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ヴァルダ~国なき人々~  作者: 神坂彩花
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ミアとレイフィル

 レイフィルは少女が再び眠りに落ちたのを知ると、なんとなく安心して手を離した。動いた拍子に僅かに乱れてしまった布団を綺麗にかけ直してあげると、再び洗面器の冷水にタオルを浸して絞り、額の汗を拭く。呼吸はまた少し落ち着いてきていた。このぶんなら、じきに元気な身体を取り戻してくれるかもしれない。

 そう思うと、僅かに気が緩んだ。レイフィルは立ち上がってベッドの傍を離れる。寝室を出てキッチンへ向かった。独り暮らしのレイフィルの自宅は狭い。集合住宅の一室だった。そこの六階の一部屋を賃料を払って借りている。寝室を出るとすぐにリビングとダイニングを兼ねた少し広めの部屋があって、そこにキッチンとトイレ、バスルームが付属しているだけの間取りだった。せっかく自宅に帰ってきたのだから、この機会に自分も少し休んでから職場に戻ろうかと思う。それでキッチンに立つとケトルに水を入れて湯を沸かし、コーヒーを入れる準備をした。湯が沸く間に壁際のキャビネットに置いたテレビの電源を入れる。そろそろ報道番組が始まる時間だと思ったからだ。普段なら平日のこの時刻に自宅にいることは稀だが、今日はこうして自宅にいるのだから報道を見て少しでも情報収集をしたほうがいいだろう。稀に、報道番組のなかに事件解決の手がかりが映ることがある。

 それでレイフィルは湯が沸くとコーヒーを淹れ、それを飲みながら椅子に座ってテレビを見ていた。報道の時間にはまだ少し早かったようで、画面上にはまだ娯楽番組が映し出されている。寝室に音が漏れて少女が目を覚ましてしまわないよう、音は消して派手な衣装で踊りまわっている出演者の動きを静かに見守った。興味をそそられる番組ではなかったが、退屈しのぎに眺めるには良質な番組だろう。そう思ってカップを口に運びながら番組を終わるまで視聴し、その後に流れてきた幾つかのコマーシャルを眺めると、ようやく報道番組が始まった。アナウンサーの顔が画面に大きく映し出されると、左上に速報、という文字が大きく出る。アナウンサーが緊迫した表情で何か喋っていた。いったい何が起きたのかと、思わず音声を出したくなったが、隣室の少女のことを思い出して躊躇する。どうしたものかと思ったが、しかしその悩みはすぐに解消された。画面の下のほうに字幕が流れてくる。字幕が出るのなら音声は必要ない。音は消したまま、その字幕を凝視した。

 ――犯人が捕まったのか。

 レイフィルは息を呑んだ。字幕には、金融業一家殺害事件の犯人逮捕という文字が出ている。アナウンサーがその字幕に隠れるようにして、硬い表情で何かを喋ると、すぐに映像は切り替わった。レイフィルも捜査で訪れたアルヴァイス一家の邸宅の外観が映し出され、被害者たちの顔写真が映し出される。その後でようやく、逮捕された犯人の顔写真が映し出された。レイフィルは思わず身を乗り出してその写真を見つめていた。まだ若い男だった。二十歳くらいに見える。いや、ひょっとしたらもっと若い人物かもしれなかった。無表情で正面を向いて映っている写真というのは概ね、笑ってポーズを決めている写真よりも老けて見える。ならば、十代ということも充分にありえた。これほどに若い人物が、あのような凶行を起こしていたというのだろうか。意外だった。男は決して凶悪そうには見えない。むしろ痩せていて色白で、いかにも非力そうだった。容貌だけを見れば、優男風にも見える。街を歩いていて、偶然にこの男と会っても、まず警戒心を持つ人間はいないだろう。

 写真に被さるようにして犯人の名前が出てきた。この男はキキというらしい。とは、ずいぶんそっけない名前だった。年齢は二十一歳となっている。職業についての記載はなかった。無職ということだろうか。

 レイフィルはそう思ったが、それ以上の情報をレイフィルがテレビから知ることはできなかった。番組では事件の詳細な情報をアナウンサーの解説で伝えるつもりらしく、字幕にほとんど情報が出てこない。レイフィルは苛立った。これでは自分にはキキとかいう男がいつ捕まったのか分からない。捜査員が見つけたのかそれとも自首してきたのか。それすらも分からなかった。無論、動機など全く分からない。

 苛立って、寝室に音が響かない範囲で小さく音を出し、自分の耳をスピーカーに近づけることで解説を聞こうかとも思ったが、それをする前に目の前のテーブルに置かれた電話が鳴った。反射的にレイフィルは受話器に手を伸ばす。最初のコールが鳴り終わらないうちに受話器を取り上げると応対した。はい、レイフィルです。

