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ヴァルダ~国なき人々~  作者: 神坂彩花
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レインロードの出会い

 レインロードは、国内屈指の繁華街のなかにある。

 かなり大きな商家ばかりが数多く建ち並ぶ区画にある街路の名前で、この街路は屋根が取り付けられておらず雨の日に雨水が直接降り注いでくることからレインロードと通称され、それがそのまま街路を指す名前になっているのだ。レインロードを有する地区は国内でも商業活動の活発な地域であり、大きな百貨店が幾つも軒を連ねている。規模の大きな商業地域なら雨天時でも買い物客が傘を使わずに歩けるよう、街路の上に屋根が取り付けられているのが普通で、地下街も地下道も多いものなのだが、なぜだかレインロードの上にだけは屋根などなかった。それがなぜなのかはミアには分からなかったが、それでも名の由来は知っている。ミアでも知っているぐらい、有名なのだということだろう。

 そのレインロードを管轄している地区の役場に、ミアがユリスティアやレイフィルたちと向かったのは翌日のことだった。ユリスティアと話をした時点で時刻は昼を過ぎており、日付が変わってからのほうが余裕をもって行動できるだろうということでそうなったのだ。役場は夕刻には閉まってしまうため、訪ねるのであればその前に行く必要がある。急げば昨日のうちに訪ねることもできたらしいが、ユリスティアがそれに反対したのだ。役場にはどうあってもミアを連れて行くことになるのだから、ミアの体調がもう少し整ってからにすべきだと彼女は主張していた。昼まで寝込んでいたような子供なのだから、そんなにすぐに寒い外を歩かせるべきではないと。それでミアはその日もそのままレイフィルの家で休み、翌朝になってから熱がないのを確かめられたうえで外に出ることになった。

 外に出るために必要な服はレイフィルが与えてくれた。彼が昨日、ユリスティアらと自宅に戻ってくるより前に近所の店で買い求めてくれていたらしい。ミアがもともと着ていた服は、手当てのために脱がせようとしてレイフィルが鋏で切り裂いてしまったらしく、すでに残っていなかった。それで彼が代わりとなる新しい服を与えてくれたのだ。今、ミアはその服を着ている。レースの飾りが襟につけられたブラウスも、細やかな刺繍の飾りが裾に入ったスカートも、ミアがこれまでに着たどんな服よりも心地よい肌ざわりがしていた。古着ではなく、新品なのかもしれない。足を守る靴も、柔らかい革の感触がして歩くのがまったく苦痛でなかった。いつまでも歩いていたいとさえ思えてくる。ミアの、この国の民にしては白すぎる肌は、それらの服の長い袖や裾、手袋や靴と、靴の色に合わせて穿いている濃い色のタイツで隠され、色が薄くてほとんど黄色に近い髪も後ろで一つに結ばれて、服と合わせて着せられた暖かな外套のフードで隠されていた。こうしておけばミアがヴァルダであることなど誰もすぐには判別できないだろうと、ユリスティアがいっていたからだ。

「大人だと雪でもないのにフードなんか目深に被って歩いてたら、それだけで怪しいものがあるけど、ミアちゃんは小さいから大丈夫よ」

 ユリスティアはミアに服を着せてくれながらそう言った。それで本当に大丈夫なのかとミアは不安に思っていたが、外に出ても誰からも嫌悪の視線が向けられない時間が長く続くと、次第に安心していくことができた。外に、といっても移動はほとんど自動車によるものだったが、ほんの僅か、地面の上を歩かされる時間も嫌な注目を受けることがないと、安心することができた。誰にも疎まれることのない移動というものが、これほど快適なものだとは、思ってもみなかった。

 もっともごく何人か、ミアのほうに視線を向けてくる者がいないでもなかったが、そういう場合はレイフィルの背後に隠れることでやり過ごすことができた。さすがに顔や瞳は隠す手段がないために仕方なくそうしたのだが、いかにも不自然な動きに見えはしないかと心配だった。しかしそうした心配はすぐに不要になった。行き交う人々は皆、なぜかとても不自然なはずのその行動を不審がるどころか微笑むような気配を残して通り過ぎていく。ミアはその気配が遠ざかるとそのたびに安心感を抱いたが、同時に怪訝にも思った。するとレイフィルが、ミアがそうしていると引っ込み思案な子供が見知らぬ大人に怯えて親の背に隠れているように見えるのだろうと教えてくれる。そんなものなのだろうかと思ったが、実際にそう見えるのであればありがたかった。ヴァルダだと気づかれていないということだからだ。

