ユリスティア
「目が覚めた?大丈夫?」
目を開けると、見知らぬ女性の顔が視界に飛び込んできた。
「少し気を失っていたんだけど、まだ苦しかったりするかしら?」
気遣わしげに訊ねられて、ミアは首を横に振った。首を動かすと、自分がどこかに横になっていることが分かる。背に感じる感触からすると、今朝まで寝かされていたあのベッドのようで、ミアはそれが分かると両腕に力を込めてその場に起き上がった。見ず知らずの人間の前で無防備な姿をさらすことには抵抗がある。
「もう、起きても大丈夫なの?まだ寝ていていいのよ」
身を起こすと、女性は慌てたような仕草でミアの身体を支えようとしてくれた。ミアは彼女に対して頷いてみせる。
「大丈夫です。もう起きられます」
言って、ミアはあらためて女性の顔を正面から見つめた。すると女性は、ああ、と何かに納得したような顔で頷いてくる。
「私はユリスティアっていうの。この人の同僚よ。呼びにくいならユリィって呼んでもいいから。みんなそう呼ぶからね」
ユリスティアと名乗った女性は、そう言うと軽く自分の背後を振り返った。そこにはレイフィルと、もう一人、ミアには誰だか分からない若い男性の姿がある。二人とも扉の傍で椅子に座って、こちらを見ていた。
「あなたはミアっていう名前なんでしょう?ミアちゃんって、呼んでいい?」
ユリスティアが訊いてきた。ミアは黙って頷いてみせる。すると彼女は微笑んで、軽い感じで言葉を付け足してきた。
「ありがとう。可愛い名前ね。ミアって名前なら、やっぱり元々はソフェランザの生まれなのかしら?ソフェランザから来たの?」
「ソフェ・・?」
ミアは首を傾げた。ユリスティアの発した言葉の意味がよく分からなかったからだ。彼女の言葉を繰り返そうとしても、うまく発音できない。ユリスティアはいったい、ミアに何を訊きたいのだろうか。
「違う?だったらごめなさいね。ミアって、ソフェランザの言葉で春っていう意味だから、そちらの出身かと思ったのよ。夏がレラ、秋がキキ、冬がティダだったかしら。ミアちゃんはあの国の人に風貌が似てるから、それでもしかしたらと思ったんだけど」
「――あの、ソフェランザ、って、なんですか・・?」
恐る恐る訊ねてみた。今度はどうにかしっかりと発音することができたが、会ったばかりの女性に対して質問するのは緊張する。ユリスティアは気安げに応じてくれたが、ミアの心は強張ったままだった。
「ああ、知らない?じゃあ、やっぱり違うのね。あのね、ソフェランザっていうのは、この国のずっと東のほうにある国の名前よ。船で二月ぐらいかかるところにあるから、国交もないし、国民同士が行き来することもあまりないんだけど、ミアちゃんがソフェランザの言葉を名前にもっているのなら、ひょっとしてその国の出身なのかなと思ったの」
東の、国。ミアは呆然とユリスティアの言葉を口のなかで転がしてみた。その言葉の意味は分かった。国とはある特定の場所を表す言葉のはずだ。ヴァルダはこの国では排除される、その言葉をミアは何度も聞いていた。この国というのが、ミアが今もいるこの場所のことを指すのなら、この国のずっと東にある国というのは、この場所とは全く異なる場所のことではないのか。その場所へは、行けないのだろうかと思った。ヴァルダが排除されるのが、もしもこの国だけのことなら、その東の国に行けば、排除されないのではないのか、もっと暮らしやすくなるのではないのかと思えたのだ。
「・・ソフェランザって、どうやって行くんですか?」
ミアは身を乗り出した。気がついたときにはそう訊ねていたが、しかしユリスティアは少し困ったような表情をみせただけだった。
「どうやって?・・うーん、ちょっと口で説明するのは難しいかな。私も一度しか行ったことのない場所だし。けど、行くとなるととてもたいへんなところなのよね。けっこう何度も船を乗り継がないといけないから。行ってみたいの?」
ミアは頷いた。しかしソフェランザに続いて出てきた初めて聞く言葉にミアの頭は混乱していた。船ってなんだろう、歩いてはいけないのだろうか。だとしたら、自分にソフェランザまで行くことは不可能ではないのか。そうなのだろうか。
歩いては行けないかもしれないと思えると、ミアのなかのソフェランザへの興味は急速に萎んでいった。もしそうならミアにそこまで行くことはできない。不可能だ。たとえユリスティアに行き方を聞いたところで、行くための手段がない。ヴァルダの自分を乗せてくれる乗り物などあるはずがないのだから。
