逡巡
――どうしよう。
ミアは自分がどうすべきか、判断に迷っていた。
落ち着かない気分を弄びながら、室内を見渡す。もう何度も繰り返して、癖のようになった動きだった。しかし何度見ても、レイフィルの姿はない。当然だ。まだ帰ってきていないのだから。耳をすましても彼が帰ってくる足音は聞こえない。辺りには静寂だけが漂っている。それがさらにミアの不安を助長していた。彼がいないことが、これほど自分の判断を迷わせるとは思わなかった。どうしたらいいのか分からない。いったいどうすることが、自分にとって最善なのだろう。
――待ってて、っていってた。でも本当に、待ってていいの?
不安は全て、その疑問を根源としていた。ミアは昨日、ここで目覚めてからずっと、この部屋に留まっているのだ。レイフィルに身体を休めているように言われ、夜になっても彼と同じ部屋で休み、朝にはパンと野菜スープの朝食と、薬も与えてもらった。その時にレイフィルが言ってきたのだ。自分は今から出かけるけど、帰るまでおとなしくこの部屋で待っているようにと。そしてそのまま彼はどこかに出て行った。レイフィルが外に出たのは早朝のことだったから、もうけっこうな時間が経っていることになる。窓を振り返れば、空の高い位置から陽光が射し込んでいた。
――私は今から出かけるけど、ミアちゃんはここにいなさい。もう大丈夫だと思っても、この部屋で私が帰るのを待ってるんだ。後でいろいろ聞きたいことがあるからね。言うとおりにしてほしい。
レイフィルはそう言っていた。そしてどこかに出て行ったのだ。それきりまだ帰ってきていない。それでミアの心には不安が生まれていた。朝に目覚めてすぐの頃は、まだ少し朦朧としていたものの、今は朝食の時に飲まされた薬が効いてきたのか、昨日よりはだいぶ楽になっている。しかし楽になったことで、迷いも生まれてきていた。本当にレイフィルの言葉に従ってもいいのかという迷いだ。本当にそうしてもいいのだろうか。それとも、彼がいない今のうちに、逃げておくべきなのだろうか。
勿論、正しいのは逃げておくほうだろう。そのことはミアにも理解できている。なにしろレイフィルはミアが犯した窃盗の事実に、すでに気づいているのだから。それに気づいているのなら、今はまだミアが泥棒だとは知らなくても、彼がそのことに気づくのは時間の問題だ。だったら、いま一人でいるうちにどこか遠くへ逃げて行方をくらますのが自分にとっていいはずだった。彼がその事実に気づいてしまえば、それと同時にミアは捕まってしまうのだから。
しかし決心はつかなかった。そもそもミアは、逃げようにもいま自分がどこにいるのか分からない。まだ最後に辿り着いた、あの路地からそれほど遠いところへ移されたわけではないだろうと思えるのだが、そうとも限らないだろう。何度かそれを知る手がかりを得ようとはしてみたが、ミアには窓の外を窺い知ることすらできなかった。窓は床から天井までの高さがあって、外には狭いバルコニーのようなものがあるのだが、そのバルコニーのコンクリートの壁が、ミアには高すぎて外の景色が見えないのだ。攀じ登れるような突起もなく、どうやっても壁の向こうが分からない。バルコニーがあるということは、おそらく二階以上の高さにあるのだろうが、それ以上のことは何も分からなかった。分かったとしても、この部屋が二階以上の高さにあるのなら、バルコニーから逃げることはできない。部屋のなかには梯子などないのだ。そしてこの部屋には、バルコニーに面した窓以外に、ミアにも手の届く窓はなかった。窓自体は他にもあるが、高くてミアには鍵まで手が届かないのだ。
バルコニーがだめならと、勇気を振り絞ってミアは外へ通じるドアも開けてみたが、こちらは少し開けただけで外に出るのを断念せざるをえなかった。ドアの向こうは殺風景なコンクリートの床と天井をもつ通路が、高さの低い壁で守られているだけで、容易く歩いていけそうだったのだが、問題はその通路の天井近くに設置された、無骨な機械の存在にあったのだ。ミアはその機械に見覚えがあった。
――あれ、少し前に忍び込もうとした家にあったものと同じやつだ。前を通っただけで光が灯って、大きな音が鳴るやつ。
