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1-1


 冬場だというのに、開け放しにしていた窓をようやく閉めた私は、冷えた体をベッドの上に放り投げた。

 柔らかく暖かな高級布団に身を包まれ、徐々に体温は戻っていった。

 断熱材が使用された壁は、暖房を入れずとも、以前の生活に比べて遥かに過ごしやすい。春の近付いてきたこの頃はむしろ、こうして換気ついでに体を冷やしてから昼寝をするぐらいが丁度良い。

 すぐにでも眠気が来るだろうと思っていたのだが、体を冷やし過ぎたのか、今日はなかなか来そうになかった。




 崖の上にある別荘での暮らしは、今までの人生の中で最高の暮らしだった。

 その別荘は洗練された外観に、広く落ち着いた内装をしていた。整えられた庭に足を運んだり、バルコニーでは冷たい風を受けながら、海や山を眺めた。壮大な空間を前に、時折飲み込まれそうな感覚がしては、それでも飽きずに体が冷え切るまで、ひたすら眺めていたときもあった。

 そんな別荘での充実した冬休みは終わり、新しい高校生活が始まった。期待も不安もあまりなかったが、緊張は少しあった。

 問題なく過ごせば、一年と数ヶ月で終わる高校に興味もなければ、関心もなかった。自分の人生でさえ同様だった。

 ただそのまま、変わることなく日々が過ぎ去ってしまえば、それで良かった。何事もなく、ただ一日を、一年を、一生を終えてしまえば。


 ……そう思っていたのだが。

 当初はバイトをしたり、部活をしたり、当たり障りのない生活が幸せだった。楽しかったことも、嬉しかったこともあった。そのまま何事もなく、終わる予定だった。

 しかし平穏だったはずの高校生活は、徐々に陰りを見せ始めた。不穏の始まりは、いつからだったのか。それはきっと、奴と出会ったからだろう。

 奴――如月夏樹、生徒会長。奴は、変な奴だった。見た目や人気、色んなものを持っていて、料理や勉強、色んなものを知っていた。賢いはずなのに、馬鹿みたいなことを言った。真面目なはずなのに、約束を守らなかった。本当に、わけがわからなかった。

 如月はいつも笑っていた。何を言っても、大抵は笑っていた。時折、険しい顔をした。けれど次に見たときには、また笑っていた。何を考えているのか、分からなかった。

 奴との出会いを重ねることは、真綿で首を絞めるような緩やかな不穏をもたらした。そんな不穏は、この高校に通うことがなければ何もなかったのかもしれない。

 だがそもそもは、ここに住むことになっていなければ、どれも起こらなかった出来事だ。

 考えを巡らせながら、意味もなく天井を見つめていた。両手両足を開いても、まだ余裕のある大きなベッドは、本当に一人用なのかと思いたくなる。あの時頷いていなければ、今私はここにいない。自分では買えないような、こんな布団にくるまることも、こんな広い部屋に住めることもできなかった。豊かな自然の中で、穏やかな日々を過ごすことも。

 だから後悔はしていない。

 後悔はしていない……のだが。


 だが、いつからか。


 それはあの人の提案に頷いた、あの日からもう既に、始まっていたのかもしれない。








 私は地に伏していた。

 消失点まで伸びた道路は、繰り返し擦れ行くタイヤの下で、灰色になった姿を太陽光に晒されていた。両端には同様に伸びた細い白線が、そして自分の真下には等間隔に並んだ太い白線が敷かれていた。

 肌寒さを覚える空気の中、アスファルトに伏した体は、指先一つ動かすのも億劫だった。小動物の目線を体感して、迫り来るタイヤを恐怖と感じながらも、どこか遠い世界のように感じていた。


 ――ああ、こんな風にして、私も死んで行くのか。


 親子揃って事故死とは、馬鹿なものだ。それも日の浅い内に。

 けたたましいクラクションの音を耳の端に入れながら、ぼんやりと自分を嘲笑っていた。


 あ――い……


 何か聞こえた気がしたがよく分からなかった。


 あ――ない……!


