いるはずのない従業員
「――ユリィ、ユリィ、聞こえるか?」
身体を揺すられる感触がして、ユリスティアは意識を取り戻した。
重い瞼を押し上げ、まだ霞んだようにしか見えない視界のなかで自分を覗き込んでくる誰かの顔を眺める。目を凝らすと、その誰かはレイフィルだとすぐに分かった。どうしてレイフィルが自分を起こそうとしているのだろうと心の隅で怪訝に思い、そしてはっとしてその場に起き上がった。急いで立ち上がろうとして体勢を崩す。どうやら今まで相当に不安定な姿勢で意識を失っていたようだ。それだけでなく、ひどく頭が痛かった。眩暈もする。なんとか立ち上がったが、足許がふらついた。
――私、眠ってたの?なんて無用心な・・。
ユリスティアは自分自身を叱った。今の状況で眠るなんて迂闊にも程がある。ミアに何かあったらどうするつもりなのか。
「ユリィ、ミアちゃんはどこに行った?」
思わぬ自分の失態を悔やんでいると、急に緊迫した声で問い質された。そちらに顔を向ける。ただならぬ気配を放つレイフィルにミアちゃんならまだそこで寝ているはずと答えようとしたが、ユリスティアの言葉は途中で止まってしまった。
「――ミアちゃん、は、どこ・・?」
ユリスティアは呆然としてしまった。ミアを寝かせたはずのベッドには誰の姿もない。確かに寝ていたという痕跡だけは残っているものの、誰もいなかった。室内にも、彼女の姿は見えない。咄嗟に浴室にも駆け込んでみたが、そこにも誰もいなかった。
「ミアちゃんはどこに行ったの?」
「それを聞きたいのは私のほうだ。彼女はどこに行った?」
ユリスティアは頭を振った。問い詰められても、自分にも全く分からなかった。彼女は確かに自分がベッドに寝かせたはずだ。彼女を寝かしつけて、自分は眠ってしまうわけにはいかないから窓辺の椅子に戻って、でもそれからしばらくして自分も眠気を感じて・・。
それ以降のことを自分が全く覚えていないことにユリスティアは愕然とした。おそらくその眠気に必死で抗っているうちに、それに負けて意識を失ったのだ。そして目が覚めた時には、レイフィルが目の前にいて、ミアがいなくなっていた・・。
「――どうして・・」
気がついたらユリスティアの口から自然に言葉が漏れていた。
「どうしていないの?ミアちゃんは、私が確かにこのベッドに寝かせたはずなのに・・」
ユリスティアの言葉は室内の静寂に溶けて消えていった。レイフィルはしばらくのあいだ無言だったが、やがて何かを考えるようにしながら言葉を紡いできた。
「――私はこの部屋の電話が、いつまで経っても話し中のままだったから、不審に思って来たんだ。外から呼んでも応答がなかったんで、フロントに頼んで鍵を開けてもらった。ユリィが私のところ以外に、このホテルでそんなに長電話をする相手を持っているとも思えなかったから、何かあったのじゃないかと思ってね」
「電話が、話し中?」
ユリスティアは首を傾げた。なんのことだろうかと思った。ユリスティアはレイフィル以外に、この部屋から電話をかけた覚えなどない。そもそもホテルの電話は内線電話だ。フロントと他の客室以外へ電話をかけることなどできるはずがなく、ユリスティアはレイフィルとフィリエル以外にこのホテルの宿泊客に知人を持たない。フロントには電話をかけた覚えがない。ならばレイフィルが電話をかけて、この部屋の電話が話し中になどなっているはずがない。いったいどういうことだろうかとユリスティアのほうも不審に思った。電話機のほうに視線を向けてみる。そして違和感に気がついた。
そちらに歩み寄ってみる。電話機を改めて眺めると、受話器がきちんと電話機に載せられていなかった。中途半端な形で引っかかってはいるものの、正しい位置に置かれていない。これでは確かに、電話はずっと話し中のままだっただろう。受話器が上がった状態なのだから。しかしユリスティアは、こんなふうに受話器を置いたりしない。
「――これ、ミアちゃんが・・?」
自然にそう思えた。受話器をこんなふうに置いたのは彼女だと。子供で、しかもヴァルダの彼女が、電話など使い慣れているとは思えないし、ユリスティアも電話の使い方を教えたりはしていない。すると、もしも彼女が電話の使い方を満足に知らないまま電話を受けたとしたら、こんなふうに受話器を置いても不思議はないのではないか。
「レイフィルさん。もしかしてフィリエルが、この部屋に電話をかけてないですか?それに、ミアちゃんが出たんじゃ、そして・・」
「かけてない。フィリエルは一度も電話は使ってないぞ。あいつが電話でミアちゃんを連れ出したなら、彼女がどこに行ったかなんてわざわざユリィに訊くわけなかろうが」
