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ヴァルダ~国なき人々~  作者: 神坂彩花
10/26

ニュース速報


 起きたのなら、何か温かいものでもあげようねと、そういってレイフィルと名乗った男が部屋を出て行くと、ミアは視線だけで彼を見送った。部屋を出入りできる扉は開け放たれている。横になったままでも、隣室の様子がよく見えた。あの廃屋の部屋と、変わらないぐらいに見える広さの室内で、彼は壁際に向かっている。壁際にはキッチンのような設備が見えた。レイフィルはその設備の前で何やら手を動かし始めている。それでミアは、まだ朦朧としたようになっている意識を無理に凝らして、その間に彼の背後に広がる隣室の様子と、いま自分がいる部屋の様子に視線を走らせた。自分がいるのがどういう場所なのか、それだけは把握しておきたかった。

 重い瞼を意思の力だけで懸命に押し上げる。まだ完全に覚醒したとは言い難いミアの意識は、少しでも油断すればすぐにまた闇の底へと落ちていってしまいそうだった。自分の意識を自分で必死に支えながら、同時に周りにあふれる様々なものをも認識しようと試みる。しかし、なかなか認識に合わせて考えが動いてくれなかった。視界に入ってきたものを、頭で捉えて考えようとすると、とたんに思考が拡散してしまう。認識が、頭に残ってくれない。

 次第に、ミアは自分が何を考えているのか、分からなくなってきた。キッチンには、レイフィルと名乗った知らない男の人が立っている。彼の背後には、少しの間隔を置いてキャビネットがある。キャビネットは壁際にある。そこまでは見える、分かる。ミアは断片的に飛び込んでくるそれらの現実を、少しでも多く受け止めようとした。考えられないのなら、せめて見ていたかった。キャビネットにはテレビが据え置かれている。音は聞こえない。しかし画面は見えている。ここにいても見えた。あの廃屋にあったテレビよりも何倍も大きくて映りのよいテレビだった。ここからでも画面に何が映っているのか、確認することができる。画面には若い女性が、どこかの住宅地の路地のようなところを歩きながら、何かを話している様子が映っていた。

 その画面のほうに視線を向けたとき、ミアの頭のなかにはレイフィルの言葉が甦ってきた。彼は、倒れている人がいたら助けるのが当たり前だと言っていた。病院に連れていきたかったけどできなかったというようなことも、自分には病人にしてあげられることがほとんどないから心配だとも言っていた。そんなことを他人に言われたのはミアにとって生まれて初めてだった。医者はヴァルダの治療なんかしてくれないのが常識だ。ヴァルダは人ではないのだから。人ではないものを診る医者なんかいない。いたとしてもミアには医者の治療を購えるような金銭なんかない。ミアにとって、具合が悪くなったら人目につかないところで蹲っているのが当たり前のことだったのだ。それしかできることがないのだから。それで治ったら運が良かった。そのまま死んだら不運だっただけのことだ。事実、そうして死んだ同じようなヴァルダの子を、ミアは幾人も知っている。ヴァルダが死んだら役所の者がやってきて、ごみ袋に詰め込んで街の隅にある廃棄物処理工場で、ごみと一緒に焼却するのだ。それがミアにとっての常識だった。

 なのに彼はそんなミアでも助けようとしてくれた。自分のような汚らしいヴァルダを、病院に連れていけないという理由で自宅にまで連れてきて、休ませてくれた。治療らしい治療をしてやれないから心配だとまで言ってくれた。そんな人に会ったのはミアにとって今が初めてだった。こんな人も世の中にはいるのかと思った。これは、彼が善意と親切でしてくれているのだろうか。それとも、彼には何か、彼自身にしか分からない思惑があって、あえてヴァルダに過ぎない自分にも、親切にしてくれているのだろうか。

 そんなことをぼんやりと思っていると、レイフィルがカップひとつだけを手に持ってこちらに戻ってきた。白いカップのなかには、透き通った液体が入って温かな湯気を上げている。単なるお湯かと思ったが、彼に支え起こされて口に含んでみると、ほのかに甘酸っぱかった。

 初めて感じる味に、ミアが何という飲み物だろうと首を傾げると、レモネードだと、レイフィルが教えてくれた。

「白湯というのも味気ないからね。うちには子供向けの飲み物なんかはないから、こんなものしかすぐには用意できないんだけど、さっぱりしたもののほうが飲みやすいかなと思ったから。美味しくなかったかな?」

 レイフィルは申し訳なさそうに言ってきたが、ミアは首を横に振った。レイフィルにとってはレモネードというのはたいした飲み物ではないのかもしれないが、ミアにとっては極上の美味だったのだ。美味しくないはずなどない。ミアは普段、水しか飲んだことがないのだから。それも深夜のうちに公園の水飲み場で汲んできて汲み置きしておいた水ばかりだ。火を熾すことは自分の存在を周囲に喧伝することになるのだから、白湯だってほとんど口にできない。こんなに美味しいものは飲んだことがなかった。

