レインの悪魔
「――屈強そうな感じね」
ユリスティアは時折、肌の色や瞳の色、髪型など、ミアが口にした真犯人の特徴を独り言のように口走りながらノートに鉛筆を走らせていた。室内にはその彼女の発する小さな呟きと、鉛筆の芯先が紙をこする微かな音だけが響いている。レイフィルやその隣に座る若い男が口を挟んでくるようなことはなく、ミアもまた、言うべきことを全て言ってしまえばもう彼女に対して話すことなどなかった。それで室内はユリスティアの周り以外、静寂が満ちている。
「――だいたいこんな感じの人かしら?」
その決して長くはないが短いとも言いがたい静かな時間が過ぎ去ると、ようやく描画を終えたのか、ユリスティアがミアにノートを見せてきた。ノートには、鉛筆の濃淡だけで一人の男性の肖像画が描かれている。それを見てミアは驚嘆してしまった。信じられないほどに臨場感のある、精巧な絵だったからだ。思わず息を呑んでしまう。色もついていないのに、まるで目の前にあの時の犯人がいて、今にもこちらに語りかけてきそうにさえ感じられた。
「・・すごい。すごい絵。――そうです。だいたいこんな感じです。刃物を持って、表情がもっと凶悪そうな感じになったら、あの時の犯人そのものです」
もっと凶悪そうなのね。ユリスティアはミアの言葉を確認するように繰り返すと、再びノートを自分のほうに向けて眺めだした。それからさらに鉛筆で何やら手を加え始める。しばらくしてその動きが止まるともういちど彼女はノートをミアに見せてきた。こんな感じ?と訊いてくる。
ミアは頷いた。もはや言葉なんか出てこないほど、ユリスティアの描いた絵は見事な出来栄えをしていた。ユリスティアの絵は、ミアの目には自分の記憶が自分の頭から飛び出して目の前に現れたかのように見えた。ミアはこれまで、絵といえば深夜の路上で不良たちが店のシャッターに書き殴る落書きぐらいしか見たことがない。だから人間がここまで見事に、まるで生きているように人間を描けるということが信じられなかった。
ユリスティアはミアが頷くと、絵をレイフィルたちにも見せていく。二人とも絵を凝視していた。ユリスティアは、ミアの証言を重く見て早急に被疑者の取り調べをやり直し、捜査を根本から見直すべきだと彼らに告げている。レイフィルはそれに対して同意の声を上げたが、それと同時に傍らの男も声を上げたため、全員がその男を振り返ってしまった。男は何かにひどく驚いたような表情で、じっと絵を見つめている。
「――あれ?この人・・」
「フィリエル、どうかしたのか?」
男の声にいちばん早く反応したのはレイフィルだった。どうやらあの男はフィリエルというらしい。フィリエルは絵から顔を上げると、レイフィルに視線を向けた。
「レイフィルさん、私、この男に見覚えがありますよ」
突然の告白だった。レイフィルがその声に目を見開いた。ユリスティアもまた、驚いたように目を見開いてフィリエルを見つめている。
「見覚えがある、のか?――まさか、おまえの知っている人物か?いったいどんな関係にあるんだ?最後に会ったのはどこだ?」
愕然としたように問うレイフィルに、フィリエルは首を振った。
「会ったことはありません。知り合いなんかではありませんよ。少し前に起きた現金輸送車の襲撃事件、その実行犯の一人に顔が似ているな、と思っただけですから」
「現金輸送車?レインロードで起きた、あの事件のか?」
レイフィルは勢いこんだように早口で問い質している。フィリエルはそれに静かに頷いていた。
「そうです。その時に目撃されたという実行犯の一人に似ているように思います。強盗とか、ひったくりとかの被害者の証言でもこの顔が出ることが多かったように思いますが。最近、そういった事件がレインロードの周辺では頻繁に起きているんです。だから、あの辺りに居住している者は、だいたい手配書でこの顔を見慣れていると思いますよ。私もそれで何度もこの顔を見ました。私は、自宅がレインロード沿いにあるものですから」
「――じゃあ、あの人がレインの悪魔なのかな」
気がついた時にはそう呟いていた。フィリエルの話を聞いていると、それだけでミアの脳裏には甦ってくる一つの忠告がある。同じヴァルダの女から得た忠告だった。レインロードには悪魔のように凶暴な男が棲みついているから、近づかないほうがいいというもので、その男を彼女はレインの悪魔と呼んでいたのだ。レインロードで多発しているという強盗やひったくり、それに少し前に起きたという現金輸送車の襲撃事件の実行犯に顔が似ているというのなら、たぶんミアが見たあの男がそのレインの悪魔で間違いないのだろう。そう思えば納得できる気がした。ミアはレインの悪魔がレインロードを拠点にして強盗や襲撃事件を繰り返していることを知っている。つい最近も、あの辺りで現金輸送車を襲っていたはずだ。
