新たなる殺人
ラースはここに炭鉱夫になるために来ていたようなの、とユリスティアは教えてくれた。
移動のために乗せられた自動車のなかだった。運転はフィリエルがしていて、後部座席にレイフィルとユリスティアが、ミアを左右から挟み込むようにして座っている。
「この街の人間は、ヴァルダを見ても排除したりするようなことはしないの。むしろ逆に積極的に仕事を斡旋したりして、定住を促しているのね。有名な話なんだけど、善意じゃないわ。身元の保証のないヴァルダを雇う人なんて、普通はいないから、そのことを利用して役場があえて炭鉱とか採石場とか遊女宿とか、誰も好んで働きたがらないようなところで働かせて労働力を確保しようとしているの。それでもヴァルダにしてみれば、まともに人として生活できる数少ない場所ということになるのかしらね。ここにはヴァルダが各地から集まってきているわ。ラースもそうやってこの街に来て、炭鉱夫になったようだってことだった。今は炭鉱夫ではいないようなのだけど、ラースがミアちゃんが教えてくれたとおり、レインの悪魔と呼ばれているほどに有名なら、まだその頃と同じ場所に住んでるかもしれない。同じではなくても、この近くにいるかもしれないわ。だからこれから、まずはその場所へ行ってみるの」
運が良くてまだ同じ場所に住んでいれば、すぐに事情を聞くこともできるからね、とユリスティアはいった。レイフィルがそれを肯定した。
「ラースという男は見つけやすいはずだ。あれだけ真っ黒な肌をした人間は滅多にいない。リーヴェネーザ系の人物だな。直系の血筋に南方の大陸の者がいるんだろう。リーヴェネーザ系の人間はヴァルダのなかにも少ないように思えたから、いなかったとしても捜すのは比較的容易なはずだ」
それでどうしてまだ捕まらんのだろうな、とレイフィルは首を傾げていた。確かに、とミアも彼の疑問に同意した。ラースのように真っ黒な肌をした人間が、ヴァルダのなかでも珍しい存在なら、どうしてレインの悪魔と噂されるほどに犯罪を重ねても、捕まらないのか不思議だった。目立つ存在なら人々の記憶にも残りやすくなるはずなのに。
だが、とミアはユリスティアの言葉のおかげで正しく理解できた、自分の以前からの知人の言葉を思い起こした。ずいぶん前に同じヴァルダの、比較的よく会う男から、どこかの街へ行けばヴァルダでも雇ってくれるところがあるらしいと聞いたことがあったからだ。そこがこの街だったのかどうか正確には分からない。断片的な情報からこの街のことだと推定はできるものの、ミアはそれ以上、詳しい話を聞かなかったからだ。その男も、行くのは止したほうがいいと言っていた。
――嬢ちゃんがどうしても行きたいなら、俺は止めはしないが、やめとくのが身のためだよ。雇うって言ってもあれじゃあ奴隷にされるのと同じだ。行けば後悔するだけだ。
それでミアはそこへ行くのをやめた。苦痛が待っていると分かっていてあえて行くほどミアは愚かではない。しかしラースはそれでも行ったのだろう。それとも、彼は知らなかったのだろうか。行って初めてそのことを知り、後悔して、仕事を辞めたのだろうか。それでレインの悪魔と呼ばれるほどの人物になったのだろうか。
分からなかったが、ひとつだけ確かなことがあるとミアは思った。役場で見たあの分厚い本のようなものを思い出す。あそこに載せられた無数の人々の顔写真を。あの人々はミアとは逆に雇ってくれる、ヴァルダでも普通に生活できるという話を信じてこの街に来た人々なのだ。だからああして役場に記録が残っているのだろう。あの人々が今どうしているかと思うとミアは暗澹たる気分に沈んだ。誰も、ミアのように事前にこの街で雇われるということの意味が分かっていれば、この街には来なかったのではないだろうか。誰も好んで働きたがらないようなところの労働がどれほど過酷なのか、ミアにも想像することは可能だ。