 ミアは与えられたレモネードを時間をかけてゆっくりと飲み、一滴も残さずにカップを空にした。飲み終えてしまってようやく、ミアは自分の喉が渇いていたのだということを理解する。喉を水分が通ったことでミアはこれまでよりもずっと楽に息をつけるようになった。レイフィルに礼を口にする言葉も、滑らかに出てくる。ほんの少しだけ、心地よくなれた気がした。

 レイフィルはカップが空になってしまうと、ミアを再び寝かしつけてキッチンに向かっていった。ミアはその動きを目線で追う。すると再び視界のなかにテレビが入ってきた。飲んでいる間は彼の身体に隠れて見えなかった画面がまた見えるようになる。ミアはなんとなくそちらに視線を向けた。いちばんミアにとって楽な姿勢になると、自然に画面が視界に入ってくるのだ。

 ――あ、あの時の家が映ってる。

 画面にはそのときちょうど、ミアにとって見覚えのあるものが映っていた。あの夜、女の子が殺されたのを見た、あの家が映っている。あの夜の凄惨な光景は今もミアの心に焼きついていた。そう簡単に忘れられるものではない。ヴァルダとして路上や廃屋で暮らしてきたミアは、今まで他人の死など数多く見てきたが、それでも悲鳴とともに殺害される様を目の当たりにしたのはあの日が初めてだったのだ。

 画面には片隅に犯人逮捕という文字が表示されている。読み書きの教育など受けたことがなく、読める文字に非常に限りのあるミアには、その文字が文字であることは分かっても何を意味しているのかは分からなかったが、しばらくしてふいに画面に現れた、一人の若い男の顔写真に怪訝に思った。画面はあの家の映像を流した後、そこを背後にして話す女性を映してから、その男の顔写真に切り替わったのだが、誰だろうと思ったのだ。ミアにはまったく見覚えのない顔だったからだ。

 ――誰?この人。

 なぜこの男の顔写真が、これほどに大きく映し出されているのだろう。この男はいったい誰なのだろうか。あの家で起きた殺人事件に関係のある人物なのか。あの家で殺されたのは女の子のはずだが、あの家でこの男も殺されていたということなのだろうか。あの家では確か一家が惨殺されているはずだから、この男があの女の子の家族で、同じ日に殺されていたとしてもおかしくはない。少なくとも彼は犯人ではありえないのだから。ないはずだろう。あの女の子を殺したのは、もっと屈強な、別の男なのだから。

 しかしミアの、決して公にすることはできない記憶に基づくその推測は、すぐに間違いであると教えられることになった。男の顔写真にある文字が重なるようにして表示されたからだ。被疑者と。男の顔写真には被疑者という文字が被さっている。

 被疑者。その文字の意味はミアも理解することができた。かつて母が警察に捕らえられた時、見たことがあったからだ。被疑者というのは犯人と同義に用いられる言葉のはずだ。少なくとも被害者や犠牲者に対して使う言葉ではない。そのはずだった。なのになぜ、被害者であるはずのあの男の顔写真に、被疑者という文字が付いているのだろう。これではまるで、あの顔写真の男があの女の子を殺したかのようではないか。

「・・どうして」

 思わず呟いてしまった。するとそれが聞こえたのか、レイフィルがこちらを振り返ってくる。

「どうした?」

 訊ねられて、ミアは思わず開いてしまった口を慌てて閉じた。危ない。うっかりあの夜のことを喋ってしまうところだった。レイフィルはどんなに善人そうに見えても刑事なのだ。下手なことを口走れば、この場で捕まってしまうのはミアのほうだ。

「気分が悪いのか?」

 ミアは首を振った。なんでもないです、と答える。だがレイフィルはなおも訝しそうにミアを覗き込んできた。

「本当か?無理はしなくていいんだからな」

「大丈夫です。・・あ、あの、何かあったんでしょうか?」

 え、レイフィルは突然の質問に戸惑ったようだった。ミアは黙って彼の背後にあるテレビを指差す。レイフィルは僅かに振り返って、ああ、と得心したような表情を見せた。

「殺人事件だよ。昨夜、この近くであってね。物騒なことだけど、もう犯人は捕まったから大丈夫だよ」

 レイフィルはテレビに歩み寄っていった。彼がスイッチを操作すると、スピーカーから音声が流れてくる。

「――その、写真の、男の人が犯人、なんですか?被疑者って、犯人のことですよね?」

「そう。よく知ってるね。そう考えても大丈夫だよ。裁判が終わるまでは推定無罪といって、厳密には犯人とは言わないから被疑者という言葉を使うんだけど、しっかりとした証拠とか証言とか、あるいは自白がないと逮捕には踏み切らないから、だいたいは被疑者となった人物が犯人になるね」

 しっかりとした証拠と証言。ミアはレイフィルのその言葉を胸中で繰り返してみた。

「――どんな、証拠があったから、この人は逮捕されたんですか?」

 恐る恐る訊ねてみる。するとレイフィルは指紋だと教えてくれた。あっさりとした口調だった。特に秘密にしておかなければならないことではないのかもしれない。

「街での様子がおかしかったんで、警邏隊員が警察署まで連れていったら指紋が一致したんだよ。犯行現場となった家には犯人の指紋が残されていたからね。それと照らし合わせてみたんだ」