言い切る前に否定され、ユリスティアは血の気が引くのを感じた。
「・・なら、誰が電話をかけてきたの?」
フィリエルは電話をかけていない。レイフィルが電話をかけた時にはすでに受話器がこの状態で通じなくなっていたとしたら、いったい誰がこの部屋に電話をかけてきたというのか。少なくともミアが自分からどこかに電話をして、切る時に受話器を置き損なったわけではないだろう。彼女に深夜、電話をかける相手がいるとは思えないし、かけ方を知っていたかどうかも疑わしい。それなら誰かがこの部屋に電話をかけてきて、それに出たとしか思えなかった。自分が寝ていたから、ひょっとして気を利かせてくれたのかもしれない。そして彼女は受話器を置いて、消えた。おそらく電話の相手に指示されて、それでどこかへ出向いたか、さもなければ、誰かがこの部屋に来て、彼女を連れ去ったのだ。
なんてこと。ユリスティアは思わず頭を抱えたくなった。こんな事態が起こるのを防ぐために、自分はわざわざ今日、彼女とこのホテルに籠もっていたのではないのか。そのためにわざわざレイフィルやフィリエルにも、向かいの部屋で待機してもらっていたというのに。
レイフィルは首を振った。
「私に分かるわけがない。いまフィリエルがホテル内を見てまわっているが、他の部屋に連れ込まれたりしていれば捜すのは難儀を極めるだろう。従業員を協力させることができないからな。そんなことをすればミアちゃんがヴァルダであるという事実が広まってしまう。そうなれば我々のほうがホテル側に苦情を言われて終いだ。下手をしたらこっちがホテルにいられなくなってしまう。どいつもこいつもヴァルダってだけで毛嫌いしやがるからな」
忌々しそうに吐き捨てる彼の言葉に、そういえばフィリエルの姿が見えないと思っていたが、そういうことだったのかとユリスティアは納得した。が、それと同時に唇を噛む。子供がいなくなったら、迷子でも大騒ぎになるのが普通なのに、これほど明らかに誘拐が疑われる状況で刑事がろくに捜査もできないことが悔しかった。けど、確かにレイフィルのいうとおりだ。ヴァルダであるミアを泊めていたことなどがホテル側に知られたら、協力どころかこちらがホテルから追い出されかねない。
そんなことになればいっそうミアを捜すことは困難になってしまう。それでやむなくその不満を心の奥底にしまい込むと、ユリスティアは辛うじて平静を保ちながらレイフィルに問うた。
「このホテル、非常口はどうなってるんですか?これくらいの規模のホテルなら、出入り口はエントランスひとつじゃないでしょう?そっちからミアちゃんはもう外に連れ出されてしまったなんてことはないですか?あるいは、ミアちゃんは小さいからスーツケースのなかにだって隠せるかもしれません。それならミアちゃんを連れ去った誰かは、堂々とフロントでチェックアウトして出て行った恐れもあります。ホテルなら、そんな大きな荷物を持ってても妙なことは何もありませんし」
だから私は急いで外を捜しに行きますとユリスティアは勢い込んだが、レイフィルに制されその勢いは削がれた。
「非常口ならもう確認してある。夕方、部屋に入ってすぐ私が見に行った。私はこういうホテルに宿泊する時は、いつも必ず、真っ先にそれを確認しているんだ。その際に見た限りでは、非常口から誰にも気づかれずに外に出て行くことは不可能としか言えない。このホテルは非常口のドアと警報装置が連動しているからな。開ければ警報が響くはずだ。まあ、そもそも非常災害のための出入り口なんだから当然だろう。警報が鳴れば、いまこんなに静かではいられないのではないか?フィリエルも見に行ってるとは思うが、私は非常口は除外していいと思ってる。まだ陽が昇ってないから、ミアちゃんを連れ去った誰かがチェックアウトして出て行った可能性も相当に低いだろう。子供を誘拐した人間が、わざわざ従業員の記憶に残りやすい時間に出て行くとは考えにくいからな」
だから犯人が宿泊客なら、ミアちゃんはまだこのホテルのなかにいる可能性が高いだろうとレイフィルが断言すると、ユリスティアの足は急に安堵で力が抜けた。床に座り込む。まだ安心するには気が早いとは思ったが、今もこのホテル内にいる可能性が高いとなれば、すぐに探し出せると思った。ホテルのなかで誘拐が起きたなら、同じホテルに宿泊している客がいちばん疑わしいからだ。従業員の犯行ということも考えられると思ったが、そうだったとしてもミアはまだこのホテルにいるだろう。勤務中にホテルを出て所在が分からなくなることの不自然さは、深夜にチェックアウトする客の比ではないはずだ。
――まだこのホテルにいるなら、絶対、見つかるわよね。