「――ミアちゃん、どうしたの?また、気分が悪くなった?」
ふいにユリスティアがミアの顔を覗き込むようにしてきた。どうやら彼女はミアがソフェランザへの興味を萎ませたのを、体調を崩したと勘違いしているらしい。心が萎むとそれは表に出るのだろうか、そう思いながらミアは首を横に振った。
「大丈夫、です。そんなことありません」
「本当に?もう苦しいところはない?寝てなくても大丈夫?」
ミアは再度頷いた。
「じゃあ、あと少しだけ私はミアちゃんとお話したいんだけど、いいかしら?」
「いい、です。何が訊きたいんですか?」
ミアはユリスティアを見つめた。するとユリスティアは短く答えてきた。ミアちゃんが見たもののことだという。
「ミアちゃんが一昨日の夜に見たもののことを教えてほしいの。見たんじゃないの?人が殺されるところ」
ユリスティアは静かに見つめ返してきた。穏やかな視線だったが、ミアにとっては鋭く突き刺さる刃のようだった。聞いたばかりの言葉の、あまりの衝撃に全身の血の気が引いていくのが分かる。身体じゅうを震えが走った。思わずユリスティアから目を逸らす。とても正視してはいられなかった。彼女と相対していることすら怖くてたまらない。慌てて首を振った。とにかく強く否定せねばならないと思った。誰にも、あの夜の自分の行為を知られてはならない。絶対に。
「み、見てません。そんなところ。見てないです。子供が、殺されるところなんて、絶対に、見てません」
しかし大急ぎで否定したミアの言葉は、ユリスティアには受け入れられなかった。彼女のミアを見つめる視線には険しさが増していく。嘘をつくのはよくないわよ、とユリスティアはミアを窘めてきた。
「嘘じゃないです。本当です」
ミアは重ねて訴えた。しかしユリスティアは納得してくれなかった。
「じゃあどうしてミアちゃんは殺された人が子供だって知ってるの?」
容赦のない詰問だった。ミアは反射的に言い返そうとした。だが巧く言葉が出てこない。なんと答えたらいいのか分からなかったからだ。それでミアはやっと自分が言うべきではないことを言ってしまったことに気づいたが、気づいたところでもうどうすることもできない。
沈黙の時間はしばし続いた。ミアが何も言わないでいると、ユリスティアも何も言ってはこなかったが、先にその静寂を破ったのはユリスティアのほうだった。今度は優しげな口調で、彼女はミアに話しかけてくる。
「・・ミアちゃん、私が怖い?」
思わぬ一言に、ミアは再びユリスティアを正面から見つめた。彼女は軽く首を傾げるようにしている。
「それとも刑事が怖い?だから本当のことは言いたくないの?」
今度は問い詰める調子ではなかった。本当に単なる問いかけのように聞こえる。しかしそれでもミアは咄嗟に首を振ってしまった。無意識にそうしていたのだ。怖いのは真実だったが、とてもそれを口に出せる気にはなれなかった。下手なことを言えばもっと怖いことになると、経験で知っていたからだ。刑事を怒らせかねないことを言うべきではない。そんなことをしても、いいことは何もない。
するとユリスティアはますます首を傾げるようにしてきた。
「私は怖くないの?じゃあ、どうして本当のことを言ってくれないの?それとも一昨日の、犯人が怖かった?」
ミアは頷いた。勿論、窓越しに見たあの殺戮は怖かった。しかし本当に怖いのはそのことではない。それを目撃したことを正直にユリスティアに伝えることで、自分の行動が目の前の女刑事に知られることだ。そんなことになれば、あの犯人も捕まるかもしれないが、同時に自分も捕まってしまう。捕まれば、自分のようなヴァルダはそれこそどうなるか分からない。それが、怖かった。
だから決してその恐怖が表に出ないよう、ミアは必死で自分を抑制していた。そうしていると、ユリスティアが何かを理解したような表情で、そっとミアの手を握ってくる。彼女は慰めようとでもするかのような眼差しを、こちらに向けてきていた。
「・・なら、その怖い人のことを、私に教えてちょうだい。ひょっとしたら、まだ平然と近くを歩いているかもしれないでしょう?」
諭すような口調だった。ユリスティアはまっすぐにミアを見つめてきている。
「ミアちゃんは怖いところを見たのよね?それで怖くて怖くてたまらなかった。けど、その怖いことをなした人は、まだこの近くを平気な顔して歩いてるかもしれないの。だって、ミアちゃんが見たのは、この人じゃなかったんでしょう?」
