思いの図り方
――いったいどうしたんだ?
レイフィルは急に様子の変わったミアを訝しく思った。
ミアの顔色は今や蒼白になっていた。もともと血の気がいいとはいえなかった肌がみるみるうちに色を失っていく。体調が悪化したのかと思ったが、なんとなくそのようには見えなかった。確かに、まだ万全というわけではないはずだが、様子の変わり方がレイフィルにも奇妙に思えたのだ。レイフィルの目には、ミアは何かにひどく怯えているように見えた。レイフィルは職業柄、刑事を前にして怯える人間は見慣れているが、ミアの様子はまさに、そういった人間の様子に酷似していたのだ。だがいったい、彼女が何にそれほど怯えなければならないというのだろう。レイフィルは先ほどまで、あのキキとかいう男が犯した事件のことを話していた。その事件を、隣家に侵入した泥棒が目撃したかもしれないと話したら様子が変わったのだ。いったいこの話のどこに、彼女が怯えなければならないものがあるというのか。
――今の話は、子供にとってそれほどに恐怖をもたらすような話だったのだろうか?
レイフィルは思わず首を傾げてしまった。レイフィルには子供はいない。自分の子供時代などは遥か彼方に飛び去ってしまい、子供の心を理解することは彼にとって容易いことではなかった。ましてやレイフィルは男で、女の子の心などこの年になっても未だに摑みきれないものがある。だからだろうか、レイフィルにはいくら考えても、たった今まで話していた自分の言葉に子供が怯えるべきものを見出すことができなかった。ミアが何に対して怯えているのか分からない。分からないから、いったいどういう言葉で彼女を慰めたらいいのかもまた、分からなかった。
途方に暮れてしまう。泥棒を捜しているという話を主にした相手が、急にその話をした刑事に対して怯えだしたのなら、普通はその怯えた人物が、その泥棒と何か関わりがある、あるいはその泥棒本人だと考えるのが妥当だという気がする。実際、ここが取調室だったならレイフィルは深く考えず真っ先にそう考えただろう。しかしここは取調室ではない。目の前の人物も何かの事件の被疑者というわけではなく自分が拾った無力な子供だ。そんなことはありえないだろうと思える。こんな小さな子供に、深夜に誰にも気づかれずに他人の住宅に押し入るような、盗賊まがいのことができるとは考えにくかった。
――いや、そうとばかりもいえないのか・・。
レイフィルはふと思い直した。彼女はヴァルダだ。ヴァルダなら、あるいは子供でも可能なのかもしれないと気づいたからだ。ヴァルダにとって、盗みは生活の一部になっているらしいと聞く。少なくともレイフィルの同僚たちは、そのことをよく口にしていた。それが事実なら、幼い子供でもヴァルダであれば他人の住居に侵入する術ぐらいは心得ているのかもしれない。嘆かわしいことではないだろう。別名を無籍の民と呼ばれるヴァルダが、どこの国にも国籍を持っていない現状では、それは必然だからだ。国籍がなければどこの国にも定住することができない。そして定住することができなければ、まずまともな仕事には就けず、学校に通うこともできないのだ。働くことも、そのために学ぶこともできなければ、生きるための手段など選んではいられないはずで、彼女があの夜、あの家に侵入した泥棒であったとしてもそれは驚くべきことではないし、責められることでもない。だがそうだとすると、レイフィルはいったい、彼女に対してどんな言葉をかけてやればよいのだろうか。
――下手に問い詰めるようなことを言うわけにはいかないな。そんなことをすれば、それだけで彼女はもう、何も言わなくなってしまうかもしれない。
そうでなくても彼女は今すでに刑事である自分に対して怯えているのだ。怯えて口を噤み、こちらに対して何も言おうとはしてこない。このうえさらに追い詰めるようなことをすれば、レイフィルは二度と彼女からまともな言葉を引き出すことはできなくなってしまうかもしれなかった。しかし、それならばいったいどうするのが最善だろうか。このまま時間の経過によって彼女の心が和らぎ、自然に口を開いてくれるのを待つべきか。いや、そんなことをするのは現実的ではない。なによりありえないだろう。それに、そんなに長いあいだ待っていることもできない。キキという男はすでに逮捕されているのだ。被疑者が捕まれば、いくらもしないうちに裁判が始まってしまう。そして裁判が始まってしまえばレイフィルはもはや彼に対して何をしてやることもできないのだ。被疑者を勾留する権利も、事件を捜査する権利も警察から離れてしまうのだから、いちど裁判が始まってしまえば刑事のレイフィルとて、そのへんの市民と変わらない立場になる。事件のことで第三者から新たな証言を引き出し、それを提示して証拠としたかったら、その前でなければならなかった。そうでなければ意味がない。
そのためにも急がなければならなかった。ミアがあの夜の泥棒なら、レイフィルはできるだけ早くに、ミアから言葉を引き出さねばならない。ミアはキキの指紋が犯人の指紋と一致したことに疑問を感じているように見えるではないか。では、なぜ彼女がそこに疑問を覚える必要があるのか。それはもしかしたら、彼女があの家で事件を目撃していたからではないのか。突飛な考えとは思わない。そう考えれば、彼女の様子には合理的な説明がつくからだ。彼女があの夜、あの家に侵入した泥棒であり、物色のさなかに隣家で起きた事件を目撃して、そのまま逃げたのなら、今の様子は極めて自然なものに見える。その際に、彼女は犯人を見ていたのではないのか。その犯人の顔と、キキの顔が違っていたのならば、彼女がキキを犯人としていることに疑問を感じても妙なことはない。そしてもしもそうだとしたらこれはたいへんな事態だった。なんらかの原因で指紋の照合が適切に行われなかったことを示しているからだ。そのために事件とは全く無関係の人間が逮捕されているのである。そんなことがあっていいはずはなかった。しかも、この事件では七人もの人間が無惨に殺されている。被害者のなかには幼い子供もいた。このまま誤った証拠を基に裁判が始まるようなことがあれば、無実の人間が有罪となり極刑となってしまう恐れさえある。そんなことだけは絶対にあってはならない。無実の人間が司法の力で殺されるような事態だけは、なんとしてでも避けねばならなかった。そんなことが起これば、殺人犯になるのは他ならぬ自分――警察ではないか。
――とりあえず、先にその可能性があることだけでも伝えておいたほうがいいかもしれない。
レイフィルはそう思い、ミアにまだもうしばらく休んでいるように告げると、足を寝室の外へと向けた。テーブルに歩み寄って電話機の受話器を取り上げると、プッシュボタンに指を這わせる。フェリキスは今日はもう戻らなくてもいいと言ってくれたが、だからといって家でゆっくりと子供の世話だけしているわけにはいかない事態になってしまった。今日じゅうに、せめてキキという男がどういう経緯で被疑者と断定されたのか、それのさらに正確なところだけでも知っておかねばならない。知った上で、自分の懸念を同僚らに伝え、意見を聞く必要があった。その返答次第では、捜査を最初からやり直すことも検討する必要がある。勝手な理由で早退した人間が、電話で業務を乱すような真似をするのも気が咎めるが、今だけは勘弁してもらおうと思った。本来なら、自分も今頃はあの男の尋問やら何やらといったことに忙殺されていたはずなのだから、自分が事件の情報を知ろうとすることには、問題ないはずだろう。
悠長にしているわけにはいかない。このままでは裁判が始まってしまうまで、ほとんど時間はないのだから。