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ヴァルダ~国なき人々~  作者: 神坂彩花
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ミアの日常

 ミアは空になった缶を投げ捨てた。

 足許の湿った泥が音を鳴らす。ミアは缶の行方にはあえて気を向けず、溜息をついて背後の壁に背を預けた。軽い眩暈がする。立ち上がるのも億劫だった。

 眩暈が空腹のせいだということは理解していた。空腹なのに動きまわったせいだろう。今日はまだあの缶に入っていた果物しか口にしていない。その缶だって歩道に店を構えていた露店の店主が、ほんの少し目を離した隙に掠め取ってきたものだ。食物を得るのは容易いことではない。食べ終わったのなら、こんなところで休まずに、すぐまた新たな食物を求めて街を徘徊するか、屑鉄を集めるべきだ。古物商なら、ヴァルダでも相手をしてくれる。拾い集めてきた屑鉄の価値に合うだけの食糧や古着、小銭などを与えてくれるのだ。そのためにも動かないといけない。今はまだ明るくても、急がねばすぐに陽が暮れてしまうだろう。

 そう思っても足は動かなかった。常にないほどの倦怠があった。中途半端に食べ物を口に入れたことでかえって気力が萎えてしまったのだろうか。そんなはずはない、と思う。そもそも充分に食べられる時のほうが稀で、今も身体は満足を伝えてきていないからだ。ならばまさか体調を崩したのだろうか。ふとそう思い、戦慄が走った。そもそも今朝、目覚めた時に頭に重い感じがしたり倦怠感があったりしたのは、寝不足だったのではなくあの時からすでに体調を崩していたからだったのだろうか。そう思い始めると全身に恐怖が満ちてきた。ヴァルダの自分にとって病気は、それがどんなものであったとしても致命的なものになりかねない。病を得ても医者が診てくれるわけでも、安心して眠れる場所があるわけでもないヴァルダは、ちょっとした風邪でも命に係わりかねないからだ。

 湧き上がってきた恐怖に突き動かされるようにしてミアはどうにか自らを奮い立たせ、なんとか立ち上がった。こんなところで動けなくなるわけにはいかない。ここは道だ。表通りを行き交う雑多な人々の視線には留まりにくい路地とはいえ、まがりなりにも道である以上はいつ誰が入ってくるか分からない。意外にこういう路地も人通りがあるものだ。路地に面した建物の裏口から人が出てきたり、表通りから近道をしようという者たちが入ってくることも珍しくない。体調を崩したのなら、彼らに見つかる前にここを去らねばならなかった。病気のヴァルダなど市民にとっては害虫と同じだ。見つかれば、疫病の感染予防という大義名分の下に、その場で殺されかねない。

「げ、ヴァルダだ」

 だが歩を踏み出そうとしたところで、聞き慣れた嘲りの声に足は止まってしまった。思わず眉を顰めたが、背後のその声は無視して再び歩き出すと、ふいに何かが飛んでくる風圧を感じる。咄嗟に避けたため、そのなにかがぶつかることは防げたが、同時に聞こえてきた甲高い哄笑に一気に不快さは増した。

「くっそ、避けやがったな。ヴァルダのくせに」

「きたねー奴、こんなとこにいんじゃねえよ!」

「そうだそうだ。俺たちの綺麗な街を汚すな」

 その声に堪らず振り返ると誰かの足が飛んできた。眩暈のせいで咄嗟の防御が遅れたミアは、その誰かの蹴りをまともに受けてしまった。背後に転倒し、腰を強打する。思わず呻くと、目の前には数人の子供がいた。誰もがミアと同じか、ミアよりは少し大きいくらいの子供たちばかりだ。だがミアとは違い、どの子も身綺麗にしている。いかにも洒落た、清潔そうな衣服を着ていて、髪も綺麗に梳られていた。肌にも汚れひとつない。男の子ばかりだが、後ろのほうには女の子も少なからず交じっていた。誰もがミアに対して、蔑笑を浮かべていることだけが共通している。

「ヴァルダはヴァルダらしく、街の外でごみでも拾ってろよ」

 声とともに再び横から足が出てきた。だが今度は、ミアもおとなしく蹴られはしなかった。突き出されてきた男の子の足を摑み、逆に勢いよく引いて男の子を地面に倒す。それと同時に急いで起き上がると男の子の腹部を踏みつけた。男の子はミアの足下で呻き声を上げた。

 その瞬間、傍らから小さな悲鳴が聞こえてきた。そちらに目を向けると、女の子の一人がこちらに向かって驚きと嫌悪の混じったような表情を浮かべているのが視界に入ってくる。その表情がミアの不快感をさらに増した。思わず地面の泥を摑んでその顔に向けて投げつけると、女の子の顔に泥が命中する。女の子は声を上げて泣き出した。するとまるでその泣き声が合図だったかのように周りにいた他の子供たちが、いっせいにミアに向けて非難の声を浴びせ始めた。

