予期せぬ訪問者
ユリスティアが部屋を用意してくれたというホテルは、確かにすぐ近くにあった。
大きくて立派な建物で、入口の回転扉を通り抜けるとミアには信じられないほどに広くて豪華な広間があった。床には模様の美しい絨毯が敷き詰められ、歩いても軋みどころかほとんど足音もしない。奥にあるフロントと書かれた場所に控えた職員らしい人々も、洗練された装いで礼儀正しかった。ユリスティアはそこへ歩み寄り、その人々と何か話している。彼女はしばらく話した後、ミアのほうへ視線を向けてきた。「じゃあお部屋に行こうか」と行ってミアを広間の奥のほうへと導いていく。
ミアはその彼女の後に続いて歩いていった。レイフィルはホテルに入ってからもミアの手を離そうとはしてこない。彼はミアと再会した時からなぜか周囲を異様に警戒しているように見えた。ミアから片時も離れようとせず、しっかりと手を繋いだまま歩いている。彼の警戒心に満ちた表情は自然にミアにも緊張を齎し、ミアの動悸は速まっていった。息苦しくなるほどの緊張を感じながら、ミアは広間の奥で三人の刑事とともに何やら狭い部屋のなかに入らされた。家具も何もない部屋で、ミアも含めた四人でいても手狭に感じられる。エレベーターだとユリスティアに言われた。部屋ではなく移動のための機械らしい。聞いた時にはよく分からなかったが、少しして閉じられたドアが再び開くとミアは驚愕してしまった。外の様子が、完全に変わってしまっている。
「エレベーターは上下の階へ階段を使わなくても移動できる機械なの。ここはホテルの十三階。ミアちゃんの泊まる部屋は、この階にあるから」
驚くミアにユリスティアはそのように説明してくれた。ミアはエレベーターがどんなものだか分かった後も、信じられない気持ちで廊下に佇んでいた。あれはいったい、どういう仕組みになっているのだろう。ミアのなかではエレベーターに対する好奇心が湧き上がってきたが、仕組みについてまで詳しく説明してくれる気はユリスティアにはないらしく、彼女はさっさと先に立って歩いていってしまう。エレベーターを出たところは左右に長い廊下が延びていた。幅は決して狭くはないが、広くもない。壁に沿って数字の書かれたドアが等間隔に並んでいる。ミアはその廊下をレイフィルに手を引かれながら歩いて、ユリスティアの後についていった。
ユリスティアはやがて一つのドアの前で足を止めた。ミアが彼女に追いつくと、ユリスティアは少しこちらを振り返るようにしてから、何かをドアのノブに差し込むような動作をする。かちり、という軽い音がした。その音が響いてからユリスティアがドアを開けると、彼女は先に中に入ってミアを招くようにする。ミアはその動きに誘われるように、ドアの内側へと足を踏み入れた。
ドアの内側にあった部屋は広かった。少なくともミアの目には広々として見えた。あの古びた集合住宅で見た、ラースの部屋の倍以上はあるように見える。二つあるベッドはどちらも布団が綺麗に整えられ、皺ひとつなかった。窓辺に据え置かれた机にも椅子にも塵ひとつ落ちていない。机など、磨き込まれてミアの顔が映り込むほど輝いていた。
「・・すごい部屋」
連れてこられた部屋の、あまりの上質さにミアは思わず呟いてしまった。部屋のなかではレイフィルも手を離してくれたので、なんとなく無目的に室内を歩き回り、窓辺に近づくとそこから外も眺めてみる。窓の外に広がっていたのは、これまで見たこともないような景色だった。今まで想像したこともないような眺めが眼下に広がっており、あまりの光景に呆然としていると、苦笑したような表情を浮かべたユリスティアが、傍らにやってきた。
「けっこういい眺めでしょ?この辺りにはあまり高い建物がないから、夜になると窓に灯りが点ってもっと綺麗な眺めになるわよ。ミアちゃんは今夜、ここに泊まるんだから、その夜景も楽しみにしているといいわ」
ミアはユリスティアを振り仰いだ。
「ここ?今日はこの部屋で寝るんですか?」
ユリスティアは頷いた。
「そうよ。あまり高級な部屋じゃないけどね」
「そうなんですか?こんなすごい部屋、今まで入ったことないです」
ミアが驚くと、ユリスティアはなぜか痛ましいものを見るような目をしてきた。
「気に入ってくれたなら良かったわ。――じゃあ、ちょっと早いけど先にお風呂に入ってくれる?この部屋は浴室もついてるから」
ユリスティアは出入り口のドアの脇にあるドアを示した。そこだけ小部屋のようになっているみたいだ。あのドアの向こうが浴室だ、ということなのだろう。
「私はもう少し、レイフィルさんたちとお話ししたり、いろいろなことをしないといけないから、まだちょっと早い時間だけど、先にお風呂を済ませてほしいの。終わったら好きに過ごしていいから。けど、絶対に一人で外に出たりはしないでね。夕食はホテルの従業員が部屋まで運んできてくれるから、ミアちゃんは食事の心配はしなくてもいいの。だから部屋の外に出ることだけは絶対にしたらだめ。それだけは約束してね」