そう言いながら、ユリスティアは自分の上着の懐から何かを取り出してきた。それは本のような形をした小さなものだった。彼女はそれを開いてなかから小さな紙片のようなものを摘み出すと、その紙片をミアに見せてくる。
「この写真をよく見てみて。ミアちゃんが一昨日の夜に見た怖い人は、この人じゃなかったのよね?」
言われてミアはその写真を見つめた。写真には一人の男の顔が写っている。ミアにも見覚えのある顔だった。昨夜、この部屋のテレビに映った顔だ。まだ憶えている。
しかし勿論、ミアにとっては昨日、テレビで初めて見た顔にすぎなかった。この男がどこの誰であるのか、ミアは知らない。それでミアはユリスティアの問いに頷いた。一昨日、あの家で女の子を殺していたのは、この男ではなかった。それは断言できた。この男とあの夜の殺人犯は顔が違いすぎる。明らかに別人だ。一目見ただけでも分かる。
「この人ではなかったのね?確かなことね?」
ユリスティアは念を押すように訊いてきた。それでミアはもういちど頷いてみせる。違います。
だがそう答えた時、ミアはやっと気づくことができた。今の発言は自分があの夜の事件を目撃したと事実上認めたのと同じだ。目撃を認めることはミアがあの家で盗みをしたことを認めるのと同じことで、なのに自分は、迂闊にも簡単にそれを認めてしまっている。自分の生命に関わりかねないというのに。
反射的に逃げたくなった。このままでは捕まる、捕まればいずれ自分も殺されると思った。自分の手を握ったままのユリスティアの掌の温かさが、いっそうその恐怖を助長する。ミアは身をよじり、なんとかその恐怖から逃れようとしたが、そうして彼女の手の力に抗っていると、ふいにユリスティアに抱きすくめられた。ユリスティアの腕の力は存外に強かった。その彼女にしっかり抱きしめられていると、ミアは満足に動くこともできず、いっそう恐怖に戦慄いた。
「ミアちゃん、落ち着いて」
ユリスティアはミアをしっかりと抱きしめながら、宥めるように背を軽く叩いていた。
「ここは怖いところじゃないから。ミアちゃんが怖い思いをすることはないのよ。怖かった日のことを思い出させてごめんね。安心して、もう大丈夫だから」
ユリスティアの口調は本当に心からミアを安心させようとしているように聞こえた。けれどもミアはとてもそんな気分になどなれなかった。意識した時には口が動いていた。どうして、と思う。どうしてと、無意識のうちに感じていた疑問が喉の奥から迸った。どうして自分の行動が、こうも簡単に刑事に知られてしまったのだろう。ミアはあの家に忍び込む時、絶対に見つからないよう、細心の注意をもって動いたのに。
「――大丈夫。大丈夫だから。落ち着いて」
混乱して、自分でも何を言っているのか分からない自分の声に、重なるようして再びユリスティアの声が聞こえてきた。まるであやすような響きをしていた。
「落ち着いて。私たちは何も怖いことはしないから。ミアちゃんを捕まえたりもしないから。大丈夫だから落ち着いて。そもそもこの国の警察は、十歳以下の子供は逮捕したりしないものなの。そういう決まりがあるんだから、心配しなくていいのよ。ミアちゃん、まだそんなに大きくないでしょ?」
訊ねられたが今度はミアは返答しなかった。答えられなかったからだ。ミアは自分の年など知らない。そもそも生まれた場所も知らないのに、誕生の日付など分かるはずがなかった。だから年の計算などできるはずがなく、そんな言葉には何の意味も持たない。意味がないどころか、ミアはその言葉には反発したい思いを抱いた。この国の警察が守るのは、この国の民だけではないのか。ヴァルダはそこには含まれない。なのにどうして、まるでヴァルダまでも守ってくれるかのようなことを言うのか。
けどそんな反発の心など、表に出せるはずもなかった。諦めがミアを支配していた。こうなったらもう、見たことを全部話してしまおうと思った。それがユリスティアの望むことなのだろうから。彼女がそれを望んでいるのなら、ミアがそれを話せば彼女は満足するだろう。そうすれば、きっとミアにとってもいいにちがいない。いま自分はこうして彼女に捕らわれたも同然の状態になっている。けど、人は満足すれば必ず隙を作るものだ。隙が生まれれば油断もするだろう。そうなったらこの窮地を脱することもできるはずだ。逃げることだってできるだろう。
そう思い、ミアはゆっくりと口を開いた。そしてあの夜に自分が何をしたのか、何を見たのかを、そのままユリスティアに対して語り始めた。