「な、なにしやがんだよ!こんなことしていいと思ってんのか!ヴァルダのくせに!」

「ヴァルダのくせに刃向かってんじゃねえよ!謝れよ!この場で土下座しろよ!」

 口汚いほどの罵倒の言葉の数々が、年端もいかない少年少女たちの口から怒濤のように飛び出してきていた。なんとも達者な口を利く連中だと思う。見た目は子供でも、罵声を上げる能力だけはすでに大人顔負けに成長しているらしかった。ミアは冷ややかにその様子を眺めていた。

 怯むことはなかった。この程度で怯んでいたら、自分のようなヴァルダは生きていけない。だがそれが目の前の悪童連中には面白くなかったようだ。ミアがずっと黙ったまま、泣く様子も逃げる様子も、ましてや土下座する様子もなかったのがよほど気に障ったのか、少年の一人が「なんとか言えよ」とミアに向けて再度、足を繰り出してくる。

 それにミアは不敵に笑ってみせた。同じように足を上げて少年の繰り出してきた足を蹴り払う。すると今度も男の子は呆気なく倒れた。一対一の喧嘩なら、ヴァルダの自分は彼らの数倍は場慣れている。急所を狙って倒れた少年に執拗に攻撃を続けていると、やがて女の子の一人が悲鳴を上げながらどこかに走っていった。それでミアは攻撃の手を止めた。女の子が走っていったのとは反対の方向へと駆ける。あの子はすぐに近辺の大人を連れてこの場に戻ってくるだろう。そうなれば絶対的に不利になるのはミアのほうだ。

 舗装もされておらずごみだらけの路地はミアにもひどく走りにくかったが、どうにか今までいた路地を駆け抜けると、きちんと舗装された道路に出ることができた。そこをさらに走って別の路地へと逃げ込む。舗装された道を走っている間、道行く人々は皆一様にミアに対して嫌悪の表情を浮かべながら、決してミアには触れないようにしていた。付近の人々に意図的に避けられていたおかげで走りやすかったが、今はなぜか人々のその動きが妙に目についた。悔しくて、思わず唇を噛む。

 ――自分が、ヴァルダだから。

 路地から路地へと逃げまわりながら、否応なく認識されてくるその現実を噛みしめる。さっきの悪童連中とのことだって、もしもミアがヴァルダではない普通の子供だったなら、大人たちはきっと、誰が来たとしても子供どうしの単なる喧嘩で終わらせてくれたことだろう。捕まることを恐れる必要なんかないはずだ。しかしミアがヴァルダであれば事情は変わってくる。大人たちは前後の事情など忖度せずに、ヴァルダの子供が市民の子供に暴力を振るったという点だけを重く見て、一方的にヴァルダを弾圧するのだ。これまでだってずっとそうだった。大人たちはヴァルダを排除したくてたまらない思いを抱いている。そのためにきっかけになる出来事があったなら、なんでもいいのだ。

 ――あの日だって、そうだったんだから。

 ミアは何度めかに逃げ込んだ路地で、ようやく足を止めた。止めたというより止めざるをえなかったというほうが正しい。ひどい眩暈がして息が苦しくて、とても立っていられなくなったのだ。倒れこむようにどことも知れない建物の、冷たい外壁に身体を預ける。そのまま崩れるようにその場に座り込んでしまった。必死で呼吸を整えようとしたが、胸の苦しさもいっこうに治まってくれない。

 ――早く、落ち着かないと。

 ひたすらそれだけに意識を集中した。いつまでもこんなところで座り込んでいるわけにはいかない。早く逃げて、どこかに隠れてしまわないといけなかった。そうでないと、またあの悪童連中が追ってくるかもしれなかったし、ミアの存在を見咎めた誰かに追い立てられるかもしれない。安全を手に入れるためには、路上という目立つところでじっとしていることはできないのだ。早く、ここを立ち去らねば。

 そう思っていても足は動かなかった。眩暈はどんどん酷くなっていく。視界も歪んでいるように感じられてきた。なんとしてでも逃げなければという意思と、身体の動きが一致してくれない。そのことに焦れば焦るほど、身体は動いてくれなかった。

 そのときのことだった。ミアの髪に何か冷たいものが当たった。

 なんだろうと思わず頭上に視線を向ける。それと同時に冷たい水が顔に降り注いできた。雨だ。どうやら気づかぬうちにかなり曇っていたらしい。一気にかなりの量が降り注いできた。

 突然の雨にどこかで人々が騒ぐ声が聞こえてきた。だがミアは動かなかった。動けなかったのだ。今の苦しさに比べれば、雨の冷たさなど苦にはならない。

 ――ちょうど、よかったかも。雨が、降ってくれば、誰も自分なんかには、構わないわよね。濡れるし。

 そう思うと、安心感があった。ミアは建物の外壁に身を預けると、そのまましばしの休息をとることにした。


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