その、思うだけで憤りが湧き出てくるような想像を胸の内で弄んでいると、車は停車した。着きました、と前方でフィリエルの声がする。ミアはレイフィルの身体越しに車窓の外を見た。道端には朽ちかけた、今にも倒壊しそうなほど老朽化した建物が佇んでいる。
「ここで間違いありません。この記録が確かなものなら、この建物の二階にラースは住んでいるはずです」
フィリエルは窓越しに建物を眺め、手にした何かの書類と見比べるようにしていた。書類は役場を出るときにレイフィルがフィリエルに手渡した、あの役人らしい男から受け取っていたものだ。どうやらあの書類に、ラースの居住地が書いてあるらしい。
建物は二階建てで、一見すると木造の、集合住宅のように見えた。一階にも二階にも金属製の同じ形をしたドアが並んでいる。建物の端には金属製の、踊り場のない急な階段があった。かなり腐食の進んだ階段で、踏み板にはところどころ穴が開き、手摺にも錆が浮いてもはや元の色が何色だったのかミアには分からなかった。
それらの様子を眺めていると、レイフィルがドアを開けて車の外に降り立った。彼は開けたドアから車内を覗き込むような体勢でこちらに話しかけてくる。
「では、私が彼を訪ねてこよう。もしもまだここに居住していて、今も在宅しているようであれば、例の金融業一家の殺人事件のことについて、問い質してみる」
「お一人でですか?」
フィリエルが訊き返した。するとレイフィルは素早く周囲を見渡し、そして少し考えるようにしてから頷いた。
「ああ、一人で大丈夫だろう。この建物は周囲に他の建物が建ち並んでいる。裏側には道がないようだからな。この道に出ない限り敷地の外へは出入りできそうにない。だからお前たちはここにいてくれ。あまり大勢で訪ねて不必要に警戒されたくもないからな。けど、ミアちゃんは一緒においで」
手招きされて、ミアは戸惑った。なぜ自分が呼ばれたのか分からない。
「私も、行くんですか?」
「そうだよ。相手はヴァルダだから、ミアちゃんが一緒に行ってくれたほうが警戒なく会ってくれるかもしれないからね。怖いことは何もないから、大丈夫だよ。万一そんなことがあっても、私がついてるから心配しなくていい」
力強く言われ、ミアは頷いた。大きく開けられたドアから車外に出る。地面を踏みしめてから車内を振り返ると、ユリスティアが少し気遣わしげな表情を浮かべていた。しかしレイフィルは彼女には構わずドアを閉めると、ミアの手を引いて歩き出す。
ミアはレイフィルと並んで建物へと近づいていった。階段に足を乗せ、二階まで上がると、これまた同じく穴が開き、錆だらけになった金属製の廊下が延びていた。鉄柵で守られただけの、壁もないその廊下は、特に大きな足音を立てなくても、ひどく騒がしい音を周囲に響かせた。ここまで大きな喧騒を響かせる建物に足を踏み入れたのは、ミアも初めてのことだった。音が響くたびに緊張で胸が高鳴るのを感じる。これまで、あまりにも家鳴りの音の大きな建物へは絶対に入ったりしなかった。音が大きく響けば響くほど、そこに人がいることの証明になってしまうだけではない、大きな家鳴りは、それだけ建物が傷んでいることの証でもある。いつ倒壊しても不思議はないからだ。
しかしレイフィルは、ミアとは違いまったく動じた様子もなく平然としていた。彼は二階の廊下に辿り着くと、階段から数えて三つめの扉をノックする。どうやらそこがラースの住んでいる部屋らしかったが、誰かが音に応じて出てくる気配はなかった。ミアはレイフィルに言われて彼の後ろに立っていたが、レイフィルが何度も繰り返しノックをし、住人に向けて呼びかけても何の応答もないことで、身を乗り出してドアの前に出た。音を立てないようにそっとドアに付けられたポストの蓋を押し開ける。ポストは住人が新聞や郵便物を受け取ったりするのに使うものなのだと以前に聞いたことがあったが、ミアにとっては錠前を不正に開けるために便利な蓋付きの穴にすぎなかった。このポストから長い棒を差し込んで鍵を開け、侵入することに母が長けていたことを、ふと思い出した。