 そうしてようやく役場に到着すると、まずはここで、ラースという人物がレインロードの近辺に居住しているかどうかを調べることになった。ラースが市民であれば、たとえすでに転居していたとしても必ず役場に住民として生活していた頃の記録が残っているが、ヴァルダであったなら何もない。だからまず、役場でそうした記録の有無を調べる必要があるのだという。何も記録がなければラースはヴァルダであるという可能性も出てくるが、市民であるのなら役場に残っている記録からすぐにでも訪ねていける可能性が高いらしい。ヴァルダであったとしても、警察が追跡している者であれば名前や目撃情報から作成した似顔絵などの情報が役場にも保管されているのだそうだ。運が良ければ顔写真と簡単なプロフィールも保管されているという。特にレインロードを管轄している役場には多くのヴァルダの情報が記録として残っているらしく、それを見れば、そのなかにミアが見たあの夜の人物がいるかどうか分かるだろうと言われた。それを確認してほしいのだとユリスティアはミアに頼んでくる。ミアはその言葉に頷いた。そして生まれて初めて、役場のなかに入った。

 役場のなかには広大な広間があった。広間の奥のほうに大きなテーブルのようなものが延々と続いており、そのさらに向こう側は家具や何かの機械や、書類のようなもので雑然としていて大勢の似たような服装の人々が動き回っている。手前のほうはそれほど雑然としておらず比較的簡素だったが、代わりに無数ともいえる長椅子と小さな机のようなものが連なって大勢の人々が奔放に行き交ったり、あるいはそれらの机に向かって何やら書き物をしたりしていた。ミアはとりあえずフィリエルとともにそれらの長椅子の一つで待っているように言われて、そこに腰を下ろす。レイフィルとユリスティアは大きなテーブルのほうに近づいていった。二人はそこで役人らしい男性と何やら話し始める。ミアはその様子をぼんやりと眺めていた。

 何もしない時間をただ無為に過ごしていると、自然と周囲の人々の声が耳に入ってくる。特に左の壁際からの声はよく聞こえてきた。なんとなくそちらに注意を向けてみる。一人の男が壁沿いに並んでいる赤い機械に向かって、こちらに背を向けて何か喋っていた。

「――ええ、やっぱりそうです。記録はありませんでした。ヴァルダですね。間違いありません」

 男が話しかけているのが公衆電話機だということはすぐにミアにも分かった。街路にはその公衆電話機をおさめた電話ボックスが随所に設置されていて、狭いながらも屋根と壁で守られた小屋はよくミアも雨風をしのぐのに利用しているのだ。電話を使ったことはなかったし、使い方も分からなかったが、だから外観を見ただけでそれが電話機だということだけは理解できる。公衆の電話機は遠くからでも目立つように赤や黄色や、オレンジや、場所に合わせてかなり派手な色に塗られているから目立つのだ。ここの電話機は街路のそれのようにガラス張りの小屋には入ってはおらず壁際に据えられた横に長い台の上に数台が並べられているだけだったが、電話機の形はどこでも変わることがない。

「だからやっぱりさっきの考えで間違いないんだと思いますよ。キキはやはりヴァルダだった。すると、そういうことは充分に考えられると思います。身内にヴァルダがいれば誰だって不快でしょうし、警察だって相手がヴァルダならそんなに真剣には調べないでしょう」

 気になる言葉だった。ミアは電話機の男のほうに向けて身を乗り出した。もっとよく話を聞こうと思ったのだが、しかし男はすぐに会話をやめてしまう。電話機の傍を離れてどこかに歩いていった。ミアもつられて立ち上がり、そして何気なく横を振り返る。それで、今なら逃げられるかもしれないことを直感した。

 フィリエルは長椅子には座らず、すぐ近くの小さな机に向かって何やら熱心に書類を眺めていた。距離はミアが手を伸ばせば身体に触れられそうなほど近かったが、彼の視線はこちらを向いてはいない。フィリエルが目を通している書類は何か分厚い冊子のようなもので、背表紙にあたるところから紐のようなものが伸びて机の一端に結びつけられていた。彼の持ち物のようには見えなかったから、元からこの役場にあったものだろう。フィリエルが何を見ているのかはほとんど文字の読めないミアには分からなかったが、今が逃げる好機なのだということはすぐに理解できた。今は誰もミアを注視していない。手も握っていない。今なら上手くすれば捕まることなく、三人の刑事の視界から、完全に姿を眩ましてしまうことができるはずだ。

 それが判断できると、ミアは足音を忍ばせてゆっくりとその場から離れていった。すぐに役場の出口へ一目散に向かおうかとも思ったが、ふと思いついてその前に先ほどの男のほうへと向かう。彼は役場を出て行くのかと思ったが、まだ留まるつもりらしく近くの長椅子に腰かけていた。何やらノートらしきものを広げて、文字を書きつけている。読み書きを正式に習ったことのないミアにも、キキというあの被疑者の名前と、ヴァルダなどいくつかの字は理解することができた。だからといって男が何を書いているのかまでは読み取ることができなかったが、いくつかの言葉が分かるとミアのなかでやはりという思いとともに疑問も興味も湧いてきた。ひょっとしたらという思いも芽生えてくる。気がついたら自然に言葉が口から出ていた。

