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ヴァルダ~国なき人々~  作者: 神坂彩花
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目覚め

――なんかひどい夢みた気がする。

 眩いほどに明るい陽光が視界に射し込んできても、ミアの意識はいっこうに晴れた気がしなかった。

 寝不足の時のように重い感じを頭に抱きながら、その場に身を起こす。身動きしただけでベッドが軋む音がした。その音を聞きながら首を振って倦怠感を無理に追い払い、大きく腕を伸ばす。当面の寝床にしている古びたベッドから床に足を下ろすと、狭い部屋を横切って隅に置いてあるバケツに向かった。蓋代わりにしている粗末な板切れを除けると、汲み置きしてある水を洗面器で掬う。その水で両手を洗って顔を洗い、口を漱いだ。汲み置きの水とはいえ真冬の水は冷たい。おかげで一気に目が覚めた気がした。

 ――目が覚めるっていうのが、幸せなことなのかどうかは分かんないけどね。

 ふいに自嘲した思いが湧き上がってきて、ミアは自分に苦笑した。勿論、今を生きているというのは幸せなことだ。少なくともミアは、死にたいとは思っていない。べつに積極的に生きたいわけではなかったが、昨夜の少女のように突然殺される様子を目の当たりにしてしまえば、当たり前のように目覚められるというのは幸せなことだと思えた。――たとえ、こんな暮らしをしていても。

 ミアは室内を振り返った。荒廃のいろが漂う古びた部屋には、古屋に特有のなんともいえない臭いが満ちている。壁の漆喰は古色に色づいて罅割れていた。床に敷かれたままになっている絨毯も、黴か雨漏りの跡ではないかと思しき正体の知れない無数の染みで汚れている。狭い室内に唯一の窓も硝子の一部が割れ、密やかな風が吹き込んできていた。割れた箇所にはミアが拾ってきた板切れを貼ったものの、それだけでは不十分だったのか、それともそもそも窓枠が歪むなどしているのか隙間風を防ぐことはできていない。窓に近づけば、それだけで身を切るような冷たい風にさらされた。部屋のなかにいても肌に感じる寒さが和らいだ感じはしない。せめて火を興せば少しはましになるのだろうかとミアは思ったが、しかし思うだけに留めておいた。部屋の隅に見える古びたストーブにはあえて目を向けないようにして再びベッドに歩み寄り、たった今まで自分がくるまっていた、あのフェイクの毛皮のコートを羽織る。ストーブなど使えない。たとえ掃除をし、薪を用意したところで火を焚けば必ず煙が出る。そうなれば自分がここを塒にしていることが、たちどころに周囲に知られてしまうはずだ。せっかく得ることができた寝床を追い出されたくなければ、このコートだけで寒さはしのぐしかない。

 この部屋に住んでいたのがそもそも誰であったのかはミアも知らなかった。だから勿論、住人が去ったのがいつなのかも分からない。建物の傷み具合から最近のことではないとは推測できるが、遠い昔といえるほどに時は経っていないように思われた。ミアはここを少し前に偶然見つけ、鍵の壊れたドアから入り込んだのだが、居着いてから電気を引いてみると残された家電類がまだ動いたからだ。衣類や生活用品などは残されていなくて、ベッドには布団も載っていなくても、家具や家電がそのままで今も使用に耐えるのなら、放置されて時間が経っていないことは明白だ。なぜここで暮らしていた人は、まだ使える家財道具を残したまま家を去ったのだろう。ひょっとして亡くなって、遺族が処分を面倒がって放置しているのかとも思ったが、ミアは建物の由来には特に気を向けていなかった。自分のような身分の人間には、安心して寝起きできる場所を確保することさえ至難の業なのだから、多少古くても、人が死んだ家でも、隙間風が吹き込んできても、傾いているわけでもなく雨露がしのげるのならそれだけで上等な住まいだ。たとえ一時であっても、そんな場所に一人で寝起きできるのなら自分は最高の塒を手に入れられたことになる。

