なのに僕は嫌われようとして、彼女を睨んだ。


「僕は梓真さんを利用しようとしたんだ」

「わかってるよ」

「貴女を傷付けた」

「かもしれないな」

「好きになる資格も、好かれる理由もない」

「君に資格があるのか、私が決める。だから話してくれ」


 彼女は真っ直ぐに、真剣で僕を差し貫いた。

 もう何一つ敵わない。彼女の顔をまともに見られない。

 机に突っ伏して、上から頭を抱え込んだ。もうほとんど降参を示しているような姿だ。だというのに彼女は、


「好きな理由は、助けられたというのは大きい」


 畳み掛けるようにこちらにトドメを刺そうとする。


「料理ができるのも、憎らしくて羨ましい。きっと根は真面目なところは好感があって、だけど約束を破ったところは嫌い。気配りができるのに、何度も嫌だと言ったことを繰り返したところも嫌いだ」


 しかしよく聞けば、嫌いだと言われていた。……あれ?

 彼女もその事実に気付いたようで「……あれ」と呟いていた。

 腕で隠しながら、少し顔を上げて彼女を見る。彼女は不思議そうに首を傾げていた。

 さっきはあんな風に好きだと言っておきながら、次は嫌いだなんて、人の心を弄ぶのも大概にしてほしい。

 彼女は正真正銘の悪魔だ。噂どおりの悪魔、いやそれ以上の魔王である。人の心なんて何とも思っていないのかもしれない。怒られて当然だ。暴力はいけないけれど。

 彼女は僕の心情などすでに見通しているように、口に出していない疑問への説明をした。


「君には、嫌いなところも沢山ある。だけど好きなところもできてしまった。その総量は拮抗しているけれど、君は大切な人になったんだ。だから」


 僕はその言葉で胸が詰まる。


「ごめんなさい、梓真さん」


 気付けば僕は口を開いていた。

 貴女を傷付けたかったわけじゃない。けれど僕は「そうせざるを得ない」と思って実行したことで傷付けてしまった。

 本当は、ずっと。


「君の話を聞かせてくれないか」


 彼女は問い掛ける。なぜか僕の目からは涙が落ちていた。

 貴女に聞いてもらいたかったのかもしれない。

 僕がどんな人間で、何をしたのか。貴女を知りたいと思う以上に、自分を知ってもらいたかったのかもしれない。

 僕の罪と過ちを、許してもらいたかった。


「僕も梓真さんが好き」


 それは、貴女が好きだから。

 彼女は優しく笑った。本当はそんな風に笑う人なのだと、ずっと、ずっと僕は分からなかった。

 彼女は四季のように豊かな人なのだ。本当は思ったことが素直に顔に出てしまうほど、豊かな人なのだ。

 けれど一人で生きていこうと――、一人にならざるを得なくて、強くあろうとした。その孤高の強さが彼女を支えていた。

 これからは例え僅かでも、僕も支えになれたのなら。

 僕は笑っていた。笑いながら泣いていたのは、満たされた感情が溢れたからだ。

 それから僕は長い話をした。静かに耳を傾ける彼女に、どこまでも長い話をした。






 彼女に知ってほしいことの全てを話し終えた頃には、日はとうに沈んでいた。そろそろ帰るべきだと分かってはいるけれど、タイミングを計れない。

 彼女は「そうか……」と呟いてからしばらく何も言わず、考えているようだった。やがてこちらを真っ直ぐ見て言った。


「如月。立て」

「え?」


 彼女は机の隣を指差した。


「そこに」

「な、なに」

「良いから」


 彼女に気圧され、僕は指定の位置に立った。

 すると彼女も立ち上がり、こちらへと近付いて来る。彼女はなぜか気迫をまとっていた。僕は質問せずにいられなかった。


「ほんとに何」

「動くな」


 真剣に睨まれ――死期を悟った。せめて、死ぬ前に一言両親に――。

 彼女は目の前に立つと、顔を逸らした。そして、僕は抱き締められた。

 ……なんで。


「すまない。私には君に掛けるべき言葉が思い浮かばない。嫌だったら言ってくれ。これは私なりの……その、慰めだと」


 彼女はそう言って、僕の背に回した腕をゆっくりと締めていく。力強く抱き締められ、僕は鼓動が強くなった。

 柔らかな感触と甘やかな香りに全身を包まれる。僕は梓真さんに(・・・・・)抱き締められている(・・・・・・・・・)……⁉︎

 これは、その。非常に不味いのではないか。いろんな意味で。

 良くない。非常に良くない。

 こんなことをされて、まともで居られると……?


「ア……あの。梓真さん」

「ん? ああ、すまない。苦しかったか」


 彼女はそう言ってすぐにあっさりと離れていった。


「……ウン」


 いや別にそんなにすぐに離さなくても大丈夫なんだけれども。むしろもうちょっとその――いやいや。いやいや。

 すると突然、彼女は僕の両肩に手を置いた。


「ところで如月。私には一つ行使しても許されるはずの権利がある」

「え、なに?」

「覚悟はできたか?」

「え、いや、だから何。覚悟って?」

「私は君を殴る」

「エッ」

「避けるなよ」

「えっ、え?」


 そう言って彼女は一歩下がると重心を落とした。構えを取っている。――本気だ。


「待って、待って。暴力は、暴力では、解決しないんじゃないかな」


 僕が咄嗟に制止すると、彼女は爽快に笑った。


「はっはっは! 君は馬鹿だな。これは『解決すべき問題』ではなく『行使する権利』だと言ったばかりだが?」


 確かに言った、言ったけれども!