部屋の外には出るな。その指示を伝える時だけユリスティアの瞳に厳しい光が宿った。
その眼差しに気圧されてミアは頷いた。彼女の言葉に従わなければ何か怖い思いをするのではないか、そう感じられるほどの気迫があったからだ。
浴室も、机同様に隅々まで丁寧に磨き込まれて輝いていた。
これほど綺麗に整えられた浴室で、誰に遠慮することもなく入浴したのなんて、記憶にある限りミアには初めてのことだった。ミアは譬えようもない喜びを感じてシャワーで頭から湯を浴びた。浴槽にも湯を満たしてそこに身体を入れると、全身に感じる温もりに身体を覆った緊張が解れていくのが分かる。至福の時間だった。これまで、ミアにとって入浴といえばバケツに入れた水で身体を拭くか、人目につきにくい川辺で水浴びをするのが普通だったのだ。運が良ければ、公衆浴場の主人が仕舞い湯を使わせてくれたりもするが、こんなふうに一人で浴室を使ったことなどない。こんな贅沢は他にないように思えた。シャンプーを使って髪を洗い、石鹸を使って身体を洗うと、身体からほのかに芳香が漂ってくる。汗の臭いでも泥の臭いでもない、芳しい香りが自分の身体からしてくるというのも信じられなかった。
ゆっくりと時間をかけて湯を楽しみ終えると、ミアは満ち足りた気分で浴室を出た。ベッドのある部屋に戻ると、すでにレイフィルたちはいなくなっていた。見渡すと、窓際に置かれた机に向かって、ユリスティアが何やら一人で書類を眺めている。彼女はミアの姿に気づくと、こちらに歩み寄ってきた。しゃがみ込んでバスローブの襟元を整えてくれる。バスローブは浴室の棚の上に、きちんと畳まれて置いてあった。浴室に入る時に、ユリスティアに着替えにはこれを使うよう指示されていたのだ。
「ずいぶん長かったわね。のぼせなかった?」
ユリスティアは苦笑したような笑みを浮かべてきた。ミアは首を振った。
「そんなことないです。あの、気持ちよかったです。ありがとうございます」
礼を述べるとミアは周囲に視線を向けた。レイフィルはどこに行ったのだろうと思ったのだ。するとユリスティアの声が聞こえてきた。
「レイフィルさんたちなら向かいの部屋よ。今夜はあの人たちもこのホテルに泊まることになってるの。二人に用がある時は私が呼んであげるから、そのことを私に言ってね。一人で訪ねようとしちゃだめよ」
ユリスティアの瞳に再び厳しい光が宿った。どうやら彼女は何が何でもミアをこの部屋から外に出したくないらしい。少なくともそのように見えた。いったい、なぜそれほど厳格にミアは外出を禁じられるのだろう。やはり逃走を阻止するためなのだろうか。
そうは思ってもミアとしては頷くしかなかった。それから恐る恐る訊ねてみる。
「はい。ユリスティアさんは何をしていたんですか?」
さっき机に向かって眺めていたものは、いったい何だったのだろう。それが気になって訊ねたのだが、ユリスティアの答えは曖昧なものだった。
「何って、仕事をしていたのよ。いろいろ見ておかないといけない資料や、まとめておかないといけない文書なんかがあるから。ミアちゃんは気にしないで」
そう答えると、ユリスティアは机に戻っていった。再び書類を眺めだす。それでミアもそちらに向かった。しかし机ではなく窓に近づき、窓から外を眺める。何度見ても不思議な気がした。道路を走っている自動車が、ミアの掌よりも小さく見えるなんて。こんなことがあるなんて思わなかった。窓ガラスに手を這わせてみる。目の前に建つビルも、その周辺に建ち並ぶ家も店も、ミアの手で握れそうなほどだ。今なら、この下を行き交う人々を恐れなくてすむ、と思った。なぜか、自分がとても大きな存在になった気がする。
だからだろうか。外を眺めていると次第に心が安らいできた。ミアは時間を忘れて眺め続け、ユリスティアに声をかけられてようやく我に返る。夕食が来たと教えられて、窓辺を離れた。机の傍に設えてあったテーブルに歩み寄っていく。
夕食は肉と野菜の煮込みのようなものとパンだった。食事はユリスティアも一緒に食べたが、あまり会話が弾むことはなかった。二人で向かい合って黙々と食べ、食事が終わるとミアは再び窓辺に向かった。夕食が終わる頃にはすっかり陽も沈んでしまい、建物の形も判別しづらくなっていたが、代わりに各々の窓辺に灯った窓明かりや、自動車のライトが美しいと思った。今はあの向こうにあるはずの和やかな団欒を想像して寂しいとは思わない。本当に心から美しいと思えた。