「――どうだ?ヴァルダのガキは元気になったか?」

 名乗ると同時に嘲るような声が耳元に聞こえてきた。声の響きで上司のフェリキスだとすぐに分かる。レイフィルは彼の口調になんとなく不快を感じ、極めて事務的に応じた。

「ええ、だいぶ良くなりましたよ。かなり病態は落ち着いてきました。私が独断で動いてご迷惑をおかけしたと思いますので、先にお詫びを申し上げておきます。申し訳ありません。子供の様子はずいぶん落ち着いてきましたので、もう少ししたらまた戻ります。それで、宜しければ私にも詳細をお教え願えませんか?例の金融業一家の殺害事件、犯人が捕まったそうですね」

「なんだ。もう知ってるのか」

 電話の向こうで軽く苦笑するような気配がした。

「それを伝えておこうと思ったから電話したんだがな。――まあ、いい。そのとおりだよ。君が出て行ってすぐ、メリキスが連れてきたんだ。街で見かけて、様子がおかしかったんで尋問しようと思ったらしいんだが、その際に採った指紋を照合したら、そいつの指紋が被害者の邸や身体から採れた犯人の指紋と一致したんだ。まだ否認を続けてはいるが、自白は時間の問題だろう」

 メリキスが。レイフィルはふいに告げられた人物の名に己の記憶を探った。メリキスという名にはレイフィルも覚えがある。去年、警察に入ってきたばかりのまだ二十歳の若者のはずだ。確か、警邏隊に所属して街の見回りなどをしている者で、殺人などの事件の捜査には直接の関わりをもっていない。警邏隊は街を見回りながら泥酔者や迷子の保護や、道案内などを行ういたって暢気で平和な部署だからだ。警邏隊の人間が事件捜査に駆り出されることなどほとんどなく、ゆえに警邏隊は入ってきたばかりの新人を業務に慣らすために入れる部署として扱われることが多かった。そのため警邏隊の者は概ねとても若いから、そのぶん親しみやすいが頼りない者たちの巣窟にもなっている。レイフィルも新人の頃は警邏隊に所属していたことがあった。警邏中に挙動不審な者を見かければ署まで連行して尋問することは多いが、たいていそうした者たちは家出して不良行為に勤しんでいる少年たちだから、説諭して家族に引き渡して終わりということも多い。だからごく稀に麻薬の売人を連れてきてしまったり、街で交通事故の現場に居合わせてしまったとなっただけでも大騒ぎになったりしたものだ。連れてきた人間が大量殺人犯となれば、メリキスは勿論、警邏隊の驚きは尋常のものではなかっただろう。

「――なぜその者はあのような凶行を起こしたのでしょうか?犯人、・・ああ、いえ、被疑者はどんな人物なのです?動機はなんですか?否認を続けているのならば当然、まだ語ってはいないのでしょうが、人物が特定できたのならある程度の見当はついているのではないかと思いますが」

 言いかけて、レイフィルが言葉の不適切さに気づいて慌てて言い直すと、電話の向こうで軽く頷くような気配がした。

「ああ、一応な。動機は、おそらく借金がらみだろう。被疑者はキキとかいう男で、まだ若いが俳優としてそこそこに名のある人物らしい。自分で独立して劇団を立ち上げるために、あのアルヴァイス氏から多額の資金を借りていたんだそうだ。殺したのはその返済義務から逃れるためじゃないか?ありがちな話だが、今のところ、他に接点が見つからないからな」

「金銭の貸し借りぐらいのことが七人も殺す動機になりうるのですか?」

 レイフィルは驚いてしまった。そんな理由であれほどに惨い真似ができるというのが信じ難かった。

「そうだな。それを思うと恐ろしい気もするが、それが常軌を逸する、ということなんだろう」

 フェリキスの言葉は淡々としていた。

「あるいはアルヴァイス氏を何かの弾みで殺してしまって、発覚を恐れるあまりその勢いのまま家族まで襲ったのかもしれん。ま、それについてはそのうち報道の連中が騒ぎ出すから、そのまま家でテレビでも見ているといいだろう。そのへんの憶測は我々より連中のほうが得意だ。今日はもう戻ってこなくてもいいから、ゆっくりしてくれ。どうせもう夕刻だ。何か残した仕事があるなら、明日、早めに来て動いてくれればいい」