ユリスティアは心からミアの無事を祈っていた。自分がうかうかと眠り込んだばかりに彼女の身に何かがあったとなっては悔やんでも悔やみきれない。
――ミアちゃん、無事でいて。
「――ところで、これがユリィの食べた夕食の跡か?」
懸命に祈っていると、それに重なるようにしてふいにレイフィルの声が聞こえてきた。ユリスティアは顔を上げる。レイフィルはいつの間にかテーブルの傍に歩み寄ってその上を眺めていた。テーブルの上には夕食の食器類がまだ載せられたままになっている。食器の回収は朝食の配膳の時にと頼んであるから、まだ従業員は取りに来ていないのだ。
ユリスティアは頷いた。立ち上がって自分もそちらへ歩み寄っていく。
「そうですよ。夕方に従業員に持ってきてもらいました。ミアちゃんと一緒にそこで食べたんです」
「口に入れたのはこれだけか?まだその従業員の顔は覚えてるか?」
レイフィルはやけに真剣な感じで訊いてきた。しかしユリスティアには最初、彼の質問の意味が分からなかった。
「夕食の後は何も食べてません。その前も。部屋からは出てませんから、買い物もしてないですし間食できるようなものなんて持ってないですよ。食事を運んできた従業員は男性で、まだ若い人でした。私と同じくらいだと思います。名前なんかは知りませんけど」
なんでそんなことを訊くんだと、怪訝に思った。とりあえず訊かれたことには答えたが、そうするとレイフィルの表情はどんどん険しくなっていく。
「なら、そいつの顔をもっとよく思い出してみてくれないか?ユリィがこれ以外に何も口にしていないのなら」
「そんなことが何になるんですか?」
ユリスティアはなんとなく苛立った。ミアが行方不明だというこの時に、この男はいったい何を言っているのだ。
「そんなことがミアちゃんがいなくなったことと、いったい何の関係があるんですか?」
「関係ならある。ないのならどうして、ユリィはそんなところで眠り込んでたんだ?電話が鳴ったんだろう?」
レイフィルはユリスティアと、ユリスティアが今まで座っていた椅子を見比べるようにしてきた。
「電話が鳴った。寝ていたミアちゃんがそれに出て、受話器をあのように置いたのなら、なぜユリィはその音で目覚めなかったんだ?普通、椅子に座ったまま不安定にうたた寝しているような人間はそう簡単には熟睡できないだろ。それなら電話が鳴ればその音ですぐに目覚めてしまうんじゃないか。現にミアちゃんは起きてる。ミアちゃんのほうがユリィより深く寝入っていておかしくないのにだ。それだけの音が響いて、なぜユリィは起きられなかったんだ?」
「それは・・」
ユリスティアは言い淀んだ。
「ユリィは何かの薬で強制的に眠らされてた。その可能性は考えられないか?」
レイフィルはテーブルの上の食器を眺めた。
「そもそもユリィが食べた夕食の食器にだけ、眠り薬のようなものが仕込まれていた恐れもある。即効性のものじゃなくて、ある程度の時間が経ってから効果が出てくる薬だ。その可能性は最初から考えられないのか?僅かでも考えられるとしたら、これを持ってきた人間はどんな人物だった?そうなると、その人物が本当に従業員だったのか怪しいからな」
「――それって、あの従業員がミアちゃんを攫った犯人ってことですか?犯人は、あらかじめ私が夕食を部屋に運ぶよう頼んだことを知っていたということですよね?それで従業員に扮していたということですか?あるいはあの従業員は本物だけど、犯人は密かにホテルの厨房かどこかに侵入して食事に眠り薬を混入していた。そして私が眠り込んだぐらいの時間を見計らって部屋を訪れて、ミアちゃんを攫った。そういうことですか?」
「可能性としてはそういうことも考えられるということだ」
レイフィルはもういちどテーブルを眺めた。
「二人が使った食器は一見して大きさやデザインが違ってる。これならたとえ同じ料理が盛られていたとしても、ユリィが食べるほうがどちらなのか、誰でも容易に区別がつくだろう」
「確かに、知っていれば簡単に分かったかもしれないですね。私、料理を注文する時にミアちゃんのぶんは子供用メニューで頼みましたから。大人と同じ料理じゃ、ミアちゃんには量も多くて、食べにくいでしょうし」
喋っていると、あの時の、まさにこの食器をテーブルに並べている時の従業員の様子がまざまざと脳裏に甦ってきた。ユリスティアは急ぎ足で机に向かった。
「私、あの時の従業員の顔なら、まだぼんやりと覚えてます。それを絵に描きますから、描き上がったらそれを持ってフロントに行って、こういう顔の従業員に会わせてほしいと頼んでください。単に会うことを要求するだけなら、理由なんてなんとでもこじつけられますから」




