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ヴァルダ~国なき人々~  作者: 神坂彩花
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初動捜査

 ――惨いことだ。  

 レイフィルは現場となった家に足を踏み入れると、反射的に口許に手をやってしまった。

「・・凄まじいですね。ここまで酷いの、久々に見ましたよ」

 傍らに立つ同僚のジョアルも、同じように手を口許にやって表情を顰めながら目前に視線を向けている。

 その言葉に頷き、レイフィルは改めて現場をしっかりと観察した。足を踏み入れたところはこの家のエントランスだったが、訪れた来客に己の財力を誇示するかのような華麗で豪奢な装飾も、今や凄惨な色合いの血痕に荒んで見える。そのなかにあって一人の少女がこちらへ向けて腕を伸ばすようにしてうつ伏せに倒れていた。近づくまでもなく絶命しているのが一瞬で分かるほど、彼女は惨憺たる様子をしている。おそらく室内で何者かに襲われた後、ここまで逃げてきたところで犯人に追いつかれて殺害されたのだろう。外へ通じる扉を目前にして絶たれた彼女の無念はいかばかりのものであっただろうか。あと少し、ほんの数歩ぶんを逃げ切れていたら、ひょっとしたらこの少女は助かっていたかもしれない。それぐらいの位置に、彼女は倒れていたからだ。

 遺体の周辺には、硝子の破片が飛び散っていた。そこにまとわりつくようにして、まだ白い液体が光沢を放っている。遺体の第一発見者はこの家にミルクを届けに来た配達人だったかと、レイフィルはそれを見て思い出していた。配達人はいつも通りに早朝にミルクを届けに来たが、応答がないためなんとなく扉のノブに手をかけて、鍵が開いていることに気づいたらしい。それで思わず扉を押し開けて、遺体を見つけた、ということだった。レイフィルは心からその配達人に同情した。なんの予告もなしに突然、これほどに凄惨な光景をみせられたらその驚きは尋常のものではなかっただろう。しかも、その配達人には少なくとも今日一日、その悪夢のような記憶と向き合ってもらわねばならないのだ。第一発見者には訊かねばならないことが、刑事には山ほどあるためだ。

 レイフィルは遺体に哀悼の意を込めて深く目礼すると、ジョアルに彼女の搬出と、エントランスでの捜査の指揮を任せてから家内へと足を踏み入れた。靴を履いたままだったから足は当然、持参した袋で包んでから歩を踏み出す。廊下を歩いて、まずはエントランスから最も近い部屋へと入った。

 入ったところはリビングルームだった。正確にリビングとして使われていたのかどうかは分からなかったが、少なくともリビングのように見えた。テーブルがあってそこを囲うようにソファが並べられているし、テレビもあればステレオもある。壁には絵もかけられていた。どう見ても住人がくつろぐための部屋だったが、しかし今はかなり荒らされており、ソファもテーブルも奔放な形に動いて、飾り棚の置物も全て床に落ちて一部は破損している。明らかに誰かが家探ししたような跡だった。やったのはあの少女を殺した人間だろうか。

 レイフィルはすでにリビングの調査にとりかかっていた同輩から、これまでに判明したことを聞きながら家のなかを見ていった。この家で発見された遺体は、全部で七体に上っていた。年配の男性の遺体が一階奥の書斎で、八歳ぐらいの女児がその隣のピアノ室で、年配の女性と若い男女、それに二歳くらいの幼女が二階の寝室や廊下で、そして先ほどの少女がエントランスで、それぞれに見つかっている。レイフィルは遺体を写した写真を全て見たが、遺体はどれも表情に驚愕や恐怖を留めたまま時を止めていた。誰もが突然に襲われて怯えながらも必死で逃げようとし、逃げ切れなかったことは明白だった。

「この家の主人は、金融業を営んでいたそうです。けっこうな高利貸しで、借り手と揉め事を起こすことも多かったとか。それで恨みを買ったんだと思いますよ」

 レイフィルに状況の説明をしてくれた同僚の刑事は、思うと言いながらもほぼ断定するように言った。レイフィルは意外に思った。

「ずいぶん断定的に言うんだな。何か具体的な根拠でもあるのか?」

「ありませんけど、けっこう家が荒らされてるのに貴重品がそのままですからね。怨恨で間違いないんじゃないですか」

 そう言って同僚刑事のフィリエルは、二階の寝室らしい部屋でドレッサーに視線を向けた。引き出された抽斗からはネックレスなどが覗いている。

「一家を襲ったのが単なる強盗か何かだったら、宝石類を放置して逃げはしないでしょう。ユリィなんか、別の部屋で札束で膨れ上がった財布を見つけたそうですよ。最近の強盗は、換金の難しい骨董や、足のつきやすい宝石にはあえて手をつけない輩も多いみたいですが、強盗ならどんなに用心深くても現金だけは盗んでいくはずですし」

「現金が残ってたのか?」

 レイフィルは驚いた。現金が残っていたのならもはや物盗りの可能性はほとんどない。珍しいことだと思った。なぜなら昨今では物盗りが目的でなくても、怨恨でも、他人を襲った後は犯人が現金を盗んで行くのがほとんど常態となっていたからだ。現金を盗んで行けば警察は強盗による犯行という説をすぐには捨てないし、そうなれば犯人はそのあいだに逃亡のための時間を稼ぐことができる。逆に言えば、現金を盗んで行かなかったら警察は強盗の可能性を最初から考えないということだ。強盗の可能性が除外されてしまえば、その時点で犯人の可能性のある人物はある程度に限定されてくる。つまりそれだけ捕まりやすくなるのだ。七人も殺すほど思い詰めた人間が、その程度のことに考えが及ばなかったとは。