 そっけない口調だった。聞きようによっては突き放すようにも聞こえるが、しかしレイフィルはそれがフェリキスの配慮だということに気づいていた。どんなにレイフィルが緊急事態だったと釈明してみせたところで、レイフィルの今日の行動は本来、叱責されて当然のことだ。いくら止められなかったからといっても、私情で上の許可もなしに職務を離れれば、何らかの制裁的な処置が加えられてもおかしくはないし、いま戻ればヴァルダを救助した変人ということで周囲の好奇の視線にさらされて不快な思いをすることになるだろうことも分かりきっている。普通なら、受話器を取り上げるなり怒声が飛び込んできて当たり前だし、フェリキスはレイフィルの心情など構わずに今すぐ戻ることを強要して当たり前なのだ。にもかかわらず今日は戻ってくるなと言い、咎めることもせずレイフィルの問いかけに答えてくれる辺りに彼の配慮が感じられる。明日出勤すれば何らかの咎めがあるかもしれないが、今はとりあえずレイフィルの意を尊重してくれているのだ。フェリキスは決して親切と善意にあふれた上司というわけではないから珍しいことだったが、とくに何も思わずレイフィルは有り難くその配慮を受けた。病気の子供を一人きりにしなくていいというのだから助かる。

 レイフィルはフェリキスに対して了承と礼の言葉を述べると、受話器を戻した。それからテレビに視線を戻すと、すでに例の一家殺害事件の犯人逮捕からは話題が逸れていた。代わりに炎上する住宅の映像が映し出されている。どうやら昨夜、どこかの街で住宅火災が起きたようだった。かなりの大火で、死傷者も出ているらしい。これはこれで大事には違いないが、あの僅かな電話の間にもう伝えるべき情報が尽きるとは意外だった。あのキキとかいう若者は俳優ではなかったのか。俳優といえば有名人のはずだ。そんな人物が凶悪な殺人事件を起こして逮捕されたというのなら、もっと大騒ぎになって長い時間を報道に当てそうなものだが、そこまでするほどの人物ではなかったというのだろうか。それとも単純に、逮捕されたばかりでまだ情報が集まっていないのか。ならば報道が大きくなるのは早くて今日の夜か、さもなければ明日以降だろうか。

 そう思ったが、テレビの電源はそのままにして立ち上がった。これ以上は点けておいても事件の続報は入ってこないかもしれなかったが、万一ということがある。しかし今のところ関連する情報が流れてこないので、レイフィルはカップをキッチンの流しに置くと、再び寝室に戻ることにした。情報が入ってこないのなら子供の様子を見ておくべきと思ったからだが、するとあの少女は目を覚まして、どうにか起き上がろうというかのように身体を動かしていた。ひょっとしたら、先ほどの電話のやり取りで、目を覚ましてしまったのかもしれない。

「もう、起きても大丈夫なのか?」

 声をかけながらベッドに歩み寄り、少女が身を起こすのを助けると、少女はこちらを見上げてきた。まだどこかぼんやりとした目つきをしているが、朦朧としている感じではない。意識は意外にしっかりしているのかもしれない。少女は力ない感じながらも頷いてきた。

「――はい。大丈夫、です・・」

「それなら良かった」

 レイフィルはベッドの傍にしゃがみこんで、少女を支えるようにしながら目線を合わせた。

「ここは私の家だ。君は警察署の非常口の近くに倒れていたんだよ。その時は全然、意識もなくて、すごく心配したんだけど、少しでも元気になれたのなら、良かった。本当はちゃんと病院に連れていって、お医者さんに診てもらわないといけないんだけど、ちょっとそれができなったから大丈夫かなと思っていたんだ。私は医者じゃないし、薬も市販の風邪薬ぐらいしか持ってないから、病人に対してほとんどしてあげられることがないからね」

 できるだけ優しく語りかけたつもりだったが、少女の表情にはなおも怯えのいろが宿ったままだった。少女は最初にレイフィルが刑事だと己の身分を名乗った時と変わらぬ様子を見せており、力ない感じながらも、まるで早くここから逃げたいと、全力で自己主張しているように見える。

「――いえ、休ませて、くれた、だけで充分です。有り難う、ございます」

 それでも少女は掠れたような声で礼の言葉を呟いてきて、レイフィルは思わず微笑み返してしまった。どういたしまして、と言葉を返す。

「礼を言ってもらうほどのことじゃないよ。倒れている人がいたら、助けるのが当たり前だから。――さ、まだ、もうちょっと寝てなさい。大丈夫、私は君が嫌がるようなことはしないから。君のご両親のもとへは、もう少し元気になってから連れていってあげるよ。君はなんていう名前なのかな?」

 レイフィルが少女をベッドに寝かしつけながら問いかけると、少女はミアです、と答えてきた。

「親は、いません。ずっと前に、死にました。たぶん、刑事さんだったら、知ってる、と思います」

 ミアと名乗った少女は、寝かしつけられたベッドの上で、レイフィルをまっすぐに見つめてきた。レイフィルは一瞬だけ、今の言葉を怪訝に思ったものの、微笑み返して頷いてみせる。

「分かった。ミアちゃん、だね」


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