 ミアは息を呑んだ。

「――本当に、残されていたのはその人の指紋だったんですか?」

「そうだよ。検査したのは私じゃないけど、間違いなく一致したのでなければ逮捕になんか踏み切るわけがないからね」

 レイフィルは当たり前のことを語るような感じで答えてくれたが、しかしミアはそれでもはや彼に対して返答を返すことができなくなってしまった。ミアは今の言葉であの時に見た殺人事件がどういうふうに解釈されているのかを理解できたような気がする。きっと何か、ミアには分からないようなところに重大な事実の誤認があるのだ。そのために、全く違う人物が犯人と思われているのではないのか。もしもそうだとするならテレビのなかの「被疑者」は、ありもしない罪を着せられた被害者ということになる。しかし、そんなことがミアに言えるわけがなかった。自分が見た人物と、テレビに映った被疑者の顔が異なるなんて口にできない。それを言うためには、ミアが昨夜、あの家の隣家に盗みに入ったことを言わなければならないからだ。そうすれば、ミアのほうが捕まってしまう。今はまだレイフィルも単に親切であるだけの他人にすぎなくても、彼とて刑事である以上は、ミアが窃盗をしたと知れば見逃したりはしないだろう。そうなれば彼はミアの敵になるし、そうなってしまえばミアはすでに敵に囚われているも同然だった。言えば必ず捕まる。そして捕まってしまえば、ミアの言葉が聞き届けられるなんてことは絶対にない。ヴァルダの言葉なんか、誰も聞きはしないのだから。普通の市民なら懲役で済む罪でも、ヴァルダの場合は極刑もありえるほど、この国の人間はヴァルダの存在を邪魔なものとして扱っている。ならばミアが何を言おうと、あの「被疑者」の男の運命が変わることはない。ミアが自分の生命を危険にさらすことになるだけだ。絶対に言うべきではない。何も言ってはならない。

「――ミアちゃんは、何かそのことに対して疑問があるのかな?」

 ふいに問いかけられた。必死で口を噤んでいたミアは急いで首を横に振る。慌てたせいで、軽い眩暈がした。

「い、いえ。疑問なんて、何もありません。ごめんなさい、変なことを言って」

 謝ると、今度はレイフィルのほうが慌てたように首を振ってきた。

「謝ってもらうようなことじゃないよ。そういうことは時々あるからね。警察だって誤認や間違いは犯すから、捜査手法に疑問が投げかけられることはそんなに珍しいことじゃない。だから被疑者を逮捕した後も弁護士が、事件のことを独自に調べたりするんだ。我々も、指紋が一致したからといってすぐに捜査を終わらせたりはしないよ。他にも物証があるかもしれないから、被疑者の自白に基づいて事件現場を再検証したり、被疑者の家を捜索したりして場合によっては家族や知人からも色々と事情を聞いたりする。あの事件にはひょっとしたら目撃者がいるかもしれないから、そっちの捜索にも力を尽くさないといけないし」

「目撃者?あの、その事件には目撃した人がいるんですか?」

 意外に思った。深夜に家のなかで起きた殺人事件を、自分以外に誰が目撃できたというんだろう。

 ミアは内心で首を傾げたが、レイフィルは深く考えた様子もなく、いるよ、と気軽な感じで頷いてきた。

「正確にはいるかもしれないと私が勝手に思ってるだけだけどね。昨夜の殺人事件があった家は、すぐ隣にも住宅があるんだけど、そこの家にちょうど事件があった頃、誰かが忍び込んだ形跡があったから。あの事件には今のところ誰も目撃者はいないんだけど、そういうことがあったんならひょっとしたらということもあるんだよ。そこの家に忍び込んだ泥棒が何かを見た可能性もある、ということだ。とても低い可能性だけど、もしもその泥棒が窓越しとかにでも犯行の瞬間を見ていたりしたら、キキとかいう男の犯行が裏付けられる有力な証拠がもう一つ、手に入ることになる。泥棒に荒らされていた辺りからは、ちょうど被害者の一人が殺された部屋が一望できたからね」

 レイフィルの口調はまるで雑談でもするかのような軽い感じだった。実際、彼はそのつもりなのだろう。話していることも、秘密にするようなことでもなんでもなく、ミアが聞いても何の問題もないに違いない。しかし、ミアはとてもそんな気分で彼の言葉を聞いていることはできなかった。レイフィルの言葉を聞けば聞くほど心が騒ぐのを感じる。ミアは唇を噛んでうっかり言葉が漏れてしまわないよう意識して声を殺した。いま何か喋ったら、言わなくてもいいことまで言ってしまいそうで怖かった。顔から血の気が引いていくのも分かる。これほど早くに自分の犯した行為が露見するとは思っていなかった。瞬間的に恐怖が湧き上がってくる。

 ――大丈夫よ。まだこの人は気づいてない。気づいてないはずだわ。だから大丈夫。口を噤んでいれば大丈夫よ。口を閉じていれば何も言えないんだから。何も言わなければ捕まったりしない。だから大丈夫。

 ミアは心のなかで、ひたすら自分にそう言い聞かせ続けることでその恐怖を追い払おうとした。


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