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ヴァルダ~国なき人々~  作者: 神坂彩花
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看病

 ――ったく卑しいのはどっちだよ。

 レイフィルは忌々しい思いを胸の内に呑み込んでしまうと、ベッドに横たわる名も知れぬ少女に視線を向けた。少女はまだ目を閉じているが、呼吸は少し落ち着いてきているように思える。レイフィルが学生時代に学んだうろ覚えの知識と書棚から引っ張り出した一般向けの医学書を参考にとりあえずの応急処置をしただけだから、不安は尽きないが、今はとりあえず深刻な事態には陥っていないように見えた。しかし、安心はできない。そもそも何が原因で少女が病んでいるのか、医者でもないレイフィルでは正確なところが診断できないからだ。

 ――単なる風邪ならいいんだけどな。

 レイフィルは心からそうであってくれと祈っていた。それだったらあまり大きな心配はしなくても大丈夫だろうと思うからだ。単なる風邪なら、温かくして充分に休ませて、何か滋養のあるものでも食べさせてあげればすぐに回復できるだろう。ずっとああして雨に打たれていたのなら、この季節、身体が冷えて風邪のひとつもこじらせて何の不思議もないが、しかし仮にそうだとしても、もしもこのまま悪化させて肺炎でも起こしてしまったらどうしてやればいいのだろうか。そこまでいったら、レイフィルでは満足な治療もしてやることができない。

 ふいに僅かに呻くような声が聞こえてきた。ベッドのなかの少女が苦しそうに喘いでいる。レイフィルは慌てて少女に屈み込み、布団の上から少女の身体をさすりながら声をかけ、様子を見た。未だ目を開ける気配はないが、咳き込んだり嘔吐したりするような様子もない。まるで怖い夢でも見て、魘されているように見えた。レイフィルはそうであってくれと思いながら少女から目を離さないようにし、ベッド脇の小テーブルに置いた洗面器に手を入れる。洗面器のなかには冷水を満たしていた。そこにタオルを入れて冷やし、固く絞ってから少女の額に当てる。寝汗で濡れた少女の小さな額を、そのタオルで軽く拭いてやると、ほんの少しだけ、それで少女が楽に息をついたように見えた。レイフィルも思わず、そのことに安堵の息を落としてしまう。

 まさか今日、自分の家に全く見ず知らずの女の子を連れてきて、看病するようなことになるとは夢にも思っていなかった。レイフィルとて直前までは考えてもみなかったのだ。署内の医者に診せた後は、救急車で病院に運べばそれで良いと思っていた。しかしこうする以外に目の前の少女を助ける手段はなかったのだ。署の医者は彼女を診ることを拒否してきた。ヴァルダは人ではないから診る必要を感じないというのが彼の主張だった。救急車の利用も拒まれた。事情を伏せて電話をすればいちおう車両は来たものの、患者がヴァルダと知ればいかにも迷惑そうな素振りをみせて引き返していった。ヴァルダは人には含まれないのだから、人として助ける義務を持たない。よって人でないものを救急車に乗せることはできないというのが彼らの言い分だった。実際、医者や救急隊の業務に関係した法規の中にも、医療の対象としてヴァルダが含まれないことがしっかりと明記されていることをレイフィルはよく知っている。そのことを持ち出してこられれば、レイフィルとて無理に彼らに救護を要求することはできなかった。しかしだからといって行き倒れた子供をその場に放置しておくことなどできるはずもない。誰も引き取らないのなら自分で面倒をみるしかないと、レイフィルはそれで少女を自宅まで連れ帰ってきた。同僚も上司も、レイフィルが職務をいったん中断してまでも彼女の看病のために自宅に帰ることを止めたりはしなかった。それどころか露骨に誰もがレイフィルのことを変人扱いしてきた。ヴァルダのためにそれほど真剣になるのが理解できないと、あからさまに言ってきた者もいる。レイフィルはそれらの意見は全て無視した。何と言われようと止められないのなら幸いだ。変人と言われようとどうしようと、誰も何もしないのならこの子供は自分が助ける。自分は年端もいかない子供を見捨てるような卑劣な人間には、なるつもりがない。

 ――ヴァルダだからなんだっていうんだ。どうして誰も彼も、こんな子供を見殺しにするようなことができる?

 レイフィルにはそれが信じられなかった。レイフィルの目の前にいる少女は、まだ八つか九つぐらいにしか見えない。本当に小さな子供なのだ。ひょっとしたら体格が普通より小さいだけで、実際にはもう少し年長の子供である可能性もあったが、しかしそれでも小さい子供であることには変わりがない。そんな子供が病を得て、倒れてもなお、必要な治療すら拒否される。そんなことが、あっていいのか。

「――ん・・。おかあ、さん・・」

「気がついたか?大丈夫か?」

 ようやくベッドからレイフィルの待ち望んだ声が聞こえてきた。呻き声でも喘ぎ声でもない、意味のある言葉を口にする声だ。少女が意識を取り戻したことを証明するその声に、レイフィルは再びベッドを覗き込む。先ほどまでは固く閉じていた少女の瞼が、今はうっすらと持ち上がっていた。長い睫毛に遮られた向こうで視線が僅かに泳ぎ、やがてこちらを捉えてくる。レイフィルは安心させるように語りかけた。

「私はレイフィルという者だ。警察に勤めてる、刑事だよ。決して変質者ではないから、安心してほしい。無理かもしれないけど、私は君に害を与えるつもりはないから。これは本当だからね。私は単に、倒れた君を手当てしてあげようと思っただけだから」

 レイフィルはそう言うと、いちおう少女に身分証を見せておこうかと思ったが、しかし少女は、レイフィルがそうするよりも前から警察、という言葉に対して明らかに怯えたような様子をみせ始めていた。まるで逃げようとでもするかのような素振りも見せており、それでレイフィルはできるだけ安心させるように微笑んで、少女の手を握った。そっと額を撫でて優しく話しかける。

「大丈夫だよ。何も怖いことはしないから。もう少し休んでいようね。まだ、熱があるから」

 できるだけ優しく語りかけたつもりだったが、それでも少女の表情からは怯えのいろが消えなかった。無理もないのかもしれない。目が覚めた時、自分の目の前にいたのが両親ではなく知らない男なら誰だって怯えるだろう。ましてや彼女がヴァルダなら、警察に対していい印象はないはずだ。この国の警察はヴァルダを保護の対象とはみなさない。街をヴァルダが歩いていればそれだけで取り締まりの対象にする者さえいる。乞食は治安を乱すというのがこの国の一般的な考え方だからだ。自分を敵視する組織の者が自分を保護しているなど、普通は考えないだろう。

 だからレイフィルとしては少女が自分の言葉を信じてくれることを願うしかなかった。少女の気持ちが分かるから、レイフィルとしてはできるだけ少女を怯えさせないようにしなければならない。それでレイフィルは静かに少女に微笑みかけると、穏やかに少女を見守ることにした。


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