だが納得したのはミアだけのようだった。室内にいる三人の大人たちは、いっせいに理解できない言葉を聞いたような顔で振り返ってくる。ユリスティアが真っ先にミアに訊ねてきた。
「レインの悪魔?ミアちゃん、レインの悪魔って何?ミアちゃんはこの男が誰だか分かるの?」
絵を示しながら、彼女は詰め寄るようにして訊ねてくる。その気迫にミアは恐怖を感じたが、頷いてみせた。
「分かり、ます。名前だけ、知ってます。レインの悪魔は有名、ですから。レインロードに、住んでる、ラースって男は悪魔みたいに凶暴で、それで、そう呼ばれてるんです。気をつけなさい、って、言われたことあります。ラースは、ヴァルダでも市民でも構わず襲うから、特に女の子は気をつけなさいって」
「呼ばれてるって、それは、ヴァルダのあいだで、ってこと?」
ユリスティアは軽く首を傾げるようにした。ミアは頷く。それからユリスティアを見上げた。
「そうです。ヴァルダのあいだでは、有名です。それじゃあ、だめなんですか?」
「ううん、だめなんてことはないわよ。ちょっと、意外に思っただけ。ミアちゃんは、ヴァルダの人とだったら、よく話したりするの?」
「話します。ヴァルダはヴァルダとだったら、時々話します。それでいろいろ教えてもらったり、教えたりするんです。屑金属を買ってくれる商人がいるところとか、普通の人が寄りつかなくて気づかれにくい場所とか、炊き出しをしていてヴァルダにもパンをくれる人がいるところとか、いろいろ」
「へえ。ヴァルダはヴァルダどうしで繋がってるもんなんだね」
喋っていると、ふいに自分の言葉を遮られた。ミアは驚いて咄嗟に声の響いてきたほうを振り返る。感心したような声を発してきたのは、あのフィリエルという男だった。彼はミアの視線に気づくと微笑みかけてくれる。
「ああ、ごめんね。話の邪魔をするようなことをして。意外だったから、つい。私はヴァルダは孤立していて、互いの繋がりなんかも持ってないだろうと考えてたから。けど、ヴァルダはヴァルダと、ちゃんと支え合って生きているんだね。当たり前のことなのかもしれないけど、そのことに感心したんだよ。それに、おかげで助かったから。ミアちゃんがこの絵の男を、レインロードに住んでいるラースだと、そこまで分かるのなら、すぐにこの男の身元は特定できる」
その言葉に、ミアは思わずフィリエルを見つめてしまった。フィリエルの微笑みに他意は見えない。彼は本当に、言葉のとおりのことを思っているのだろう、そう感じられた。少なくとも表面上は、彼にヴァルダを軽んじている様子も、侮っている様子も見られない。ミアは戸惑った。何かを訊かれるのでも、命じられるのでもない言葉はほとんど聞いたことがない。今のような言葉には、いったいどういう言い返しが適切なのだろうか。
「――え?でも、ラースが、まだ、レインロードに住んでるかどうかは、分からないですよ。私は、話に聞いただけで、彼にはぜんぜん、会ったことがないですから」
言葉に迷う。それで考えた挙句にミアは思ったままを口にしていた。ラースはレインロードに住んでいる。それは確かなことだろう。だがそれが確実なのは、あくまでもミアがその話を聞いた頃のことだ。今も彼がそこに住んでいるとは限らない。ラースが市民であるとは限らないのだ。ラースがレインの悪魔と呼ばれるほど多数の凶悪な犯罪に手を染め、それを生業にして生きているのなら彼もヴァルダかもしれない。そしてもしもそうなら、ラースはもうとっくにレインロードを離れているのではないか。毎日塒を変える者だって、ヴァルダは決して珍しくないのだから。ヴァルダは別れたきり、二度と会えない者も多い。足跡を辿ることは容易ではないはずだ。
するとフィリエルは、戸惑うミアの言葉を肯定してきた。
「そっか。そうだろうね。でも大丈夫だよ。ミアちゃんはそんなことは何も気にしなくていいから。この男がレインロードに住んでいる、あるいは住んでいたラースという人物だと推定できるだけでも、今は充分だからね。それが分かっただけでも探すのはずいぶんと簡単になるんだから」
そうよ、とユリスティアも頷いてくる。
「ラースって男は有名なんでしょ?レインの悪魔という通称があるくらい。それなら、名前が分かっただけですぐに居所も分かるかもしれないわ。ミアちゃんはとても重要なことを教えてくれたのよ。私たちにはそれだけで充分なの」