それがなんという機械なのかは、ミアには分からない。しかしあれが、少なくとも自分にとってはよくない機械だということは、よく分かっていた。あの機械から音が鳴り響くと、すぐにどこからか大勢の人々が駆けつけてくるからだ。だからミアはいつも、あの機械が設置されている近辺での盗みだけは避けていた。ミアにとってあの機械のあるところはすなわち、近づくだけで大勢の人々を呼び寄せてしまうところだ。無事に通路に出られても、その瞬間に取り押さえられては意味がない。そしてあの機械の前を通らなければ、ドアの前に伸びる通路を抜けられないのだということは、一見しただけでも理解できた。
――通路は通れない。でも、窓からも出られない。どうしよう・・。
逃げられないのなら、もうこのまま言われたとおりここでレイフィルの帰りを待ち続けるしかできることはないのかと思った。しかしそれではいずれ必ず捕まるのではないかという不安が、どうしても消えてくれない。本当に彼の言ったとおり、ここでレイフィルの帰りを待ち続けていいのだろうか。そうして本当に、自分は安全でいられるのだろうか。
その不安と迷いで、ミアは自分でももうどうしたらいいか分からなくなっていた。とても落ち着いて休んでなどいられず、意味もなく室内を歩き回って、疲れると床に座り込んだが、床の冷たさも気にはならなかった。それどころではなかったのだ。不安を感じれば、呼吸が速くなっていくのも分かる。呼吸が荒くなれば、次第にそれと重なるようにして胸の苦しさや眩暈も増していった。ミアは堪えかねてその場に蹲った。もはやできることはそれしかなかったのだ。
そうして蹲っていると、しばらくして外から人の気配が漂ってきた。ミアがそのささやかな気配に緊張していると、急にドアが開く音がする。それに思わず身を竦めてしまった。すぐに話し声とともに誰かの足音が響いてくる。その音が近づいてくると、ミアは不覚にも安堵のあまり泣きそうになった。さっきまで逃げようかどうしようか迷っていたのに、なぜだろう。どうして彼が戻ってくると安心感が湧き上がってくるのか。自分は彼の存在に、あれほど不安を感じていたはずなのに。
「――今朝の時点で、それほど高い熱はなかったから、たぶんもう心配はいらないだろう」
聞き慣れた声とともに、複数の足音がこちらに迫ってきた。外に出るドアと、キッチンのある部屋のあいだには、すりガラスの入った鍵のないドアがある。二つのドアのあいだには短い通路があった。そのすりガラスのドアが開かれる音がすると、すぐにこちらに駆け寄ってくる気配がある。
「――ミアちゃん、どうした?」
ふいに呼びかけられ、抱き上げられる感触があった。誰かの手が背を撫でてくれる。とても優しい感じがした。
「大丈夫か?まだ気分が悪いか?」
レイフィルの声だった。大丈夫だと、ミアはなんとか彼にそう答えようとしたが、呼吸が苦しくてうまく言葉が紡ぎ出せなかった。それでもなんとか口を動かしていると、すぐ近くで女性の声が聞こえてきた。ミアには全く聞き覚えのない声だった。
「気分が悪いというより、息が苦しいんでしょう。まだ休ませてあげたほうがいいと思いますよ。どんな病気だって、そんなにすぐには治りませんから」
その声でようやく、ミアは部屋に入ってきたのがレイフィルだけではないことに気づくことができた。彼女は誰だろう。どうしてこの部屋に来たのだろうか。
「そうだな。もうしばらく寝かせて様子を見よう。話を聞くのは明日でもいいんだからな」
続いてレイフィルの囁くような声もミアの頭上で響いてきて、すぐにミアは自分の身体が動くのを感じた。自分で動かしているのではない。自分の身体が、レイフィルの手によって抱えられたまま運ばれているのだと、感覚で理解できた。懐かしい感覚に、ミアは思わず目を閉じてしまう。
――レイフィルさん・・。おかあさん、みたい。
場違いな記憶が脳裏を過ぎる。それでもその感覚は、まさに小さい頃にミアが感じていた母の腕の感触にそっくりだった。小さいミアを抱いて、あやしてくれた母の記憶が甦ってくる。その記憶の再臨は、ミアにこれ以上ないほどの安心感をもたらした。他人に抱えられることは、その人物に自分の自由を奪われることになるというのに、それを警戒する思いも浮かんではこない。ミアは自らレイフィルに身を預けた。久方ぶりに、心の底から安らげる気がした。