第二の捜査
その後は慌ただしかった。
もっとも、ミアが何かに忙しかったということはない。慌しくしていたのは周りのほうだ。ミアはあのままレイフィルの手によって車に連れ戻され、ここにいるように命じられた。それからずっと、することもなく後部座席でじっとしている。ユリスティアやフィリエルは反対にレイフィルに指示されて車外に出ていき、何やら忙しそうに方々を行き来し、あるいはあの部屋へ出入りすることを繰り返していた。ミアはその様子を車窓から眺めていたが、彼ら以外の誰かがあの部屋に近づくことはなかった。一度だけ、自転車に跨った警邏隊員のような装いの若者がやってきて、レイフィルと話し込んでいることがあったが、その若者はすぐにどこかに去っていってしまい、そのまま戻ってきていない。
車窓から淡々と眺めていると、静寂のなかで緊迫した表情を見せながら忙しなく動きまわるレイフィルたちの姿は、なぜだかとても場違いなものに見えてきた。ひょっとしたら他の誰が見ても、そう思うのかもしれない。ヴァルダの男が一人殺されたぐらいで、いったい何を慌てる必要があるのか、社会の邪魔者が消えたのだ、むしろそれは喜ばしいことじゃないかと言う者もいるだろう。実際、ミアはかつてそう言った人を見たことがある。特に殺されたのがラースかもしれないとなれば、なおさらのはずだ。彼はヴァルダも恐れて近づくのを避けるほど、凶悪な犯罪の常習者だったのだ。これでレインロードの治安は良くなるとさえ言うのかもしれない。誰だか知らないがあの凶悪なヴァルダを殺してくれて有り難う、とかなんとか。そうした言葉は簡単に想像できた。普通の市民が殺されたなら、警察の車が大量に押しかけて、捜査というものにそれなりの時間をかけることをミアも知っているが、ヴァルダの場合はその程度の反応しか起こらない。レイフィルたちだって、もしもミアがあの事件の犯人はラースであると教えなかったら、ラースが殺されていても素通りしたのではないか。きっとそうだろう。今までミアが見てきた刑事は、ずっとそんな感じだったのだから。
いったいラースの身に何が起きたのだろう。ミアはぼんやりと思った。いったい誰が、どうして彼を殺したのだろうか。勿論、ヴァルダが殺される理由に大仰なものがあるとも思えない。小さな喧嘩沙汰でも簡単に殺傷に至るような事態になってしまうことはよくあるし、ラースのような人物なら仲間割れだの返り討ちだの、いくらでも殺害に至ってしまうような騒動は思い浮かぶ。ミアにさえも。
だが、今この時期に彼が殺されてしまったのには、何か深い意味があるような気がしてならなかった。
気のせいだということは分かっている。ラースはあの夜、あの家で女の子を殺した男だ。そしてたぶん、女の子の家族も殺した殺人者で、人を殺して逃げている男がほとんど日もおかないうちに別の誰かに殺されたというその事実が、まるで復讐でも行われたかのように見えるだけだろう。だが勿論、復讐のはずはない。なぜならあの女の子とその家族を殺したのがラースだと知っているのは自分だけのはずだからだ。だからこそレイフィルやユリスティアは今もヴァルダにすぎない自分を大切に扱ってくれているのだろう。自分以外の誰かが、ラースをあの夜の事件の犯人だと断定できたはずはないし、思い込みや推測程度では、とても復讐という具体的な行為まではできないはずだ。
復讐が考えられなければラースの死は偶然以外にない。それよりもミアにとって気になるのは自分の今後のことだ。ラースの死亡が確認された以上、レイフィルやユリスティアにとって自分はもはや用のないただのヴァルダの子供にすぎないのではないか。自分に事件の目撃者としての価値がなくなってしまえば、彼らにはいつまでもヴァルダの自分の面倒を見てやらねばならない義理などない。ならば自分はこれからいったいどうなるのか。おそらくこのままいけば遅かれ早かれ盗みの罪で捕まってしまうことは分かるが、どうすればそれを防げるのだろう。
ここにいれば捕まってしまうのなら、いま一人でいるうちにどこかへ逃げておくのが最善であろうことは分かる。しかし本当にそうしてよいのだろうか。どうしてもその迷いが消えてくれなかった。逃げることに対する迷いではない。自動車のドアは開け閉めに際してかなり大きな音がする。そのことをミアは何度かの乗り降りで学んでいた。迂闊にドアを開けて足を踏み出せば、すぐ目の前を行き来している三人の刑事たちの誰かが気づいてしまうだろう。そうなればすぐに彼らは自分の行動の意味を知るはずだ。いちど逃げようとしているという意思があることを知られてしまい、そしてそのうえで逃げることに失敗してしまえば、おそらくもう、次は機会を得ることすら難しくなる。