「ええ。だからひょっとしたらけっこう早くに解決するんじゃないですかね、この事件」

 楽観的な言い方だった。だといいがな、とレイフィルはフィリエルに言葉を返し、肩を竦めてみせる。それから再び歩を踏み出して家内を移動していった。次に足を止めたのは一階のピアノ室の前まで来た時だった。フィリエルが室内のほうに視線を向ける。

「ここがピアノ室です。次女のラシュミナちゃんはここで刺し殺されていたんですよ」

 それを聞いてレイフィルは室内に足を向けた。こちらにはもう遺体は残されていなかったが、血痕はやはりまだ生々しく残されている。それを見てふいにレイフィルは疑問を感じた。

「ここの一家が殺害されたのは深夜のことだろう?子供がそんな時間にこんなところで何をしていたんだ?」

 さあ。フィリエルは首を傾げてきた。

「そこまでは私にも分かりませんね。ですが、殺害されたのは、どうやら一階の書斎にいた主人のアルヴァイスさんがいちばん最初だったみたいですから、ラシュミナちゃんは一階でその物音がしたのを聞いて、階下に下りたのかもしれません。それで犯人と鉢合わせてしまったのではないでしょうか?ピアノ室は書斎と繋がっていますから、もしも書斎での物音をこの部屋のものと錯誤したのなら、こちらに入ってきてもおかしくはないですし」

 なるほど。レイフィルはフィリエルの考えに頷いてみせた。

「筋はいちおう通ってるな。それで犯人はピアノ室でラシュミナちゃんを刺し殺した後、二階に駆け上がって残りの家族を殺害していった、のか?」

 フィリエルは頷いた。

「だと思います。ラシュミナちゃんにはかなり抵抗した形跡がありました。おそらく彼女は相当な悲鳴もあげたと思います。二階の家族はすぐに異常に気づいたんじゃないでしょうか。しかし犯人の力のほうが強かったために、こんな悲惨な結果になってしまったんだと思います」

 フィリエルは顔を顰めた。そのことを示すように二階で事切れていた家族の遺体には、どれも激しく抵抗した痕跡があったからだ。二階で見つかったのはアルヴァイスの妻と息子夫婦、それにラシュミナの妹のシェリナだったが、アルヴァイスの妻のローランシアと息子のルディスはともに廊下で、犯人と激しく格闘したらしい。二人の遺体にはその痕跡があちこちに残っていた。ルディスの妻のエミナリアはシェリナを抱いたまま、クローゼットのなかで息絶えていた。おそらく彼女は逃げるより家族を助けるより犯人と争うより、まず真っ先に自分と末娘の生命を守ることだけを考えたのだろう。しかし彼女のそうした決断は、逆に自分と末娘を窮地に陥れることになってしまったはずだ。狭いクローゼットのなかは逃げ場がない。いちど犯人に見つかってしまったら、逃げることもできなかっただろう。もしも彼女が一目散に逃げる道を選んでいたら、ひょっとしたら長女のアミナか彼女たち母子のどちらかは、無事に逃げることができていたかもしれなかった。

 当時のそうした様子が生々しく想起されて、レイフィルも暗澹たる気持ちになった。思わず溜息をついて、室内を見渡す。そしてふと、ピアノ室の窓の向こうが気になった。

「――この部屋のカーテンは、元から開いていたのか?」

 フィリエルは怪訝そうな表情をした。

「ええ。最初から開いていますよ」

「なら、隣の住人が何か目撃していたりしないだろうか?この家はこちら側の家とはあまり間隔が空いていない。カーテンが開いていたなら、隣の人間が何か見はしなかっただろうか?何も見ていなくても、この家で悲鳴があがったのなら隣にも聞こえそうなものだが」

「それはないですね」

 フィリエルが首を振った。

「ユリィがもう付近に聞き込みに行ったんですけど、隣は留守だったそうです。向かいの住人が何日も前に旅装で出て行くのを見たそうですから、たぶんどこかに旅行にでも行ってるんですよ」

「では昨夜、隣には誰もいなかったのか?」

 レイフィルは窓辺から視線を外してフィリエルを振り返った。

「そのようですね。もしも隣が留守でなかったとしたら、事件はもっと早く明らかになっていたかもしれませんが」

 フィリエルは心から残念そうに言った。確かに、もしも昨夜、隣家に住人がいたとしたら、この家で起きた事件に発生と同時に気づけていたかもしれない。そうであったら今頃とっくにこの近辺一帯に検問を布けて、ひょっとしたら犯人だって捕まっていたかもしれないからだ。

 しかしもしものことなど考えても意味がない。レイフィルがせねばならないのは、現場に残された手がかりから犯人の足跡を追うことだ。目撃者がいなくても捜査はできる。レイフィルはそのまま踵を返すとピアノ室を出た。そしてさらなる手がかりを求めて家内の各所を歩きまわった。


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