 ――せめてこの顔でさえなければ、もう少しまともな暮らしも送れるのかもしれないけど。

 諦めとともに壁に視線を向けた。そこには鏡が据えつけられている。額に入れられて掛けられているのではなく、鏡が直接、壁に嵌め込まれ、周りを枠で囲ってあるようだった。この鏡もかなり汚れてはいたが、まだこうしてミアが視線を向ければ、ミアの姿を映し出すことぐらいはできている。それで今も、鏡にはミアの姿が映っていた。薄い色の髪に薄い色の瞳、明らかにこの国の民とは違う姿が。

 ――私たちは、元々、この国の民じゃないからね。

 かつてミアの母はそう言った。まだ母が生きていた頃、ミアが母と路頭で、今と同じように廃屋を転々とし、路上を巡りながら盗みとごみ拾いで暮らしていた時のことだった。自分たちはそもそもこの国の者ではないのだから仕方がないの、それが母の言葉だった。だからこうしていかなければ生きていけないのだと。この国の保護は、この国の者のためにある。自分たちのような異邦民が本来、暮らしていい国ではないのだ。

 じゃあ自分たちはいったいどこの国の民なのかと、ミアはかつて母を問い質したことがあった。元々いた国に戻ればいいじゃないかと。しかし母は困ったような表情で首を振るばかりだった。それはできないのと、まだ幼いミアを宥めただけだった。あの頃のミアは母のそうした態度が不満だった。国が違うなら、元々の国に戻ればいいだけじゃないのかと、ずっとそう思っていたのだ。そうすれば、こんな暮らしはしなくてすむはずだと。

 しかしそれはできないことなのだ。今ではミアもそのことはしっかりと理解できていた。ミアはヴァルダだ。元々の出自が別の国にあるといっても、その国がどこにあるどういう国なのか、ミア自身にも分からない。ミアだけでなく、この国で生きるヴァルダは誰もがそうだ。ヴァルダは孤立した民で、国を持たない。ヴァルダはそもそも何百年も前に、戦乱や天災に追われ、犯罪から逃れてこの国に来た人々の子孫と言われている。だから当然、容姿からしてこの国の民とは全く異なっていた。古くは言葉も異なったらしく、今でもその名残は残っている。髪も瞳も、黒に近い濃い色であるのが当たり前のこの国で、ミアのそれがずっと色が薄いのもその証だ。喋る言葉も、たまに通じなかったり、聞き取れなかったりする。見た目ですぐに分かるのだから、この国の者にとってヴァルダとそうでない者を区別するのは容易で、そのせいかどうか、ヴァルダはこの国では常に排除の対象になっていた。それが、ヴァルダがそもそも盗みで暮らしているからなのか、あるいは難民や罪人の子孫によるものか、正確な理由は分からないが、どちらにせよこの国の者はヴァルダを見かければ、露骨に顔を顰めて追い立てるのが常だった。だからほとんどのヴァルダはミアのようにこうして廃屋のなかや橋桁や、そういった目立たない辺りに隠れるようにして暮らしている。ミアはこの状況を理不尽に思っていたが、どうしようもないことだった。そして、国の保護を受けることができなければ働くことも、学校に行くこともできない。国の民なら親を喪っても孤児院で保護を受けられるが、ヴァルダの自分はそうなっても自力で生きていかなければならなかった。しかも、その方法だってほとんどない。飢えないためにいちばん簡単で確実な方法は窃盗で、だからミアはずっとそうして生きてきた。自分のやっていることが悪いことだという自覚はあったし、自分の行為が自分へのさらなる排斥に繋がることは了解していたが、そうしなければ生きていけないのだから仕方がないのだと、自分を納得させている。せめて髪と瞳の色だけでも変えられればと思わないでもなかったが、そんな手段などミアは知らなかった。

 ふと嫌になって、ミアは鏡から視線を逸らした。気を紛らわそうとベッドまで戻り、腰を下ろしながら傍のテーブルに据え置かれたテレビの電源を入れる。僅かな時をおいて画面に映像が映し出された。画質は悪かったが、何が映っているのかぐらいは判別できる。音声も、左右のスピーカーから響いてきていた。最大の音量にしても耳をそばだてないと聞き取れないほどだったが、聞こえない、ということはない。