ではどうしたら、彼らに気づかれずに外に出ることができるだろうかと、一人で時間を弄びながら考え込み、手持ち無沙汰に過ごしていた。そうしていると、しばらくしてユリスティアだけが車に戻ってきた。彼女は今度はミアの隣ではなく、ここに来るまでフィリエルが座っていた運転席に腰を下ろす。レイフィルやフィリエルはどうしたのかとミアは思ったが、怪訝に思う間もなくユリスティアのほうから話しかけてきた。彼女は車を発進させながら、これからいったん警察署に戻るという。他の二人はまだ用事があるから後でそれぞれ戻ってくるだろうと。
「――ミアちゃんは私と一緒に来てちょうだいね。ラースを目撃したこと、正式な書面にしないといけないから」
正式な書面。なんだろうとミアは首を傾げてしまったが、その疑問は押し隠して彼女の背後に向け、そっと言葉をかけた。それよりも訊いてみたいことがあった。
「あの、私はこれから、どうなるんですか?」
切実な疑問だった。それがミアの、いま最も知りたいことでもある。ラースのことは、正直ミアにはどうでもいい。ユリスティアが聞きたがっていたから教えただけ、彼女やレイフィルたちが来いというから役場へもここへも来ただけだ。あの女の子がどこの誰かも知らないミアにとって、ラースの犯した事件のことなど特に関心はない。このまま刑事といれば盗みの罪で捕まってしまうという事実には揺らぎがなくても、彼女がこれからミアをどうするつもりなのか、それだけは知っておきたかった。答えてくれるとは思えなくても、それを訊ねずにはいられない。
ユリスティアは即答してはこなかった。彼女は少し考えるような素振りをみせてから、徐に口を開いてくる。
「・・そうね、とりあえず、まだもうちょっとお話を聞かせてもらうことになるけど、正直にいうと、それ以降のことは、いま考えてるわ。昨夜、妹に連絡をとってみたんだけど、引き取れるか分からないって返事だったから、まだミアちゃんのことをどうするか、決まってないの。けど絶対に、私たちはミアちゃんのことを悪いようには扱わないから。それだけは信じて。ミアちゃんがいなかったら、私たちは大きな過ちを犯すところだったのよ。あのラースって男がどんなふうに事件に関わっていたのか、詳細はこれから調べることになるけど、これで無実の人間に冤罪を被せて、本物の大量殺人犯を野放しにしてしまうという最悪の事態は、回避されたんだから」
ユリスティアの口調は淡々としていたが、心からミアに感謝しているような響きを帯びていた。けれど、ミアには彼女の言葉は詭弁のように聞こえた。まるで慌てて取り繕ったようにも聞こえ、それでミアは彼女と会話をするのをやめた。質問に対して返ってきた答えが詭弁なら、もういい答えは返ってこないだろう。自分は刑事に捕まってしまっているのだ。その事実なら最初から分かっていた。この窮地を脱するためには彼女の隙を見つけて逃げるしかない。
それでユリスティアが話し終わると車内は自然に沈黙に包まれた。ミアはおとなしく車に揺られ続けていた。走行中の自動車のなかにいてはどうすることもできないため静かにしていたのだが、その間もずっと、頭のなかではどうやったら逃げられるか、そのための方法を考え続けていた。しかし有効な手段が思いつかないまま、車は走り続け、やがてどこかの建物の前で停車する。車が完全に停まってしまうと、ユリスティアが運転席から身を乗り出すようにしてミアを振り返ってきた。
「着いたわ。降りて」
ユリスティアに促されて、ミアは車を降りた。すると彼女はミアの手を引いて歩き出す。建物へと導き、入口と思しき大きな扉からなかに入った。なかは広々とした広間だった。そこを多くの人々が行き交っている。警官の姿が圧倒的に多かった。ユリスティアは警察署に戻るといっていたから、ここがそうなのだろうか。
警察署かもしれないと思うと、自然にミアの心は緊張した。ユリスティアは極めて自然にそのなかを歩いていたが、ミアはまっすぐ前を見て歩くというなんでもない動きも難しくなるほどだった。それでも懸命に彼女についていくと、奥まった部屋まで連れて行かれる。殺風景だがソファなんかも置いてあり、ほどほどに居心地の良さそうな部屋に見えた。何をする部屋だろうかと思っていると、ユリスティアに適当なソファに座るよう言われる。それで近くのソファに腰を下ろすと、少し待っててねと言い残してユリスティアは部屋を出て行った。ミアは再び一人きりで残されたが、今度はさほどの時間は待たされなかった。ほどなくして戻ってきたユリスティアは手に紙の束を持ち、なぜか一人の若い男を従えている。一見してユリスティアやレイフィルよりも年下と分かる男だ。誰だろうか。
「――君が、ミアちゃん?」
男が屈み込んでミアに話しかけてきた。ミアが頷くと、男も頷き返して言葉を継いでくる。
「じゃあ、君のことだよね?君がこの人たちを殺した犯人を見たんだよね?」