「――ヴァルダでも、俳優さんになれるんだ・・」

 すると声が聞こえたのか、男が驚いたようにこちらを振り返ってきた。そしてミアをしげしげと眺めてくる。

「お嬢ちゃん、なんだい?」

「べつに。おじさんのノートが見えたから。ヴァルダでも俳優さんになれるんだと思って」

 ああ、と男は自分の手許に視線を落とした。だからといって特に慌ててノートをしまう様子もなくぼんやりと自分の書いた字を眺めている。べつに見られても構わないものらしい。

「なれたということなんだろうね。芸能関係は身元の照会とかしないで雇うことも多いから、それでうまく劇団に入れたんじゃないかな。容姿を変えることはそんなに難しいことじゃないからね。髪は染めればいいし、肌の色だって、よほど極端な色をしてない限りは化粧で誤魔化せる。それでなんとかうまくこの国の民に化けることができたんだろう。そうしたら、なかなかかっこいい感じになったということなんだろうな。お嬢ちゃんもテレビ見たなら分かると思うんだけど、あのキキって男は美青年といってもいい見栄えをしてるからね。芸能の世界は見栄えの良さがとても強力な武器になるから、ヴァルダでも顔さえ整えられれば俳優になるのは不可能じゃない、それが今回の件で証明されたということだろう」

 容姿を変えることはそんなに難しいことではない。男のその言葉は衝撃とともにミアの心に深く滲みこんできた。たった一言でミアの心は根底から大きく動きを変えたような気さえする。容姿が変えられるなど、ミアは今まで思ってもみなかった。しかし、変えられるのならぜひとも変えたい。そうすればヴァルダのこの暮らしではなく、もっと普通の、市民のような暮らしを送れるようになるかもしれないからだ。キキという男と同じように、劇団に入って俳優になることも、できるかもしれない。

「俳優さんって、どうやってなるの?」

 思わず勢いこんで、ミアは男に訊ねてしまった。すると男は簡単に答えてくれた。特に考えた様子もなかった。

「普通のお店なんかと同じだよ。劇団なんかが志望者を公募してる。なりたい人はそれを見て応募して、オーディションを受けて合格すればいいんだ。競争の激しい世界だから、それで生活できる人は少ないけどね」

「公募って、どこで公募してるの?」

「お嬢ちゃん、役者さんになりたいの?」

 ミアが重ねて問うと、男は苦笑を浮かべながら逆に問い返してきた。

「だったらいいところを紹介してあげようか?お嬢ちゃんなら、たぶんどんな劇団でも子役に欲しがると思うよ。知り合いの劇団が今度オーディションやるから、そこにおいで。連絡してくれればおじさんが迎えに行ってあげてもいい。――うん、やっぱり可愛いね。目が大きいし、睫毛も長くて、そのわりに顔も小さい。お人形さんみたいだ。お嬢ちゃんならきっと合格するよ。フードなんか被ってるのはもったいない。顔がよく見えないからね。おじさんにもうちょっとよく顔を見せてくれないかな。役者さんを目指すんならもっとちゃんと顔を見せて歩かないとだめだよ」

 男は言いながらミアを覗き込むようにして笑いかけてきた。そして、何か紙片のようなものを取り出すとミアの手に押しつけるかのようにして渡してくる。それからフードを取ろうと手を伸ばしてきた。ミアはとっさにその手を避けて頭を押さえ、髪が露わになるのを避けようとする。急いで逃げようとして後退りし、足がもつれて背後に転びそうになったが、誰かに支えられて踏みとどまることができた。

「――ミアちゃん、心配になるから一人で動いちゃだめっていったでしょ」

 ユリスティアの声だった。しっかりと背後から抱きかかえられる感触がする。その腕のなかで振り返ると、ユリスティアが少し怖い顔をして傍に立っていた。彼女の傍にはレイフィルとフィリエルの姿も見える。どうやらもう用事は終わったらしい。

 ユリスティアはミアを抱えた腕を解くと、代わりにミアの手をしっかりと握ってきた。

「もう離れたりしないでね。一緒に来てくれる?ちょっと見てもらいたいものがあるから」

 そういって彼女はミアの手を引いていく。頷いて歩を踏み出すと、背後から男の声が聞こえてきた。歩きながら軽く振り返ると、男は満面の笑みを浮かべている。

「ミアちゃんっていうんだ。じゃあ、またね。おじさん連絡待ってるから」


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