 殴ると宣言した相手に頬を差し出せるなら、僕は教祖になれる。


「ま、待って。理解。そう、相互に理解する必要はあるでしょう? ど、どういう権利なのか」


 彼女は構えをより引き締める。


「君は言った。私は『君が原因で殴られた』のだと。ならば私には殴り返す権利がある。『おあいこ』という概念だ、分かるな?」

「わ、わか、わかるけれど」

「ならばこれ以上の問答は必要ないな。大丈夫だ、私は頬を打たれたりもしたが、腹の一発で済ませてやる。寛大だろう?」


 抵抗もできる、が、ここは彼女のために潔く無抵抗に受け止めるべき……だとは思う。けれど。

 やはり今日が僕の終焉だった。

 父さん、母さん、先立つ不幸をお許しください――。


「う……ウン。もう……ワカッタ……」


 僕は瞼を閉じた。


「目は開けておいた方が良い」


 それが殴られる前に聞いた最後の言葉だった。目は開いたはずだったが、視界で判断するよりも早く腹部に衝撃を受け、その次には背後に衝撃を受けた。

 僕は高い天井を見ている。広い部屋で良かった。こんなことがあっても家具に当たる心配すらないのだから。

 ――ああ。温かい床だ……。

 衝撃の割に腹部はそれほど痛くない。痛いけれども、想像よりは痛くない。しかし待てよ……これは、後々強烈に痛くなる種類のものでは……⁉︎

 彼女は僕の隣にしゃがむと、僕の頬に先程猛威を振るった手を添えた。そして柔らかに笑んだ。


「君は、とても頑張ったんだな。これからは、ゆっくり養生してくれ」


 今度は頭を殴られたような気分だ。

 殴った後に優しくするなんて、家庭内暴力の常套手段だ……。だからこんな手口で、好きだと再認識してはいけない。けれど梓真さんからこんなに優しく見つめられて、労るような言葉を言われるなんて――。

 僕はこちらを覗き込む彼女を見つめる。添えられた手の上に自らの手を重ねた。

 彼女は不思議そうにこちらを見ていた。

 美しい瞳、綺麗な鼻筋、小さく華やかな唇が目の前にある。


「あの」

「なんだ?」


 彼女は純粋に聞き返した。


「キスして良いですか」

「え? ダメだろう」

「ですよね」


 言った僕自身どうかと思う。殴られた直後にこんなことを言うなんて、まるでそういう嗜好があるみたいだ。

 彼女は手を引くと僕の隣に体育座りをして、こちらを見た。


「付き合うのか?」

「え?」

「実は契約書、捨てていないんだ。……忘れていた、というのが事実だけれど」


 彼女は前を見た。


「契約を再開という形でも良いし、一から新たな関係性でも良い」


 再開だって? あの内容のままで僕が耐えられるわけがない。絶対に無理だ。

 僕は痛む上体を起こした。彼女の手を両手で包み、真っ直ぐに彼女を見た。不思議そうにこちらを向いた彼女へ、僕は真剣に告げた。


「改めて、僕と付き合ってください」


 彼女は少し驚いた顔のまま、しばらく黙った。そして小さく頷く。


「分かった。つまりその、こ……恋人というものだな」

「うん。キスして良い?」

「え、ダメだ」

「え。どうして」

「逆になぜできると?」

「恋人なのに?」

「性急にすぎる」


 彼女は突然立ち上がると、僕の手を握り返して引き上げた。僕はつられて立ち上がった。そして彼女が離そうとする手を、僕は離すまいとしっかり握る。

 彼女は手元をじ、と見た後こちらの目をじっと不服そうに見た。


「さあ、坊ちゃんはもう帰る時間だぞ」

「でも……恋人なんだよね?」


 僕は微笑みかけた。

 彼女はなぜか表情で「しまった」と言っていた。


「……。そうだ」


 渋々、といった雰囲気で彼女は頷いた。恋人だと先に確認したのは彼女の方なのに。変な人だ。

 けれど『恋人とは恋愛関係にある者を指し、恋愛とは相手に対し愛情を感じていなければならない』と言った彼女が今、自ら名乗り出たのだから。これほど幸せなことがあるんだろうか。録音しておけば良かった。

 僕は手を口元に寄せ、彼女を見つめた。


「嬉しい。これからゆっくり(・・・・)深めていこう」

「何を」

「愛を」

「ア…………。アイ……」


 彼女は視線だけをぐるぐると回し始めた。僕はより笑みを深める。


「僕がどれだけ梓真さんを好きか、ゆっくり知ってもらうね」

「ス、スキ……」

「好きだよ梓真さん、ずっと」


 ずっと前から。これからもずっと。

 ようやく捕まえたのだから。絶対に離さない。

 彼女の視線はまだ彷徨っていた。


「そ、そうか。君は、私が好きだったのか……」

「え? 何回も言ってるよ?」

「そ……そうだったな。ウン。じゃあ帰りなさい」

「…………。分かった」


 僕は渋々頷いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