しかしユリスティアはミアが夜景を堪能しているあいだも忙しなくしていた。背後で頻繁に彼女が誰かと話している声が聞こえてくる。ミアは声が聞こえるたびに振り返ったが、誰かが部屋に入ってくるようなことはなかった。声が聞こえてきた時は決まって彼女はベッドの横に置かれた小机の前に跪いて、そこに置かれた白い色の電話機を使っている。ユリスティアが誰と何を話しているのかはミアには分からなかった。聞こえてくる言葉が断片的すぎて、内容まで理解できない。
そんな対照的とも思える時間を過ごした後、ミアはユリスティアにそろそろ寝なさいと促されてきた。夜が更けてきて、僅かに灯りの減ってきた窓は彼女によってカーテンが閉ざされてしまう。ミアはベッドに寝かしつけられたが、ユリスティアは寝るどころか浴室に向かう様子も見せなかった。ミアが寝ないのかと訊ねても、「私のことは気にしなくていいから早く休みなさい」といって取り合ってもらえない。一人だけベッドに入るのには抵抗を感じたが、ユリスティアが照明を消して睡魔をミアに襲わせてきた。暗闇に包まれるとほどなくしてミアは意思の力を総動員しても瞼を開けていることができなくなってしまった。
だがそんな時間はほんの僅かのことだった。時の流れは判然としないが、僅かだったのだと思う。ふいにミアの意識は、彷徨っていた夢の世界から現世へと引き戻された。
機械的な音が辺りに響いている。ミアはそれに引かれるようにして重い瞼を押し上げた。音のするほうを探して意識を周囲に飛ばす。音の源を察知すると、そちらへと顔を向けた。音はさほどに大きくないが、特徴のある規則的なその響きで、電話の音だとすぐに気づいた。さっきまでユリスティアが何度も使っていた機械だからだ。
電話の音はいっこうに止まる気配を感じさせなかった。それで、ミアはまだ睡魔の逃げきっていない重たい身体をベッドの上に起こした。ユリスティアを捜して暗闇のなか視線をあちこちに配ると、窓辺の椅子に座ったまま動かない彼女の姿が視界に入ってきた。ミアが起きても、彼女は何も言ってこない。なんとなく怪訝に思い、ミアはベッドを降りてそちらに歩み寄っていった。近くで見ると、カーテン越しに射し込む月明かりでユリスティアが目を閉じているのが見える。どうやら眠っているらしかった。疲れているんだと、ミアは咄嗟にそう思う。それでミアは彼女を起こさないよう、音を立てないようにして電話の許に駆け戻った。電話はまだ鳴り続いている。夕食の後、ユリスティアがしていた通りに受話器を持ち上げた。電話を使ったことはなかったが、こうすればこの音は止んで、そして誰かと話をすることができるはずだ。
「――誰ですか?」
ミアはユリスティアを起こさないよう、できるだけ小声になるよう心がけながら、受話器に向かって話しかけてみた。電話の向こうにいるのは、いったい誰なのだろうかという興味があったからだ。すると、電話の向こうからも低く静かな、くぐもったような声が聞こえてくる。ミアちゃん?と呼びかけられた。ミアは頷いて、そうです、と応じた。
「私だよ。レイフィルだ。ちょっと、見てもらいたいものがあるんだけど、ドアを開けてくれるかな?」
「お外に出るんですか?」
口に出すと、ミアはなんとなくユリスティアのほうを窺ってしまった。彼女はミアが一人で外に出ることを厳しく禁じていたが、レイフィルからそれを求められた場合はどうすればいいのだろうと思ったのだ。
すると、電話の向こうでレイフィルが首を振ったような気配がした。
「違うよ。ちょっとドアを開けてくれるだけでいい。用事はすぐに済むから。外出する必要はないからね」
その言葉にミアは安堵した。なぜか、安堵させるものがあったのだ。分かりました、といって受話器を置く。なんの疑問も抱かずにミアは部屋の出入り口へと向かった。ユリスティアは絶対に部屋の外に出たらだめだと言っていたが、ちょっとドアを開けるだけで、外に出るのでなければ大丈夫なはずだろう。電話の声がレイフィルの声にしては低すぎるように思ったけど、そもそも電話というのは声が低くなるものなのかもしれない。
ミアはドアに近づくと、ドアに付いたつまみを回して鍵を開けた。それからノブを握ってドアを押し開ける。すると、外にはすでに男性の姿があった。
「――誰ですか?」
しかし立っていた男性はミアにとって見知らぬ人物だった。少なくともレイフィルではない。それで首を傾げて男が誰なのか訊ねようとしたのだが、そのことを口にする前に男の手がミアの口に伸びてきた。
ミアは突然の事態に恐慌した。鼻と口を同時に押さえられて咄嗟に逃げようとしたが、その前に男によって腕を摑まれ動きを制される。なおも必死で逃げようと抵抗していると、ふいに意識が歪んだ。足から力が抜ける。立っていられなくなった。
目の前の景色が動くのを感じる。最後にミアの視界に入ってきたのは部屋の天井と、見知らぬ男の顔だけだった。