 記憶にある音は声だったと、認識する。


 あぶない!


 はっきり、確かに誰かがそう言ったのだと、ようやく分かった。

 アブナイ。……危ない? 誰が? ああ、そうか、私か。道路に伏しているのだから、危なくて当然だ。車にかれるかもしれない。だからクラクションが鳴っていたのだ。


 瞬間、体は宙に浮いた。


 腹に得た鈍い感触は、思い描いていたよりもずっと、――痛くなかった。

 アスファルトに放り出された時の方が痛かった。これが轢かれるという感覚なのだろうか。


 ……いや、私は本当に轢かれたのだろうか?


 疑問は、もたげた顔の前で吹き飛んだ。

 甲高く耳障りなブレーキ音と共に、目の前を先程まで眺めていたタイヤの持ち主、紺の車が通り過ぎて行った。

 後ろへ引き寄せられるように座り込んだまま、車の行く先を眺めていた。結局のところ、一度も止まることはなく、こちらの様子を見るように少し進んだ後、逃げるように彼方へ点となって消えた。


 ……――ですか


 何やらザワザワと周囲が煩く感じる。


「大丈夫ですか!」


 背後から男性が問いかけていた。

 振り返ると自分がその男性を下敷きにしていると気付いた。


「あ、す、すみません……!」


 よたよたと横へ手を付き男性から離れた。


「あっ、無理に動かない方が! 怪我とかないですか? 頭を打ったりとかは?」


 つまりは、車に轢かれることはなかった。この男性が歩道側に引き寄せてくれたのだ。無事も無事。結果として、倒れ込む際、咄嗟に出した手の平や、打ち付けた膝が軽く痛む程度で、本当に何事も無かった。いや、引き寄せられた腹にも少し鈍い感覚はあったか。


「大丈夫、です。手の平が少し痛むぐらいで、それ以外は打ってません。ありがとう、ございます」

「本当ですか? ほんとに? 良かったあ~~!」


 男性は本心からの安堵が見えるように、口調が砕けていた。私の両手を握り、自分のことのように嬉しそうにする男性に、周囲からもホッとした空気が感じられた。

 ふと、辺りを見回すと壁のように人集りが出来ていた。ぎょっとすると同時に恥ずかしさも込み上げてきて、咄嗟に顔を俯けた。

 男性は手を握ったまま、立ち上がった。


「さ、そんなとこ座ってないでさ、立てる?」

「あ……はい」


 数分前まで立っていたのだから、問題なく立てると思った。いや、思っていた。しかし足には上手く力が入らなかった。

 そもそも道路に倒れたのが、足の踏ん張りが利かなかったのが一因であった。だがなぜ倒れそうになったのか……何かに押された気がした。何かだったのか、誰かだったのか――いや、今はよそう。

 彼から手を離し、横のガードパイプに手を掛けた。手の力で何とか立ち上がろうとした、が、手にも力が入らなかった。


「捕まって」


 虚言を見破った男性が、隣へしゃがんだ。これ貰うよ、と肩に通していた鞄を取られ、自分の荷物から更に私の鞄にも腕を通した。私の左手を肩へ回すと、もう一度立ち上がった。


「すみません……」


 男性の力を借りてやっとの事で立ち上がると、少し目眩がした。フラ付いたのか、気遣った男性が右肩を支えてくれ、身長差で不恰好な肩組みのような体勢になった。


「顔色良くないんじゃない? 何処かで休んだ方が良いよ」

「……はい」

「すみません、この辺にカフェってあります?」


 男性が少し声を張って壁に尋ねた。手前に居た数人が指差し答えた。それに習い、男性も顔を向けると、周囲の視線が誘導された。


「ああ、そこですか、ありがとうございます」


 野次馬達は、当事者達の次なる目的を知ることで、その使命を終えた。周囲の壁は意図と潮時を察して、徐々に疎らに散って行った。男性は質問を投げ掛けることで、爽やかに人集りを捌いた。



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