 テレビを動かす電気は、ミアが自力で近くの電線から引いてきていた。やり方は母に教わった。電気を無断で引いたら見つかる危険が何倍も高くなることは承知しているが、どうせどこに行っても長く留まり続けることはできないのだから同じことである。廃屋とはいえ全く人の出入りがない施設などないだろう。むしろ廃屋だからこそ、いつ解体や売却の対象になるか分からないのだから、いつでも逃げられるようにしておかねばならない。だったら利用できるものは利用したほうがいいというのが母の言い分だった。それでミアもこの廃屋に入り込んで、室内にまだ家電の類いが残されていることを知った時、真っ先に電気を引いた。そしてまだどうにか映像を映し出せているテレビの電源を、時々こうして入れていたのだ。運が良ければテレビからは流行りの歌手の歌声などが流れてくることがある。そうなればいい気分転換になったからだ。

 だが今、電源を入れた時にはそうした歌手は映っていなかった。代わりにどこかの住宅街のような光景が映し出されている。見覚えのある光景だった。ミアの注意は喚起され、思わず画面に見入ってしまった。

 ――あれ、この家・・。

 映し出された家の佇まいにミアの脳裏には昨夜の記憶が甦ってきた。画面の映りは非常に悪かったが、映し出されていたのは紛れもなく昨夜忍び込んだ家と、その周辺の家々だった。もっともミアが忍び込んだ家は画面の端のほうに僅かに映り込んでいるだけで、画面の中央にはその隣の家が映し出されている。どうやらその家をメインに映したいようだとミアは映像の意図を読み取った。映像がひたすら、その家を中心に据えるように撮られているからだ。あの、凄惨な殺戮が行われた家を。

 ――警察がいる・・。じゃあ、昨夜の事件のことはもう知られているんだわ。

 そのことは間違いないように思えた。あの隣家の周辺の道路には、一目で警察車両と分かる自動車がたくさん停まっていたからだ。まだ朝も早い。この時刻に、あの家にあれほどたくさんの警察車両が来るなんて、あの事件の通報を受けたためとしか思えなかった。

 それでなんとなく、ミアは気になって音声に注意を向けてみた。ちらつきの激しい画面にも目を凝らしてみる。かろうじて聞こえる音声、かろうじて読める字幕の文字を拾って内容の理解に努めてみると、自分の推測はやはり正しいようだった。画面に映された家で、一家惨殺が行われたことをテレビは告げている。あの家に暮らす家族が、深夜に何者かの手によって皆殺しにされたらしい。犯人は今も不明だということだった。

 ――家族・・。じゃあ、昨夜、殺されたのはあの女の子だけではなかったんだわ。

 ミアはそう判断した。ミアが殺された瞬間を見たのはあの女の子だけだが、一家惨殺というからには殺されたのはあの女の子だけではないはずだ。あの女の子が殺される前か後かは分からないが、あの女の子の家族もまた、あの名も知れぬ大男によって殺害されていたのだろう。

 いたたまれない気分がして、ミアはテレビの電源を切った。あの家の住人が殺されたからといってミアに何があるというのでもないのだが、それでも安全であるはずの家のなかで、一家皆殺しに遭うだなんて惨いことのように思えた。いったいあの家の住人は、なにをそこまで恨まれていたのだろう。それほど恨まれていたのなら、そこまでの事態になる前に、きちんと対処しておけばいいのに。 

 溜息をついて、ミアはベッドから立ち上がった。そろそろ出よう、と部屋の外へと歩を進める。昨日はほとんど何も食べていない。あの忍び込んだ家で角砂糖を齧っただけだ。なんでもいいから何か食べるものが欲しかった。それ以外のことは考えるのも面倒だった。どんなに惨くても、昨夜の事件はミアには直接、関係がない。

 ミアはそう思うと、テレビに背を向けた。部屋の外へ向けて歩を踏み出すと、それと同時に殺人事件のことは意識から飛び去ってしまった。


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