ポストから覗き込むと、室内の様子がそのまま見えた。レイフィルの自宅とは違って廊下に扉のようなものは設けられていないらしい。部屋の奥にベッドと窓が見え、寝ている誰かの足が見えた。全身は見えない。ベッドの手前に大きな木箱みたいなものが置いてあって、ミアの目の位置からだとその木箱によってちょうど身体が隠れてしまうのだ。
「なかにいますよ。寝てるみたいです」
ミアがレイフィルを振り返って見上げると、彼は僅かに眉を顰めた。それから前よりやや大きめの声で室内に向かって呼びかける。しかし返答はなかった。物音も何も聞こえてこない。レイフィルは僅かに苛立ったような、怪訝そうな表情になった。思わずといった仕草で彼はドアのノブに手をかける。すると、力を込めたようにも見えなかったのに、ドアは簡単に動いた。
ドアが開いても誰も出てこなかった。それでレイフィルの表情は一気に警戒感を増したものになった。咄嗟にだろう、彼はミアを庇うような体勢でドアの陰に潜むようにする。室内の様子を窺っていた。しかしそうしていてもなお、誰かが出てくる様子はない。それでレイフィルは訝しむように室内を覗き込み、そして突然のように驚愕の声を上げた。慌てたように彼は室内に駆け込んでいった。
――どうしたのだろう?
ミアはその動きのほうに驚いてしまった。一人で廊下に残されたが、おとなしく外で彼を待っていようという気にはなれなかった。いったい何があったというのだろう。だんだん不安を抑えきれなくなってきた。ミアもドアのほうへ歩を進めた。室内を覗き込んでみる。
なかは狭かった。戸口から覗き込んだだけで、部屋に入らなくても広さがどれくらいなのか分かる。ドアを入るとすぐが部屋で、廊下のようなものはなかった。左に視線を向ければ、遮るものもなにもなくすぐ横にキッチンが見える。最低限の設備だけの簡素なキッチンから壁に沿って順に視線を向けていっても、壁に他にドアはなかった。部屋はこのひと部屋だけらしく、奥の窓際にベッドがある。レイフィルはその傍にいた。ベッドの脇に佇み、緊迫した表情でじっとその上を凝視している。何を見ているのかと、ミアは疑問に思った。ベッドに誰かが寝ているのはポストから見て分かっていたが、なぜその人をあんな険しい目で見ているのだろう。あの人がラースなのだろうか。
そう思うと不安と混ざるようにして好奇心が湧き上がってきた。気がついたらミアも室内に足を踏み入れていた。室内の床は薄汚れた板張りで、敷物の一枚も敷かれておらず、家具と呼べそうなものはベッドだけ。他には古びた木箱が一つだけ置かれている。覗き込むと、木箱は物入れになっていた。男物の衣服や生活用品が乱雑に押し込まれている。
家具がほとんどなくてもその木箱のせいで手狭に感じる室内を、ミアは奥のほうへと歩いていった。だがベッドに近づき、ラースらしき男の足が見えてきたところで、ミアの気配に気づいたのかレイフィルが振り返ってくる。すると、彼は慌てたように駆け寄ってきてミアを抱きしめ、ミアの視界を塞いできた。
「ミアちゃんはなかに入って来たらだめだ。こっちは見ないでくれ」
レイフィルの口調は常にはないほど狼狽したものだった。突然にそうした態度をとられてミアもうろたえてしまったが、続いて聞こえてきた彼の言葉に驚愕して、おとなしく彼の言葉に従った。ミアの視界にはレイフィルの身体以外なにも映っていなかったが、それを言われればミアにも何が起きたのか分かる。こういう時は刑事の言葉に従うのが最善のはずだ。
レイフィルはミアにこう伝えてきた。ラースがベッドの上で殺害されている、と。