そう問いかけながら男は上着の懐から何枚かの写真を取り出してきた。それをミアの前で広げる。
ミアは戸惑った。一瞬、写真に写った人々が誰なのか分からなかったからだ。しかし少し眺めていると、一枚に見覚えのある女の子が写っていた。その子を指さして、頷いた。
「そう、です。・・あの、ラースがこの子を殺したところでしたら、見ました」
答えると男は満足そうに微笑んだ。
「そうか、分かった。ひとつだけ確認したいんだけど、ミアちゃんはその殺人者がラースだと断言できるんだね?」
ミアは再び頷いた。すると男はまた頷き返してきた。
「分かった。有り難う。とても重要なことを教えてくれて、助かったよ」
男はそういってもういちどミアに微笑みかけてきた。それから徐にユリスティアを振り返ると、彼女に歩み寄って何やら耳打ちするような仕草をしてから部屋を出ていく。ユリスティアはその彼に対してひどく真剣な面持ちで頷くと、ミアの向かいのソファに座った。ソファはテーブルを挟むようにして置いてあるが、そのテーブルの上に彼女は持参してきた紙の束を置く。束のいちばん上の紙には何やら細かい文字がびっしりと書き込まれていたが、何と書いてあるのかまではミアには読み取れなかった。
「――さっきの彼はメリキスというの。警邏隊員よ。彼がどうしてもミアちゃんに会って訊きたいことがあるって言ったから連れてきたの。変な人じゃないから、心配しないでね」
ミアは頷いた。
「はい。――あの、ユリスティアさんは今から何かするんですか?」
なんとなく不安に思ってそっと目の前のテーブルに置かれた紙束に視線を向けてみる。ユリスティアは、ああそれ、といって微笑んできた。
「たいしたものじゃないわよ。ミアちゃんには関係のない、さっきちょっと整理を頼まれただけの書類だから。ミアちゃんにはなんにも難しいことは頼まないからね。ミアちゃんにやってほしいのはもう一回、あの夜に見た事件のことを話してもらうことだけだから。嫌かもしれないけど、これはきちんと記録に残しておかないといけないことなの」
だからまた協力してねと、ユリスティアは再び微笑み、それから自分の上着の懐に手を入れ、何か小さい機械のようなものを取り出してきた。
「じゃあもう一回、最初から話してもらえるかしら。ミアちゃんがあの夜、どこで何をしていて、何を見たのかを、詳しくね」
それからミアは、ユリスティアのいう通りにあの夜に見たもののことを再び順を追って話していった。記憶を辿り、辿ったその記憶を他者にも分かるように話すというのは意外に難しい。ミアは途中で何度も言葉に詰まり、ようやく全てを話し終えると疲れ果ててしまった。話を終えた頃にレイフィルとフィリエルがミアの前に戻ってきたが、二人は部屋に入ってくるとミアに会釈だけしてまっすぐユリスティアのほうへ歩み寄っていく。レイフィルが何か小声で彼女に耳打ちし、ユリスティアはそれに頷いて彼に何か言葉を返していた。ミアには彼らが何を話しているのか、全く聞こえなかった。いったい何を話しているのだろう。
怪訝に思ったが、その謎の話はすぐに終わったようだった。ほとんど時間を経ずに、ユリスティアはミアに向き直ってきた。
「ミアちゃん、今まで私たちに協力してくれてありがとう。ミアちゃんの話してくれたことのおかげでとても助かったわ。今夜は近くのホテルに部屋を用意してあげるから、そこでゆっくり休んで。ミアちゃんのこれからのことは、それから考えてあげるから」
ユリスティアはにこやかな笑みを浮かべていた。ミアはなんとなく彼女の言葉に居心地の悪いものを感じた。レイフィルとフィリエルが歩み寄ってきて優しげな仕草で立ち上がらせてくれ、「じゃあ行こうか」と促されるとなおさらそんな気分が強くなる。礼を言われるのに慣れていないせいだけではないだろう。礼を言われているのに自分の行く先は決められている、そのことに違和感があるからかもしれない。
しかもそれだけではない、とミアは自分について歩いてくるユリスティアを振り仰いだ。どうして彼女は口先だけでも礼など述べたのだろう。本来、彼女が礼を述べることはないはずだ。ミアの立場では、彼女に聞かれたことには答えるしかないし、拒む自由など与えられていない。ならば答えたからといって彼女がミアに感謝する必要などないはずだ。
――これから自分は、どうなるんだろう・・。
ふいに漠然とした不安が、ミアの胸中に渦巻いてきた。思ってもみなかったことが、ここ数日の間に立て続けに起きたせいで自分の今後が予測できなくなった。これから自分がどうなるのか分からない。そのことがすごく怖い。
――いったい自分は、これからも無事に、生きていくことができるんだろうか?
ミアはレイフィルに手を引かれながら、ひたすらその不安と闘っていた。